第79話 故郷を守る火
右手が、まだ思うように動かなかった。
指を曲げようとすると、骨の芯だけが、ひどく重い。それでも、終わっていない。
「動くな、って言ったはずです」
リシアが、柵の陰から歩いてくる。目の縁が、赤い。徹夜明けの顔だった。
「動いてない。座ってるだけだ」
「握力もないくせに、よく言います」
言い返せなかった。図星だった。
柵の外、そいつは、まだそこにいた。腹を地面に落としたまま、動かない。皮膚の下の光は、半分近く消えている。それでも、残った脈は、確かに脈打っていた。生きている証だった。
柵のあちこちに、昨夜の破片が、まだ散らばったままになっている。誰も、片づける余力を残していなかった。座り込んだまま動かない者、壁にもたれて目を閉じている者。声を上げる元気は、もう誰にも残っていない。空の端が、うっすらと白み始めている。朝までに、決着をつけなければならない。回復されたら、昨夜の分が、丸ごと無駄になる。
この村で育った十五年の間に、こんな朝を、何度も見てきた。魔物素材屋の息子として、傷ついて帰ってくる冒険者たちを、数えきれないほど見送ってきた朝を。今日は、その続きにしたくなかった。
ロイたちは、南の柵で、まだ見張りを続けているはずだった。ここには、来ない。今度は、こちらだけで片づける番だった。誰かが小さく咳き込む音が、遠くで聞こえた。誰の声かは、分からなかった。
いつもなら軽口を挟んでくるはずのボルクも、皮肉屋のロイも、今はどちらも南側に詰めていて、ここにはいない。二人がいない分の静けさが、やけに重かった。
「レンさん、これ見てください!」
サラが、乾いた布の束を抱えて、駆けてきた。頬に、煤がついている。走る途中でつまずいたのか、片方の裾が、泥で汚れていた。
差し出された布ではなく、指の先が示していたのは、そいつの前脚だった。薄く縮んだ皮膚が、白っぽく粉を吹いている。
「他のとこは、まだじっとり湿ってるのに、ここだけ、からから」
「昨日の熱で、水分が抜けたのか」
「たぶん。乾いた皮は、脆いです。触ってみます?」
「いい。信じる」
サラが、少しだけ不満げに、口を尖らせた。全身がもう限界だと、俺は勝手に決めつけていた。実際は、この乾いた一点だけだった。読みが、甘かった。父の店で、幾度となく見てきた皮とよく似ていた。乾き過ぎた革は、叩けば、思ったより呆気なく裂ける。
柵の陰から、カイルが顔を出す。目の下に、濃い隈があった。
「聞こえてた。……でも、俺のは、狙って壊しても、周りごと持ってくことがある」
声に、迷いがあった。いつもの軽口とは、違う。崩落の日のことを、まだ引きずっているのが分かった。壊すことしかできない自分を、誰よりも嫌っているように見えた。
「サラが乾かしてくれた。狙う場所は、もう決まってる」
「決まってるからって、絶対に外さない保証には、ならない」
「保証なんて、端から要らない」
軽く言ったつもりが、思ったより素っ気なく響いた。カイルは、少しの間、そいつの前脚を見つめていた。何も言わず、拳を握り直しただけだった。指の関節が、白くなっている。
不意に、そいつの背が、大きく波打った。
「動いた!?」
誰かが叫ぶ。皮膚の下、消えかけていた光の一部が、また強く脈打ち始めていた。回復しているのか、最後の抵抗なのか。分からないまま、体が先に動いた。地面が、ずしりと一度だけ揺れる。
悲鳴のような声が、遠くで一つ。誰かが尻もちをついた音だった。
「離れて!」
リシアの声が飛ぶ。だが、誰も、下がらなかった。ここで退けば、また一からになる。それは、誰もが分かっていた。
「今しかない、やるぞ」
「ちょっと待って、まだ位置が」
サラの声を、最後まで聞けなかった。
「そこじゃない、もう少し上です! 脈が集まってるのは!」
柵の陰から、地面に耳を当てたままのユノが叫ぶ。いつもの小声からは、想像もつかない声量だった。
カイルの拳が、軌道の途中で、わずかに逸れた。
乾いた皮膚へ、拳を叩き込む。
乾いた、短い音がした。皮膚に、蜘蛛の巣状のひびが広がっていく。狙いは、少しだけずれていた。それでも、割れた。拳の皮が、裂けて血が滲んでいたが、カイルは気にする様子もなかった。
「これで、本当に足りるか分からない」
「足りなくても、今、やるしかない」
いつの間にか、ニアが、隣に来ていた。両手を、俺の右手に重ねる。小さな手だった。
「まだ痺れてます?」
「まだ、多少は、な」
「握れないと、意味ないですよね、たぶん」
言いながら、もう手を離さない。皮膚の表面は変わらないのに、指の先に、じんわりと血の気が戻ってくる感触があった。骨の重さだけが、少しずつ引いていく。
「治した、わけじゃないです。今だけ、無理やり動くようにしただけで。あとで、ちゃんと診てくださいね」
「知ってる。あとは、俺がやるから」
「あれが、また暴れたら、抑えます」
リシアが、短く言う。二晩分、ほとんど眠っていないはずなのに、声だけは、いつもと変わらず落ち着いていた。額に、また汗が浮いていた。境界が、そいつの周りに、薄く貼りついていく。厚くする余裕は、もうどこにもなかった。
父の作業台で、何度も見た壊れ方だった。乾いて脆くなったところから、金具は先に裂ける。裂けた先に、まだ生きている部分がある。そこへ、まっすぐ届けばいい。
俺は、その裂け目に、指を差し込むようにして、熱を流し込んだ。
抵抗は、思ったより強かった。だが、まだ動いている脈へ、確かに届く感触があった。皮膚の奥、干からびた繊維の隙間を伝って、熱が奥へ奥へと沈んでいく。指先から肘まで、痺れがまた這い上がってくる。今度は、痛みに近かった。
そいつの体が、大きく、一度だけ震えた。うなり声とも呼べない、低い音が、喉の奥から漏れる。
皮膚の下の光が、端から順に、静かに消えていく。強く光っていた場所ほど、消えるまでに、時間がかかった。最後の一本まで、時間をかけて。
最後の一筋が消えるまで、誰も、声を出さなかった。
地面は、もう動かない。……はずだった。
「まだ、揺れてます」
ユノの声だった。しゃがみ込んだまま、地面に手のひらを当てている。指先が、かすかに震えていた。一晩中、地面の下を探り続けていたのだと、今更ながら気づいた。
「あれは、死にました。でも、揺れの出どころは、消えてない。もっと、奥です。ずっと、その音だけを追いかけてました」
言われて、地面に耳を近づけてみる。かすかに、確かに、何かが脈打っていた。今、倒したそいつの死骸からではない。もっと下、地面そのものの奥からだった。
柵の隙間の向こうに、人影が二つ、動かずに立っているのが見えた。父と母だった。何も言わず、こちらを見ている。手を振るでも、駆け寄るでもない。ただ、見ていた。
いつから、そこにいたのかは分からない。声をかけようとして、やめた。今は、それでいい気がした。伝えたいことは、山ほどあった。だが、言葉にする前に、もう伝わっている気もした。
朝日が、柵の向こうから射し始めていた。誰かが、遠くで、飯の匂いを漂わせている。この期に及んで、腹が減っているのかもしれない。誰も、それを咎めなかった。カイルが、血の滲んだ拳を、無言のまま握ったり開いたりしていた。
サラが、さっきの乾いた布を、その拳に無造作に巻きつけた。
「はい、これで我慢してください」
文句も言わせず、さっさと結んでしまう。カイルは、何か言いかけて、やめた。
柵の向こうで、誰かが、大きく息を吐く音がした。すぐに、別の誰かが、まだ早いと、その背中を小突く音がする。
柵の焦げ跡が、朝日を受けて、白く冷えていくのが見えた。昨夜まで、赤く光っていた場所だった。
村は、守られた。
だが、この揺れの根が、どこまで続いているのか、まだ誰も知らない。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
黒熱大型個体との攻防、決着です。故郷で培った知識が、ここで役に立つとは思っていませんでした。
でも、揺れはまだ消えていません。この根がどこまで続くのか、次話以降もぜひ見届けてください。
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