第81話 参加資格の危機
署名欄は、まだ空白のままだった。
窓の外、朝の光が差し込んでくる。昨夜、ほとんど眠っていない。リシアは、カイルの様子を見てくる、と言って寮に残った。今日ばかりは、二手に分かれたほうがいい。誰も、それに異論を挟まなかった。
控えの紙には、リオネルの字で、当たる相手の名が三つ、几帳面な筆跡で順に並んでいた。上から順に潰していく。他に、思いつくやり方は、なかった。
狙いは一つ。カイルの処分歴に、推薦者の署名を一枚、乗せること。それさえ揃えば、参加資格そのものは動かない。
「マルク先生なら、外棟担当ですし、話は早いはずです」
リオネルが、控えの紙を鞄にしまいながら言う。俺たちは、朝一番でマルクの部屋を訪ねていた。書類の山は、今日も変わらず高い。
「悪いが、それは、俺程度の肩書きじゃ足りない」
マルクは、机の書類から目を上げもせずに言った。積まれた紙の山は、昨日より、また少し高くなっている。ペンを持つ手だけが、止まっている。
「外棟担当教官は、正教官の下に置かれる役職だ。お前たちが必要としているのは、俺より上の人間の署名だ」
「マルク先生の立場でも、足りないんですか」
「足りない。俺が口を出せる範囲じゃない」
言われて、初めて分かった。マルクなら何とかなると、俺は勝手に決めつけていた。読みが、甘かった。
「心当たりは」
「一人だけ、思いつく名はある。だが、俺の口からは言わん。お前たちが、自分の足で当たれ」
名を教えないのは、優しさなのか、保身なのか。判断がつかなかった。マルクは、それきり、また書類に目を戻した。ペンの先が、紙に触れる、かさ、という音だけが、積み上がった書類の隙間から、部屋に残った。手を止めなかったのは、もう話すことがないという合図らしかった。
部屋を出る間際、振り返らずに、もう一言だけ聞こえた。
「急げ」
それだけだった。優しい言葉ではなかったが、突き放す響きでもなかった。廊下に出ると、リオネルが、控えの紙を握り直していた。次の名前へ、指がもう動いている。
こんなところで足止めを食らうために、村を守ったわけじゃない。柵の焦げ跡を思い出すたび、腹の底が、また少し熱くなった。誰かに当たれば済む怒りでもなく、ただ行き場を失っていた。
次に向かったのは、実技教官のディートの部屋だった。出力と耐久を重んじる男で、俺の火をいつも低く見ている。それでも、話が早いと踏んだ。
「星冠選抜戦の特例参加に、カイルの推薦者としての署名が要るそうです」
「話は、もう聞いている」
ディートは、腕を組んだまま、視線だけをこちらに向けた。壁際に立てかけられた大剣が、朝日を鈍く反射している。
「実績は、記録に残っている。査問のあとの結果も含めて、それは、認める」
「なら、署名を」
「名を貸すことは、できん。評定長の目に留まる真似は、今はしたくない」
「ディート先生でも、ですか」
また同じ聞き方をしている自分に気づいた。マルクのときと、何も変わっていない。二度目は、たいして効かないと分かっていたのに。
「今、首を突っ込めば、目を付けられて終わりだ。守れるものも、守れなくなる」
言いかけて、ディートは、少しだけ声を落とした。
「……この時期に、こんな細かい条項が急に増えるのも、妙な話だとは思うがな」
言い終えると、また視線を、大剣の手入れに戻した。
自分の身を守る話をしているだけなのに、その言い方には、迷いがなかった。誰かを責めるより先に、自分の立場を測って動く。それも、一つの生き方なのだろう。恨む気にはなれなかった。
正直な男だった。取り繕う気もないらしい。それだけに、断られたことよりも、その正直さのほうが、こたえた。リオネルの手元で、ペンが、意味もなく一度、回った。
部屋を出てすぐ、廊下の窓に、朝の光が斜めに差し込んでいた。掃除係の生徒が、床を拭きながら、俺たちの横をすり抜けていく。誰かが口ずさむ鼻歌が、廊下の奥から、かすかに聞こえた。いつもと変わらない朝だった。それが、今は、やけに腹立たしかった。
「二人とも、正直、ですね」
リオネルが、短く言う。声に色はなく、表情も動かなかった。
廊下を歩きながら、リオネルが、控えの紙をもう一度めくる。
「カイラ先生は、今日はギルド実習で外に出ています。戻りは、夕方以降かと」
時間が、また削られていく。締め切りは、今日中だった。
「残るは、イザーク先生ですね」
「特別講師室にいるはずですが……気難しい方だと、聞いています。低等級や外れ者ばかり観察している、少し変わった先生だとも」
リオネルの指が、控えの紙の端を、無意識に折り曲げていた。この状況で頼れる相手が、変わり者しか残っていないというのも、なんだかできすぎた話に思えた。
それでも、他に当てはなかった。特別講師室は、中庭を挟んだ棟の奥にある。近道は、その中庭を突っ切るしかない。
中庭には、すでに人だかりができていた。渡り廊下の間には、真新しい垂れ幕が、二枚、風にはためきながら張られている。誰かが用意した花まで、掲示板の脇に飾られていた。掲示板の前に、正教官の一人が立ち、声を張り上げている。
「星冠選抜戦、第一班の正式紹介を行う!」
声とともに、六つの名が、順に読み上げられていく。前衛中央、セイル・ノルディア。前衛防御、ガレス・ヴァルド。中衛攻撃、オスカー・レグナイト。中衛妨害、クラウス・ベルディア。後衛指揮、ミレーユ・アストラン。後衛回復、エレノア・セラフィス。
後衛指揮の名だけ、リオネルが、小さく手元の帳面に書き留めていた。何のためかは、聞かなかった。
名が読まれるたびに、拍手が起こる。迷いなく、当然のように、迎え入れられている。掲示板の隅では、誰かが飾りの垂れ幕を結び直していた。今日ばかりは、それすら眩しく見えた。
六人とも、揃いの外套を身につけていた。手の震えは、どこにも見えない。並んでいるだけで、それが分かった。
俺たちは、その輪の外側から、それを眺めていた。
「六人、揃うと、絵になりますね」
リオネルが、ぽつりと言う。皮肉でも、羨みでもない、ただの感想のような声だった。答える言葉が、すぐには出てこなかった。
俺たちは、まだ十二人揃っていない。予選にすら、立てるかどうかも分からない。それでも、あの垂れ幕の下に立ちたいと思っているのかと聞かれたら、正直、自分でもよく分からなかった。ただ、立たせてももらえないまま終わるのだけは、我慢がならなかった。
人だかりの向こうから、白い息を吐きながら、セイルが歩いてくるのが見えた。稽古帰りらしい、簡素な装いのままだった。
「署名の件、まだ、決まっていないのか」
挨拶もなく、そう聞かれた。噂は、もう回っているらしい。
「署名を集めています。時間との勝負です」
「そうか」
それだけ言うと、セイルは、しばらく黙って、掲示板の名を見ていた。自分の名も、そこにある。
「悪いようにはしない、とは言わない。私が口を出せば、かえってこじれる場合もある」
「分かってます」
「それでも、聞いておきたかった」
セイルらしい言い方だった。助けると言わず、放っておくとも言わない。ただ、確かめに来ただけらしかった。それだけのことに、なぜか、少し救われた気がした。今の自分に、何を言われても大して変わらなかったはずなのに。
セイルの目が、俺の方へ戻る。
「星位ランキング戦は、私個人の名誉の話じゃない。前に、そう言ったな」
「覚えてます」
「星冠選抜戦も、同じだ。ここに立つ十二人だけの話じゃない」
セイルは、そこで一度、言葉を切った。掲示板の垂れ幕が、風に、小さく揺れている。
「君たちが出ないなら、この戦いは半分だ」
それだけ言うと、セイルは、また稽古場の方へ歩いていった。振り返る素振りさえ、見せなかった。白い息だけが、しばらく、そこに残っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。第5部・星冠選抜戦編がスタートしました。まずは参加資格をめぐる地味な攻防からですが、次はいよいよ第一班との接触が本格化していきます。よろしければブックマーク・感想、励みになります。




