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第77話 黒熱、来る

 鐘が鳴った。


 いつもと、鳴らし方が違う。短く、何度も、途切れずに続く。誰かが、力任せに縄を引いている音だった。


 瓦礫を運んでいた手を止める。周りの誰もが、同じ方向へ顔を上げていた。数日かけて片付けてきた焼け跡は、まだ半分も終わっていない。積み上げたばかりの木材が、放り出されたまま残った。


 柵の見張り台で、若い男が、腕を振り回している。声は、まだ届かない。


 指先に、まだ熱が残っていた。さっきまで、歪んだ金具を熱して、真っ直ぐに戻していたからだ。


 駆け出す。リシアが遅れず並んだ。何も言わなかった。言う必要が、なかった。


 柵の上に登ると、見張りの男が、鐘の縄を握ったまま、森の方を指した。手のひらの皮が、縄の形に赤くめくれている。


「あそこ、です。あそこの、木のあたりから……」


 木立の奥、地面に近いところで、何かが揺れていた。熱の揺らめきに、輪郭がぼやけている。木々の間を縫うように、地面すれすれの熱だけが、ゆっくりと、しかし止まらずに近づいてくる。鳥の声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。


 あの大きさなら、まだ、時間はある。


 言い切って、柵を下りかけた足を止めた。


 隣で息を吸う音がした。リシアだった。


「レン。……もっと、大きいです」


「……そうか。分かった」


 下りかけていた足を、柵の上に戻す。数秒、無駄にした。


 揺らめきの下に、影が動く。近くの下草と比べる。さっき思っていたより、二回りは大きい。下草の茂みが、通り過ぎるたびに横へ大きく割れて、また閉じる。


 ——来る。


 届く距離ではない。分かっていて、それでも指先にわずかな熱を集めてみる。風に流れる前の、ほんの一滴分。返ってくる感触は、何もなかった。遠すぎる。あの熱の底に、何が戻っているのかまでは、ここからでは読めない。


「一人で先に飛び出すのは、なしですよ」


 リシアが、柵の縁に手を置いたまま、横目で言った。前に言われたことの繰り返しだった。今度は、素直に頷けた。頷いた俺を、リシアは、それ以上疑わなかった。信じたというより、確かめている暇がなかっただけかもしれない。


 背後で足音がした。振り向くと、腰の剣に手をかけたロイが立っていた。唇の端が、白く乾いている。汗はかいているのに、そこだけ乾いていた。見た瞬間に分かった。ロイには、これが初めてじゃない。


「間違いない。あれだ。二度目でも、分かる」


 そう言うと、ロイは、それ以上何も続けなかった。柄を握る手に、力が入っている。体重のかけ方が、いつもよりわずかに、片側へ寄っていた。あの空き地の焦げ跡を、あの朝、俺は見た。ロイも、見ていたはずだった。


「教えてた奴の名前、まだ聞いてないな」


 言ってから、しまったと思った。今、訊くことじゃない。ロイは、少しの間、黙っていた。


「名前は、まだだ。……あいつは、槍の柄を、いつも右から持つ、変な癖があった。教えといてやるのは、それだけだ」


 戦い終わったら、とは言わなかった。俺は、追及しなかった。ロイの視線は、もう森のほうへ戻っている。何かを思い出しているのか、それとも、ただ確かめているだけなのか、横顔からは読めなかった。


 柵の下では、住人たちが荷物を抱えて走り回っていた。誰が指示を出しているのかも分からないまま、それぞれが、それぞれの判断で動いていた。荷車が、二台、道の途中でぶつかりかけて止まる。互いに舌打ちして、また別の道へ分かれていった。誰かが、木箱を運びながら怒鳴っている。指先には、まだ、さっきの熱の名残があった。気のせいだと思うことにした。


「なんで、今日に限って、蓋が閉まらないんだ!」


 誰も答えなかった。木箱の男は、それでも構わず蓋を叩き続けていた。


 柵を下りて、集会場へ向かう。走る足音と、荷を引きずる音が、村中で重なっていた。誰かが呼ぶ声に、別の誰かが違う名前で答えている。どこかで、子供の泣き声もした。


 集会場の中、リオネルが地図を広げていた。灰雨鉱窟の記録と、村の見取り図を並べている。机の脚が、また、かたりと鳴った。その脇に、白い外套の背中がある。ノアだった。手には、まだあの壊れた計器を持っている。針は、今も動かないままだ。


「速さは、出ました。進路は、まだです」


「その情報は、研究院に、送るのか」


「あと二日は、たぶん、届きません」


 答えになっていて、なっていないような答えだった。壊れた計器を、袋の底へ押し込む。それから、手帳を、報告用の綴じ方ではなく、村の地図の裏に重ねて持ち直した。リオネルが、その手の動きを、黙って見ていた。何も言わなかったが、見ていたことだけは、確かだった。


「柵より、頭一つ高い。東の柵に向かってる。足の運びは、遅くない」


「間違いありませんか」


「見た通りだ」


 念を押されるとは、思わなかった。リオネルが、地図の東側に、小さく印をつけた。戸口に、親父が杖を突いて立っていた。中には入らず、地図の向きだけを、じっと見ている。


「東の柵は、地面が緩い。掘り返したばかりの、井戸の跡がある」


「掘り返したばかりなら、踏み固めれば、保つかもしれない」


「甘い」


 短く、それだけだった。埋め戻した土は、掘る前の土には戻らない。当たり前のことだった。口にするまで、気づかなかった。リオネルが、印の脇に、小さく別の印を、もう一つ足した。


 柵の内側で、ボルクが柵の補強材を担いだまま、母さんの薬草の束に、ぶつかりかけた。汗で額に貼りついた前髪を、片手で乱暴に払う。積み上げた材木が、片方に大きく傾いている。母さんが、束を数え直す。ボルクは謝らず、誰にともなく零した。


「飯、まだなんだよな」


「今それどころじゃないでしょう!」


 通りかかった誰かが、怒鳴り返した。ボルクは、それには答えず、また材木を担ぎ直した。


 通り過ぎようとしたところで、袖を軽く引かれた。母さんだった。何も言わず、手首に細い布を一巻き、結んでいく。指先から、薬草の青い匂いが、かすかに移った。子供の頃、熱を出すたびに、同じ結び方をされた覚えがある。振りほどく気には、なれなかった。母さんは結び終えると、また薬草の束へ視線を戻した。


 煙管の匂いが、風に混じって流れてきた。焼け跡の匂いの中でも、それだけは際立っていた。


 ゼクトが、柵の上に片肘をついて立っていた。森の方角を眺めている。誰よりも先に、あの揺らめきに気づいていたはずだった。村中が駆け回る音の中で、そこだけが、朝のうちから何も変わっていないみたいに静かだった。


「ゼクトさんなら、これくらい、瞬きの間に終わるんでしょう」


 言ってから、自分の声が、期待に寄っているのに気づいた。ロイの横顔が、ちらりと動く。


 ゼクトは、それに答えなかった。煙管の先が赤く光る。しばらく黙ったまま、煙が細く長く伸びて、風にほどけていく。柵の下で、誰かが、こちらを黙って見上げていた。返事を、待っているのだろう。


 少し離れた柵の陰に、杖の先だけが覗いていた。親父だった。いつからそこにいたのか、俺は気づかなかった。ゼクトが、その方を一瞬だけ見る。親父は、何も言わず、ただ頷いた。


 遠くで、太い木が一本、軋みながら倒れる音がした。柵の丸太を握った指先の熱が、はっきりと強くなる。もう、気のせいでは済まなかった。


 ゼクトは、煙管の灰を、柵の外へ払い落とした。


「今度は、片づけない。お前たちにやらせる」

お読みいただきありがとうございます。


村全体が慌ただしく動く中で、ゼクトだけが最初から動いていなかった――というのが、この話で描きたかったことです。次はいよいよ黒熱が柵に触れます。


感想・ブックマーク、いつも励みになっています。次話もお付き合いいただけると嬉しいです。

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