第82話 予選
護り石の紐を、もう一度締め直す。手のひらに、汗がにじんでいた。
イザークの署名は、あっさり取れた。「くだらん条項だ」と一言だけ言って、ろくに読みもせずに判を押した。あの偏屈さに、初めて助けられた。
だが、それで参加が決まったわけではなかった。登録の枠には、もう一つ条件がある。予選を、勝ち抜くこと。相手は抽選で決まった。
控え室を出ると、外はよく晴れていた。舞台へ続く回廊には、これから戦う他班の生徒たちの話し声が、いくつも重なって響いている。誰も、俺たちの名を知らない。それでいい。
控え室の壁際で、リオネルが控えの紙を広げ、最後にもう一度だけ手順を確かめる。
「役目は変えない。ただ、予定通りとは限らない」
勝ち負けが、すべてじゃなかった。今日は、戦い方そのものも見られている。星冠選抜戦の登録は、そういう建前になっていた。
「言うのは簡単だけどな」
ボルクが、護り石の帯を締めながら、ぼやいた。誰も、それに答えなかった。分かっていて、口には出さないだけだった。
観客席の一角に、見覚えのある顔を見つけた。カイルだ。処分歴の一件で、今日は出場を見送っている。腕を組んだまま、こちらを見下ろしていた。何も言わず、小さく顎だけ動かす。それだけで、十分だった。
さらに後ろの列で、ゼクトが煙管を燻らせている。「今日は風向きが良くない」と、誰にともなく呟いていた。試合とは、何の関係もない話だった。
対面の入場口から、見覚えのある三人が歩いてくる。先頭の男と、目が合った。
「レンか」
グレンが、それだけ言った。三つ星上位、四つ星候補。火属性の名門。あの稽古で、俺を一方的に叩きのめした男だった。
「今度は、団体戦か。一人じゃ勝てないから、数を揃えれば勝てるとでも思ったのか」
「勝てるかどうかは、やってみないと」
「相変わらず、まっすぐ答えないやつだな」
グレンの後ろに立つ二人には、見覚えがなかった。片方は大柄で、鉄の盾を提げている。「潰すだけの仕事だ」と、低く笑っていた。もう片方は、開始の合図を待つ間も、指先で小さく炎を遊ばせている。落ち着きのない男らしい。二人とも、三つ星の中堅どころだと、リオネルの控えの紙には書いてあった。
審判役を務める教官が、舞台の中央に立って、規則を読み上げる。制限時間内に、より多く相手を脱落させたほうの勝ち。聞き飽きたはずの文句だったが、今日だけは、いつもより長く感じた。
開始の鐘が鳴った。
舞台には、柱や瓦礫が点々と置かれている。ただの空き地じゃない。遮るものがあるほど、動ける道は増える。出力で劣る側には、むしろありがたい造りだった。
先に仕掛けたのは、向こうだった。盾の男が突っ込み、隊列を崩しにかかる。ボルクが正面から受けた。石と石がぶつかるような音がして、両者とも止まった。互角。悪くない出だしだった。
「左、薄いです。三度目の踏み込みで開きます」
ユノの声が、後方から届く。感知した相手の護り石の傷み、その一点だけを、迷いなく告げていた。
フィンの糸が、地を這って伸びる。盾の男の足元に絡んだ、はずだった。だが、糸は空を切った。読みより、一歩、踏み込みが速い。
「外した」
フィンが、珍しく焦った声を出す。連携の起点が、いきなり崩れた。
立て直す間もなく、炎使いの男が動いた。手のひらから放たれた火の玉が、リシアの薄膜に当たって逸れる。狙いは俺だったらしい。逸れた炎が、隣の柱を黒く焦がした。
「無駄弾、増やしすぎです」
リオネルの声が、舞台の外から飛んでくる。試合には出られない立場だが、記録用の高台から、ずっと動きを追っていた。
「向こうの炎使い、三発に一度、右足の踏み替えが遅れます。癖です」
それだけで、十分だった。
俺は、その一瞬を待った。踏み替えの遅れた右足の側、炎の届かない薄い帯を見つける。前より、狭い。だが、ないわけじゃない。
踏み込んだ。狙いは、炎使いの護り石の左側――のはずが、わずかに逸れる。焦った分だけ、精度が落ちていた。掠っただけで、砕けはしない。
「甘いな」
グレンの声が、笑っていた。図星だった。ボルクの護り石を留める帯が、さっきの衝突でずれている。直す暇はなかった。
だが、崩れた体勢のまま、ボルクが盾の男を強引に押し返す。生まれた隙へ、フィンの糸が、今度こそ届いた。足首に絡み、動きを一拍だけ止める。
その一拍。
リシアの膜が、炎使いとグレンのあいだに、薄く割って入った。二人の連携を、そこだけ断ち切る。
俺は、もう外さなかった。狙いは、最初から変えていない。踏み替えの遅れる右、その継ぎ目の奥、護り石のいちばん脆いところへ。
熱を、そこへ正確に打ち込んだ。
鈍い音とともに、炎使いの護り石が砕けた。脱落。
残るは、グレンと盾の男、二人だけになる。
「一人減ったくらいで」
グレンが、両手に炎を集める。だが、その熱の広がりを、俺はもう知っていた。均一じゃない。濃いところと、薄いところがある。あの日、逃げるだけで精一杯だった熱の地図を、今は、味方と一緒に読んでいる。
「ユノ、盾のほう」
「右肩、あと一撃です」
ボルクが頷き、短く息を吐いて、盾の男の右肩へ、体ごとぶつかっていった。
一度目は、盾に阻まれた。ボルクの護り石が、鈍く軋む。だが、体勢を崩さないまま、二度目を叩き込む。盾の男は、何も言えないまま、盾ごと後ろへ弾かれた。地面に転がった拍子に、護り石が砂利の上で二つに割れた。二人目、脱落。残るは、グレンだけだった。
観客席が、少しずつざわめき始めていた。最初は、格上のグレンの班が数だけの外棟班をねじ伏せるだろうと、ひやかす声のほうが多かったはずだ。今は、それもすっかり静かになっている。代わりに、戸惑いに似た声が増えていた。誰も、こんな展開は予想していなかったらしい。
グレンの炎が、俺を焼こうと大きく広がる。その綻びを、俺は縫うように抜けた。以前と同じだ。逃げることだけなら、今も得意だった。
「そこかっ」
グレンの声に、苛立ちが混じる。狙いを、俺一人に絞ってきた。
「ユノ、グレンの護り石は」
返事が、一拍遅れた。
「……分かりません。動きが速すぎて、まだ捉えきれません」
初めて聞く、迷いのある声だった。感知が届かないなら、自分の目で探すしかない。
だが、俺は、逃げているだけじゃなかった。崩れた柱の陰に、一度だけ身を隠し、頬を焼きかけた次の炎をやり過ごす。
横から、ボルクが気配だけで牽制に入った。グレンの意識が、ほんの一瞬だけ、そちらへ流れる。
今だ。
細い筋を辿って、右側へ回り込んだ。
リシアの膜が、逃げ場になりそうな道を一つ、静かに塞いでいく。
「終わりにするぞっ」
最後の一撃が、放たれる。
あの日と同じ、大振りの爆炎だった。だが、あの日とは違う。俺は一人じゃない。フィンの糸が、グレンの足元に、もう一本、静かに這っていた。誰か一人が欠けても、今のは成立しなかった。
熱の、いちばん脆いところへ。
俺は、そこへ届かせた。
護り石が、鈍い音を立てて割れる。
観客席が、一瞬、完全に静まった。それから、誰かの拍手を皮切りに、どっと沸いた。遠くの音のように聞こえた。両膝に手をつくと、指先が、まだ細かく震えている。
グレンが、その場に立ち尽くした。腕が、中途半端な位置で止まっている。あの日、稽古場で俺を炎の壁ごと追い詰めた時と、寸分違わない構えだった。それに、自分で気づいたのだろう。グレンは、ゆっくりと腕を下ろした。
何か言いかけて、止める。もう一度、口を開いた。
「……お前」
名前でも、姓でもなかった。それだけを言って、グレンは、あとを続けなかった。
俺も、口をつぐんでいた。代わりに、砕けた護り石の欠片が転がる地面を、しばらく見下ろしていた。
勝敗を告げる鐘が鳴る。誰も、大声で喜んではいなかった。ボルクは、緩んだ帯を締め直しながら、ただ小さく息を吐いた。ユノは、感知を切ったまま、しばらく動けずにいる。
「最初の、悪かった」
誰も、返事をしなかった。フィンは、それでも、もう一度、同じ言葉を小さく繰り返していた。
控え席のカイルは、もう腕を組んだままではなかった。何かを言いかけて、結局、拳を軽く握るだけに留めていた。
高台から降りてきたリオネルが、記録の紙を胸に抱えたまま、静かに言った。
「勝つのではなく、評価条件を満たす戦い方があります」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。第35話以来の再戦、今回は仲間との連携でようやく届かせることができました。次はいよいよ星冠選抜戦、本編の入り口です。よろしければブックマーク・感想、励みになります。




