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第80話 すでに動いている妨害

 寮の天井が、やけに白く見えた。


 村の煤けた梁ばかり見ていたせいだ、と気づくまで、少しかかった。二日ぶりの、清潔な布団だった。


 王都に戻ったのは、昨日の夕方のことだ。門をくぐっても、誰も歓声を上げなかった。当たり前だ。ここでは、村の一件など、誰も知らない。馬車を降りたとき、足元が、まだ少し揺れている気がした。長く揺られていたせいか、それとも、別の理由か、自分でもよく分からなかった。


 荷を解く間もなく、それぞれの寮へ散っていく。リオネルは帳面の整理に、ニアは薬箱の補充に、それぞれ潜り込んでいった。カイルは、右手の包帯を見せに、朝一番で医務室へ向かったと聞いた。サラの応急処置じゃ心許ないと、誰かに冷やかされていた。ボルクとロイは、後片づけを手伝うと言って、村に残ったままだ。口を開く者は、誰もいなかった。言葉にするには、早すぎた。


 母さんが持たせてくれた、あの封じられていた記録は、鞄の底に、そのまま入ったままだ。開いていいものかどうかも、決めきれずにいる。


 村を出る間際まで、ユノが気にしていた、地面の奥の、あの揺れ。倒したはずの獣の死骸からではなく、もっと下から響いていた。あの音の正体は、結局、分からないままだった。研究院の隠蔽も、父さんの古傷も、頭の隅に引っかかったまま動かない。ゼクトが零していた「師匠が足を失った遠征と、同じ匂いがする」という一言も、同じだった。ただ、輪郭だけは、少しずつ、見え始めていた。


 誰かに話したところで、どこから話せばいいのかも分からない。今は、それでよかった。急いで言葉にすれば、大事なところを取りこぼす。そんな予感があった。


 食堂の裏で、誰かが、干していた服を取り込み忘れたと騒ぐ声がした。二日、雨に打たれっぱなしだったらしい。誰のかまでは、聞こえなかった。


 昼過ぎ、マルクが、外棟の共同室に顔を出した。手にしているのは、いつもの分厚い束ではなく、封筒が一通だけだった。


「星冠選抜戦の件だ。特例参加の、正式な通知が来た」


 裏返しのまま、机に置く。すぐには見せない、いつものやり方だった。封筒の端が、少しだけ折れている。誰かの手を、何度か経由してきたような跡だった。


 共同室に居合わせたのは、俺とリシア、それにリオネルだけだった。他の連中は、寮の自室に籠もったままでいる。


 リシアが、真っ先に、封筒に目をやった。


「正式ってことは、もう通ったってことですよね」


「読め。俺が口で説明するより、そのほうが正確だ」


 言いたいことだけ言うと、マルクは、部屋を出ていった。呼び止めることさえ、できずにいた。


 封を切ったのは、リオネルだった。紙は、いつもの学院用箋より、少し厚い。角も、きっちり切り揃えられている。書面に目を走らせる速さが、途中から、目に見えて落ちていく。


「……あの」


「どうしたんだ」


「登録の締め切りが、変わってます。前より、一週間、早い日付に」


 言われて、俺も覗き込んだ。数字の並びは、確かにそうだった。日付の横に、小さく訂正印が押してある。急いで直した跡には、見えなかった。だが、それだけなら、単なる日程変更にも見える。


「早まっただけだろう。日程がずれても、急いで対応すればいいんじゃないか」


「問題は、日付じゃなくて、そこじゃないんです」


 リオネルが、鞄から、別の紙の束を取り出した。荷造りのとき、四冊目の帳面を諦めたはずなのに、こんな控えまで持ち歩いていたとは思わなかった。以前、配られた最初の要項を、几帳面に写し取ったものだ。二枚を並べ、指で、同じところをなぞる。指先が、少し震えているように見えた。


「この一文、前の要項には、ありませんでした」


 指の先、小さな文字で、一行だけ追加されていた。実習中の処分歴がある者は、推薦者の追加署名が必要、とある。


「これ、まさか、それって本当にそういうことか」


 答えの代わりに、扉が開いた。


 共同室の入り口に、人の気配がした。振り向くと、カイルが立っていた。真新しい包帯を、右手に巻いている。医務室から、まっすぐ来た足取りだった。


「何の話をしてるんだ」


 誰も、すぐには答えなかった。カイルの視線が、机の上の紙に落ちる。読むまでもなく、何かを察したらしい。


「処分歴がある者、ってやつか」


「まだ、正式に決まったわけじゃない」


「もう決まってるようなもんだろ、これ」


 カイルの声に、いつもの軽さはなかった。包帯を巻いた手を、意味もなく握り直している。


「俺が抜ければ、済む話じゃないのか」


 リシアの肩が、小さく揺れた。何か言いかけて、口を閉じる。天井の隅で、蜘蛛が一匹、切れた糸を、また張り直していた。気づいたのは、俺だけだったかもしれない。


「処分歴、ってことは、結局、また前科みたいに扱われるってことだろ」


「そういう話じゃありません」


 しばらくの間を置いて、リオネルが、静かに言った。カイルは、それ以上何も言わず、壁に寄りかかった。


 俺は、何も言わずに、カイルの肩を、一度だけ軽く叩いた。カイルは、それにも答えなかった。ただ、包帯を巻いた手の指が、少しだけ、開いた。


 リシアが、横から紙を覗き込んだ。眉間に、かすかに皺が寄る。


 特例参加が通らなければ、外棟は表舞台に立てないまま終わる。出立の朝、セイルが零していた、氷原の防衛線と予算の話が、頭をよぎった。自分たちの参加不参加が、遠く離れた誰かの暮らしにまで及ぶとは、正直、まだ実感が湧かない。それでも、無関係だとは、もう思えなかった。


「追加署名の期限は、締め切りの前日、明日中です。今日届いたばかりで、明日までに、誰かの署名を取れって」


 リオネルの指が、紙の一点で、止まった。動かなくなった指先から、しばらく、誰も目を離せなかった。


「本当に、誰の署名でも、それでいいのか」


「学院の正教官以上、と書いてあります。ちゃんとした、肩書きのある人の署名が要るそうです。心当たり、ありますか」


 リオネルの声には、焦りより、諦めに近いものが滲んでいた。今まで、こういう場面を、何度も見てきたのかもしれない。


 すぐには浮かばなかった。外棟の担当は、監督者止まりで、正教官の肩書きを持つ知り合いは、数えるほどしかいない。


 査問のとき、こちら側に立って何か言おうとした監督官がいた、と、あとで噂に聞いたことがある。だが、その人は、もう別の任地に回されたらしい。栄転だ、と誰かが皮肉っぽく言っていたのを思い出した。


「心当たりがあっても、動いてくれるとは限らないですよね」


 リシアが、紙から目を離さずに言った。誰に向けた言葉でもなかった。


「偶然、ですかね」


 リシアが、続けて、誰にともなく呟いた。答える者は、いなかった。リオネルの指が、紙の端を、さっきより強く握り直した。


 俺たちが村にいた間、王都では、何も起きていなかったわけじゃない。


 黙って引き下がるつもりは、なかった。ここで退けば、村で守ったものの意味まで、薄れてしまう。右手の骨の重さが、まだ、あの夜の朝を覚えていた。


 カイルが、壁に寄りかかったまま、天井を見上げていた。目だけが、落ち着かない動きをしている。何を考えているのかまでは、掴めなかった。リシアが、そんなカイルを、ちらりと見て、また紙に視線を戻した。


「参加そのものが、通らないかもしれません」


 リオネルが、紙を握ったまま、静かにそう言った。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


黒熱討伐編を乗り越えたと思ったら、今度は王都で新たな壁です。星冠選抜戦への道は、外からも脅かされ始めました。


第4部はここで一区切りです。次はいよいよ第5部、星冠選抜戦編に入ります。引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。ブックマーク・感想、励みになります。

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