第76話 ノアの揺れ
朝から、村中で瓦礫を運んでいた。
空は、まだ薄い灰色をしていて、遠くの山際だけが、うっすらと明るくなり始めていた。
崩れた壁の残材、割れた樽、焦げた縄。使えるものと使えないものを、ただひたすら仕分けていく。難しい仕事ではない。体を動かしていないと、余計なことばかり考えてしまうから、ちょうど良かった。
サラが、道の端で、擦り傷を負った老人の手当てをしていた。「痛いのは我慢すればどうにかなるけど、化膿は我慢が効かないからね」と、笑いながら布を巻いている。老人は、面倒くさそうに顔をしかめただけだった。
井戸の脇では、母さんが、洗った布を並べて干していた。こちらには気づかず、黙々と手を動かしている。声をかけるほどのことでもなかったので、そのまま通り過ぎた。
焼け跡の前に、白い外套の背中があった。見覚えのある姿だった。指先が、焦げた柱に、そっと触れている。
灰の匂いは、まだ消えていない。崩れた納屋の柱が、黒く炭化したまま斜めに突き出していて、根元の土まで黒く染まっていた。
音もない。
両手がふさがっていたので、声だけをかける。
「……来てたのか」
指が止まった。振り向いた顔は、あの日と同じ、感情の出ない顔だった。だが今日は、目の下に薄い影がある気がした。見間違いかもしれない。断言はできない。
「研究院として、正式に伺いました。防衛戦の被害と、黒熱を帯びた個体の記録について」
また、いつもの回収かと思った。違うらしい。
ノアは、腰の袋から小さな計器を取り出した。目盛りを読もうとして、眉を寄せる。振っても、針が動かない。何度か軽く叩いても、同じだった。
「……壊れていますね、これは」
独り言のようにつぶやいて、袋の奥から予備を探る。手際はいつも通りだったが、探す時間が、いつもより長かった。
「灰が、目盛りに入り込んだんだと思います。前にも、一度」
言いかけて、やめる。前にも、というのがいつの話か、訊く前に、話は次へ移っていた。
予備の針も、同じように、ぴくりとも動かなかった。灰のせいだとは、思えない。だが、それ以上は、確かめようがなかった。
道の向こうから、荷車を引く男が、ぼやきながら通り過ぎていく。「薪が、また届かない」とか、そんな内容だった。誰に言うでもない愚痴で、返す者もいない。荷車の車輪が、一度、軋んだ音を立てた。ノアは、それに目もくれなかった。
境界の外れでは、見張りに立つ誰かの影が、朝からずっと同じ場所に立っていた。黒熱の個体が、いつまた姿を見せるのか、誰にも分からない。分からないまま、村は、日々の仕事を続けるしかなかった。
抱えていた残材を、足元に下ろす。両手が、ようやく空いた。
柱の焦げ跡に、ノアの視線が戻る。
「この柱の焼け方は、黒熱と、関係がありますか」
「関係ない。ただの火だ」
答えると、ノアの手が止まった。
「なぜ、分かるんです」
「黒熱は、もっとゆっくり、内側から戻ってくる。これは、外の熱が、そのまま抜けていっただけだ」
指を近づける。触れずに、ごくわずかな熱を流し込む。木の繊維の焦げ方に、熱の乗り方の違いが返ってきた。壁に近い側から、まっすぐ上へ這い上がった焼け方だった。灯りの台が倒れて、油に火が回った。獣が蹴った、あの一頭のせいだ。
「それだけで、そこまで言い切れるものなんですか」
「灯りが倒れていた場所と、照らし合わせれば」
ノアが、屈んで、柱の根元を確かめた。灯りの跡が残る地面と、焦げの向きを見比べる。しばらくして、小さく頷いた。何も言わなかったが、頷いたこと自体が、答えだった。
ノアは、しばらく黙って柱を見つめていた。それから、計器を手に取り直す。針は、まだ動かない。だが目は、もう計器を見ていなかった。
「前は、そこまで、言い切りませんでした」
「前は、まだ名前がなかった」
言ってから、少し間抜けな答えだと思った。ノアには、伝わらないだろう。案の定、返事はなかった。
「新しい能力の、名を得たと」
「熱運動干渉。母さんがつけた名だ。鑑定式のものじゃない」
ノアは、そこで初めて手帳を取り出した。書こうとして、ペンの先を紙に近づけたまま、動かなかった。しばらくして、結局、何も書かずに手帳を閉じる。書かなかった理由は、訊かなかった。
母さんは、あの晩、等級とは使いやすさのものさしだと語っていた。今、目の前で手帳を閉じたノアも、同じものさしの側にいる人間のはずだ。なのに、今日は、書かない。それだけのことが、妙に引っかかった。
少し離れた井戸端を、ユノが桶を提げて通り過ぎていく。こちらに気づいた様子はなかった。声もかけず、そのまま奥へ消えた。
柱の脇、瓦礫の隅に、小さな木剣の柄が、焦げて転がっていた。ロイが稽古をつけていた、あの空き地だ。名も知らない新人が、ここで最後を迎えた。ロイは、今も、その名を口にしない。灰の上に、小さな足跡が、いくつか薄く残っている。誰の足跡かは、分からないままだった。
少し離れた木陰に、ロイの姿があった。杖代わりの木剣に、体を預けたまま、何をするでもなく、ただ、瓦礫のほうを見ている。近づいて、声をかける気にはなれなかった。
「ここで、一人、死んでる」
ノアの手が、瓦礫から少し離れた。
「報告には」
「上がっています。詳しい経緯までは、まだ、こちらの手元にはありません」
「上がって、どうなる」
訊いてから、我ながら、ずいぶん不躾な訊き方だと思った。以前の自分なら、ここまでは踏み込まなかっただろう。
ノアは、すぐには答えなかった。瓦礫の縁を、指先でなぞる。灰が、白い指先を、薄く汚した。
「材料が足りない、と言われる可能性は、あります」
「材料なら、ここにある」
柱。灰。木剣の柄。名前のない死。それで足りないなら、何が足りるのか。俺には、分からなかった。
「あの黒熱の個体は、今、どこに」
ノアが、訊いた。
「境界の外。追い返しただけだ。倒してはいない。あの大きさだと、一撃で終わる手段は、まだない」
「戻ってくると」
「たぶん」
答えながら、境界の向こうに広がる暗い森を、一度だけ見た。まだ、何も見えない。
それだけ答えると、ノアの持つ手帳の端が、指の下で、かすかにたわんだ。今度は、理由を、突かなかった。
「母さんのことは、どこまで、知ってる」
こちらから、初めて踏み込んでみた。ノアは、すぐには答えなかった。一拍、間があった。
「……お答えできる立場に、ありません」
いつもの、壁のような答えだった。だが今回は、手帳を持つ指に、力がこもっていた。それだけ、いつもと違った。
「私の勤め先も、似たようなことを、してきたと思います」
ぽつりと、そう言った。誰に言うともなく。それ以上は、続かなかった。何を、いつ、誰が。訊いても、答えは返らない気がした。だから、そのままにした。
それだけ、認めるとは、思わなかった。
ノアは、計器を袋にしまい、手帳を小脇に抱え直した。それから、俺のほうを一度だけ見る。何か言いたげな目だったが、結局、口は開かなかった。
俺のほうにも、まだ言っていないことがある。塗り潰された行の下の印は、今は、誰にも話していない。ノアが、それに気づいているのかどうかは、分からなかった。
風が、灰の匂いを、少しだけ運んでいく。遠くで、また荷車の車輪が軋んだ。
ノアは、手帳を胸元に抱えたまま、しばらく、その場を動かなかった。日が、少し高くなっている。焼け跡の影が、さっきより短くなっていた。
焦げた瓦礫の隙間から、まだ乾ききらない土の匂いが、かすかに立ち上っていた。
村のどこかで、誰かが呼ぶ声がした。何度か、続けて呼んでいた。返事をする者は、いなかった。
焼け跡の隅、焦げた木剣の柄に、ノアの目が留まった。手を伸ばしかけて、止める。結局、拾わなかった。
ノアが、独り言のように、口を開いた。
「この件は……本当に、持ち帰っていいものなのか」
お読みいただきありがとうございます。
これまで一貫して「回収する側」だったノアが、初めて足を止めた回でした。彼女の中立がどちらへ傾くのか、次話以降で少しずつ見えてくると思います。
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