第78話 黒熱防衛戦
柵が、内側へたわんだ。夜の闇の向こうで、木の裂ける音が、また一つ響いた。
丸太の継ぎ目が、一斉に軋む。次の一撃で抜ける。考えるより先に、体が動いていた。
鐘の音。
村中で、途切れなく乱打されている。灯りが、次々に落ちていく。火を使う余裕は、もう誰にもなかった。誰かの怒鳴り声が、鐘の音にかき消されて、言葉にならないまま消えた。
柵の上から覗いた闇の奥に、これまで見たどの獣とも違う、山のような影が、地響きとともに、ゆっくりと立ち上がった。皮膚の下を這う光の帯が、丸太より太い前脚を、地面に突き立てる。爪の先だけが、赤く発光していた。息を吐くたび、喉の奥から、湯気とも煙ともつかないものが、細く漏れる。
「リオネル、東の柵、あと何——」
「保って、二回」
訊き終わる前に、答えが返ってきた。数字を出せと言われる前から、頭の中で、ずっと数を刻み続けていたのだろう。
柵の陰に、カイルの姿があった。声をかける前から、拳を握ったまま、すでに動かずにいる。崩していい足場がないことは、言われなくても分かっていたらしい。
「リシア、東の切れ目に!」
叫んだときには、もうリシアの手は動き終えていた。返事はなかった。境界が、崩れかけた継ぎ目の内側に、薄く貼りつく。獣一頭分の隙間だけを残して、道が絞られていく。
二度目だ。前にも、ちょうどこの形で、一度は押し返している。
柵材ごと焼き切るつもりで、俺は、絞られた隙間の両脇に、ありったけの熱を流し込んだ。捨てる分の丸太が、じりじりと焦げていく。獣の前脚の皮膚が、焦げた匂いを立てて、薄く縮んだ。唸り声が、一段、高くなる。
だが、効いていない。
前より、明らかに分厚い。皮膚の下を流れる光の脈が、以前より速い。合わせる間隔を、俺は一拍、外した。
境界が、小さく軋んだ。
「持ちません、今回は」
リシアの声に、迷いはなかった。事実を、ただ告げただけだった。額から落ちた汗が、地面に染みを作る。境界の縁が、震えながら、一点だけ薄くなる。糸のように、そこだけ光が細くなっていた。前に一度これで凌いだという記憶が、今は、かえって足を鈍らせているのかもしれない。同じ手が、二度通じるとは限らない。
柵の残骸が、鈍い音を立てて、こちら側へ弾け飛ぶ。破片の一つが、ボルクの肩をかすめた。布が裂け、傷口が覗く。血が、袖を伝って、指先まで落ちた。誰も手当てに回る余裕はない。傷口は、そのままだった。ボルクは、血に濡れた手のまま、材木を担ぎ直した。
「悪いな、少し退がっててもいいぞ」
「今更、退がれるわけないだろ、これくらいで」
そいつの前脚が、薄くなったその一点を、正確に突いてきた。土煙が上がる。避けきれなかった俺の腕を、赤く光る爪先がかすめる。袖が裂けて、皮膚に一筋、赤い線が浮いた。爪は赤いのに、熱くない。ただの裂傷だった。
「レン!」
リシアの声が、鋭くなる。境界の形が、一瞬だけ乱れた。
「大丈夫だ。動くな、集中しろ」
息を、一つ吐く。
声だけで、それだけ伝えるしかなかった。振り返って傷を見せる余裕は、どこにもない。怖くなかったわけではない。ただ、止まっている暇が、なかった。
「保って、二回のはずが、これは」
リオネルの声が、初めて掠れた。数えていた継ぎ目の一本が、予定より早く、抜けかけている。読みが外れた。誰のせいでもない。ただの誤算だった。
獣が、絞られた道を、力任せに押し広げてくる。境界の縁が、じりじりと後退した。
「間合いが、いつもと少し違う」
ロイの声だった。剣を構えたまま、視線だけを、そいつの右脚に向けている。片手で扱えるように削られた刃が、月明かりに、鈍く光った。
「右の付け根が、硬い。前も、あそこだけ動きが遅れた」
以前、ロイが、あの右脚に一撃を叩き込んだ、その代償を負ったのだと聞いたことがある。忘れられるはずがなかった。
「右へ、寄せろ!」
「本当に、それで合ってんのかよ、おい」
ボルクが、走りながら怒鳴り返す。答える暇はなかった。リシアが、境界の角度を、迷わず右へ傾ける。ボルクは、疑いの言葉を吐いたまま、それでも右側の柵材を担いで走った。
狙い通り、その右脚が引っかかる。太い体が、半歩、大きく体勢を崩した。
「今です!」
ユノの声だと、一拍遅れて気づいた。普段は聞こえないくらい小さい声しか出さない子が、この夜だけは、柵の陰から精一杯張り上げていた。獣の脈の間隔が、次に強くなる瞬間を、目で追っているのが分かった。
俺は、待った。焦れば外す。ユノが小さく頷く。合図だった。
その一拍に、ありったけの熱を叩き込む。
そいつが、たじろいだ。だが、崩れない。前とは、根本から手応えが違った。熱が、内側へ吸い込まれていくのが分かる。表面で終わらない。もっと奥へ、もっと奥へ、際限なく沈んでいく。
流し込んだ熱が、消えていない。押し込んだ分だけ、指の関節が、内側から押し返されてくる。爪の下が、脈打つように痺れる。手のひらから肘まで、その痺れが、じわじわと這い上がってくる。
昔、東方の村で、火喰い蜥蜴を相手にしたときとも、違う。あのときは、外殻の継ぎ目に温度差をつけて、割った。今は、割れる前に、熱そのものが、押し返されてくる。
母さんの言葉を、ふいに思い出した。
黒熱は、外から熱を受けるだけじゃない。内側から、戻してくる。
「レン、まだ、なんですか」
いつもの落ち着いた声とは、違った。少しだけ、震えている。境界を支える手も、小刻みに揺れていた。爪の先が、白くなるほど強く、境界の縁を握り込んでいる。
「もう少しだけでいい、耐えてくれ」
息が上がっているのは、リシアより、むしろ俺の方だった。それでも、止める理由には、ならなかった。
押すのではなく、流し込んだ熱を、脈が集まって太くなる、腹の底の一点に、そのまま繋げてやれば。
崩すのではない。
考えるより先に、体が、指先の痺れを、逆にたどっていた。熱を押し込むのではなく、押し返してくる流れの向きに、手のひらを合わせにいく。掌の中で、流れが逆さまになる感触があった。
獣の光が、急に膨れ上がった。皮膚の内側、熱の集まる一点で、行き場を失った脈が、あちこちで同時に強く光り始めた。
「みんな、今すぐ離れろ!」
叫んだときには、もう遅かった。そいつが、獣じみた悲鳴を上げて、後ろへ大きく弾け飛ぶ。地面が、腹の底から揺れた。積み上げていた柵の破片が、あちこちで音を立てて落ちる。土埃が、遅れて頭上に降ってくる。
俺の右手が、燃えるように熱かった。焼けた感触ではない。流れを、無理やり押し返された痕跡だった。手のひらの皮膚は、赤くもなっていない。それでも、骨の芯まで、じんと重かった。指先の感覚が、しばらく戻らない。膝から、力が抜ける。
「レン!」
リシアの手が、崩れかけた体を支えた。そいつは、境界の外まで、よろめきながら下がって、そのまま動かなくなっている。倒れてはいない。ただ、皮膚の下を這っていた光の脈が、明らかに弱っていた。あれほど赤かった爪の先も、今は、鈍い色に落ちている。
誰も、すぐには声を出せなかった。柵の上で、ゼクトが、消えたはずの煙管に、もう一度火をつけようとして、やめた。指の間で、煙管だけが、意味もなく回っている。最後まで、柵を降りてはこなかった。
確かに、効いた。だが、これで終わりではない。今の一撃は、狙って出した技じゃない。もう一度同じことができるのか、俺自身にも分からなかった。
「レン、今の、いったい何をしたんですか」
リシアの問いに、すぐには答えられなかった。指先の痺れは、まだ、消えていない。うまく言葉にする自信も、なかった。
少し離れた場所で、ボルクが、血に濡れた手のまま、地面に座り込んでいた。手当てはまだ、誰もしていない。傷口は、まだ乾いてもいなかった。それでも、今はまだ、こうして生きて座っていた。
柵の向こうで、あの皮膚の下、光の脈が、何本も止まっている。だが、消えていない脈も、まだ半分近く残っていた。止めた分と、残った分。俺の中で、その線引きだけが、はっきりしていた。
「これで、半分だ」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
黒熱との真正面の攻防、いかがでしたでしょうか。まだ半分——決着は次話に持ち越しです。
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