第84話
第84話 同じ現場で(合同任務・前半)
足音が、増えている。
哨戒に出て半刻も経たないうちに、ユノが足を止めた。声には出さず、指だけで方向を示す。数の話までは分からない、たぶん群れの端だ、と。
中層に入ってから、これで三度目の警戒信号だった。前の二回は、何も出なかった。
「今度は、外れじゃなさそうです」
ユノの声が、いつもより硬い。
朝の空気は、まだ冷たかった。ボルクが大きなあくびを一つして、フィンに小突かれていた。
「シャキッとしろよ、隊列組む前だぞ」
「うるせえ、寝てねえんだよ」
いつもの調子だった。少なくとも、そのときまでは。
ニアだけは、いつも通り、控えめに列の端に立っていた。誰かに何かを言うでもなく、ただそこにいる。
集合場所には、俺たちより先に、見覚えのない顔が一人、並んでいた。
白に近い法衣をまとった少女だ。神殿の推薦を受けた治癒師だと、マルクが小声で教えてくれた。エレノア・セラフィス。昨日の顔合わせには、いなかった顔だった。今日から本番だけ合流する、という扱いらしい。
「本番だけ乗り込んでくるとは、豪勢だな」
フィンがそう茶化したが、エレノアは表情も変えず、軽く会釈しただけだった。取りつく島がない、というのとも少し違う。ただ、こちらを見ていない。
噂には聞いていた。実戦経験は少ないが、回復の出力だけは学院随一だと。見た目の線の細さとは、裏腹の話だった。控えの紙の代わりに、白い包帯の束を抱え、指先で、その端を何度もなぞっていた。
出立の前、ミレーユが図面を広げ、今日の担当区域を指で押さえた。
「哨戒目的は二つ。境界線の穴を塞ぐこと。もう一つは、群れの湧く原因を掴むこと。どちらも、まだ答えが出ていない」
昨日は語られなかった中身が、ようやく一言だけ渡された。原因不明、という言葉の重さは、たぶん俺たちより向こうの方が分かっている。ユノが、小さく頷いた。境界線を指摘した張本人だからこそ、余計に気になるのだろう。控えの紙に、何かを書き込んでいた。
持ち場は、あの日ユノが指摘した境界線のすぐ内側だった。図面の薄い場所。ミレーユが特別扱いだと言った一枚を、皮肉にも今日、俺たちが歩いている。
入り口をくぐると、光が急に遠くなった。低層とは違う、湿った空気。学院の闘技場でなら砕けて退場を教えてくれる護り石も、ダンジョンには最初から存在しない。斬られれば血が出る、それだけの現場だった。
フィンが、境界の杭に縄で印をつけていく。
「せめて帰り道くらい、迷いたくないですからね」
軽口のつもりだったのだろうが、誰も笑わなかった。土埃の匂いが、やけに濃い。クラウスは終始、腕を組んで何も言わない。
最初の一匹が地面から出た音は、蓋を開けるときの音に、よく似ていた。
乾いた殻を持つ、小さな群体。一匹一匹は掌ほどの大きさしかない。だが、数えるのをやめたくなる数が、境界の薄い場所から次々と湧いた。一匹ずつの動きは、さして速くない。それなのに群れ全体で見ると、狙った隙間だけを正確に見つけて広がっていく。まるで、一つの意志を持っているようだった。
「三時、七時、それと——足元!」
ユノが、真っ先に声を上げた。小さいが、外さない声だった。判断は、その一声で早まった。
「散開!」
ガレスの号令が飛ぶ。盾を持つ者を軸に、二班へ分かれる。だが群れは、盾の継ぎ目を嫌というほど知っていた。壁を作るより先に、隙間へ潜り込んでくる。
ユノの声が、途切れながらも指示を継いだ。
「左、抜けた! 右の壁、薄い!」
指示は、そのまま動きに変わっていく。
俺は熱を放ち、目についた殻の継ぎ目を炙った。急な温度差で、細い罅が入る。だが、数が多すぎる。狙って割る速さより、湧いてくる速さの方が上だった。それでも、進路を逸らす足止めにはなる。指先が熱を持った気がしたが、火傷の気配はない。
悲鳴は、その逸らしきれなかった先から聞こえた。フィンだった。
頭の中が、一瞬、白くなる。踏み出す足が、いつもより重かった。
こんな時でも、頭の隅で計算しようとした。焼き切るには、何秒——舌打ちが、喉の奥で止まる。答えは、出なかった。
駆けつけたときには、遅かった。
殻の小さな顎が、フィンの右腕に、いくつもまとわりついている。引き剥がす端から、また次が食い込む。声は、途中から言葉にならなかった。
「引け、そこ引け!」
ミレーユの声が裏返っていた。指揮官らしい落ち着きは、そこにはなかった。
ボルクが体ごと割り込み、群れを殻ごと踏み潰していく。クラウスの手から伸びた見えない糸が動きを縫い止めようとしたが、一本、ボルクの足にも絡みかけた。
「動くな、切るぞ」
クラウスの短い舌打ちのあと、糸が軌道を変える。《封鎖》——進む先を、片っ端から塞いでいく力だと、あとで知った。数十秒か、数分か——気づけば、辺りは静かになっていた。
残ったのは、埃と、割れた殻の匂いと、荒い息だけだった。妙なのは、群れの出てくる方向だった。決まって、境界の薄い場所からしか湧かない。他の場所からは、一匹も現れなかった。
エレノアが両手を広げると、淡い光が輪になって広がった。
擦り傷、打撲、浅い裂傷。光が触れるそばから、傷が塞がっていく。ミレーユの膝の血も、俺の腕の痣も、まとめて消えた。歓声はなかったが、それぞれが自分の体を確かめる、静かな安堵の間があった。
立ち上がれない者は、いなかった。
フィンを、除いては。
誰も、次の言葉を継げなかった。目を開けたまま、動かない。腕の傷は、確かに塞がっている。皮膚は繋がり、血も止まっていた。だが、息が浅い。指先は、氷のように冷たかった。
「治っているのに……」
エレノアの手が、初めて止まった。
「なぜ」
ニアが、膝をついた。誰の許可も待たなかった。
フィンの手首を握り、それから、首筋に指を当てる。しばらく、何もしない。ただ、聞いているようだった。脈は、指先で数えられるほど遅い。それでいて、乱れてはいなかった。手のひらは冷えているのに、湿ってはいない。焼き戻りとも、失血とも違う冷え方だった。
少しの間、ニアは黙っていた。判断に迷っているのか、確かめているだけなのか、俺には分からなかった。
「傷は、もう平気です」
ニアが、静かに言った。
「戻ってきていないのは、体の方なんです」
脈を握ったままの指先で、そう言った。
エレノアが、何か言おうとして、口をつぐんだ。言葉が、見つからなかったらしい。
両手を、フィンの胸に当てる。エレノアのものより、ずっと小さな光だった。一瞬、揺らいで、消えかけた。
呼吸が、一つ、また一つと深くなっていく。指先の色が、戻ってくる。頬に、わずかな赤みが差した。
もう大丈夫だ、と思った。だが、フィンの目は、まだ閉じたままだった。
長く感じたが、実際は、そう長くはなかったはずだ。
フィンが、咳き込んだ。
「……いってぇ」
声は出たが、体を起こすまでには、もう少し時間がかかった。
いつもの軽口が戻ってきた瞬間、ボルクが片手でフィンの頭をわしづかみにした。
「二度とやるなよ、莫迦」
乱暴な手つきの奥で、指先が、ほんの少し震えていた。
エレノアは、その一部始終を、少し離れた場所から見ていた。割り込もうとはしなかった。腕を組んだまま、じっと。
彼女は、動かなかった。組んだ腕の指先だけが、白かった。
視線だけは、最後まで、ニアの手元に注がれていた。
マルクの「行けば分かるだろう」の意味が、今、少しだけ分かった気がした。
撤収の支度が始まっても、ミレーユは境界の杭を一本ずつ見て回っていた。原因は、今日も分からずじまいだ。
フィンは自分の足で立ち上がり、痛む腕をさすりながら、控えの紙をユノに借りている。ボルクが、フィンの背中を軽く小突いた。加減はしていたが、フィンは大げさによろけて見せた。
帰り道、日はもう傾き始めていた。口数は、いつもより少なかった。ニアの目だけは、歩くフィンの背中を、まだ追っていた。離れがたいだけなのかもしれない。俺は、そう思うことにした。
訓練棟の手前で、エレノアが、ニアの方へ歩み寄った。
迷うような間があった。
「あなたは、何を見て治しているのですか?」
ここまで読んでくださってありがとうございます。
星冠第一班との合同哨戒、本番回でした。新顔のエレノアと、外棟班のニア。二人の治し方の違いを書きたくて始めた回です。
次話(合同任務・後半)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




