第75話 研究院の隠蔽
紙は、湿気を吸って、少し重かった。
寝室の隅、蝋燭の火が、一つだけ灯っている。窓の外はもう暗い。母さんは、木箱を膝に乗せたまま、しばらく動かなかった。
母さんの指が、一番上の一枚を、そっとめくる。太い線で塗り潰された行の下に、細かい字がまだ生きていた。紙の角が、何度も折られては伸ばされたのか、波打ったまま固まっている。
「……これ」
声が、少し掠れた。埃が舞ったのか、それとも別の理由か、俺には分からない。母さんは、一度だけ咳をして、続きをめくった。
「私が、まだ王都の研究院にいた頃の報告書」
それだけ言うと、しばらく黙って読み続けた。俺は、口を挟まなかった。挟んだら、また止まる気がした。
二枚目、三枚目と、紙をめくる音だけが続く。窓の外で、遠くの家の犬が、意味もなく吠えていた。
「低い等級の異常個体、十七件」
ようやく、母さんが言った。
「私が担当した分だけで、これだけあった。ほとんどが、F等級かそれに近い評価を受けた魔核。表向きは、使いものにならないという評価」
「使いものに、ならない」
繰り返すと、自分の鑑定式の日を思い出した。灰色に光っただけの鑑定盤。広間のざわめき、同情半分、嘲笑半分の視線。あの日から、俺もずっと同じ言葉で呼ばれてきた。母さんが調べていた十七件の誰かも、同じ視線を浴びたのだろうか。会ったこともない誰かの顔を、少しだけ想像した。
「でも、そうじゃなかった。私が調べた個体は、どれも、表に出ている働きと、内側の働きが、違ってた。外側だけ見ると、ただの半端もの。中を見ると、まるで違う動き方をしてる」
母さんの指が、報告書の余白に走り書きされた、小さな図を撫でた。矢印がいくつも、内側へ向かって曲がっている。当時のインクの色が、今も鮮やかに残っていた。
「たとえば、これとか」
母さんが、束の奥から、別の一枚を引き出した。歪な形をした魔核の図。周りに、几帳面な文字で、観測結果がびっしり書き込まれている。
「表向きは、ただ熱を吸うだけの、G等級の欠陥品。でも実際は、吸った熱を、内側でまったく別の形に変換して、また外へ出してた。誰も、そんなふうには使わなかった。使い方が、誰にも分からなかったから」
「それも、握り潰されたんですか」
「握り潰すというより、報告書ごと、資料庫の奥にしまわれた。危険度の評価すらつかないまま」
母さんの声が、いつもより、少しだけ低く沈んだ。
「今の学院も、そうです。ハーグ評定長が、査問で言いました。感覚は証拠にならない、記録にないものはなかったことと同じだって」
指が、報告書の束を、もう一度そろえ直す。角を合わせる仕草が、いつになく几帳面だった。
「私が研究院にいた頃も、上に立つ人たちは、自分たちを悪人だとは思っていなかった。むしろ、秩序を守っているつもりでいたはずよ。だからこそ、誰も止められなかった」
その言葉に、査問室でのハーグの声が重なった。あの平坦な声だ。
「等級って、何を測ってるんだと思う」
「強さ、じゃないんですか」
「使いやすさ。御しやすいかどうか。それだけのこと」
言い切ると、母さんは、報告書を机に置いた。
「本質がどれだけ深くても、扱いにくければ低く評価される。逆に、浅くても、分かりやすくて使いやすければ、高く評価される。等級は、そういうものさし」
どこかで聞いた話だった。だが、すぐには思い出せなかった。
「あなたの《火種》も、同じ」
母さんが、俺の方を見た。
「表向きは、たしかに火。でも、あなたがやってることは、火を出すことじゃない」
「熱を、動かしてる」
「そう。熱が通るところなら、触れていなくても、動き方そのものに干渉できる。空気に火を点すんじゃなくて、そこにある熱の流れを、作り替えてる」
母さんの言葉が、いつもより、はっきりしていた。研究者だった頃の言い方に、戻っているのかもしれない。
「名前を、つけるなら」
少し、間があった。
「熱運動干渉。そんなところね」
初めて、名前がついた。
鑑定盤がくれた《火種》じゃない、別の名前だった。母さんが、自分の研究の言葉で、そう呼んだだけだ。それでも、腹の底に、何かが落ち着いた。
声に出して、もう一度、繰り返してみる。熱運動干渉。舌に馴染むまでには、もう少しかかりそうだった。
俺は、指先を、一番上の紙——太い線で塗り潰された行の上に、そっと近づけた。
塗り潰した墨と、下に隠れた字のインク。厚みも、乾き方も違う。熱を、ごく薄く流し込むと、下のインクの方だけが、わずかに先に温まっていくのが分かった。焦げるほどではない。ただ、熱の乗り方の違いが、輪郭になって伝わってくる。
温まった側の墨は、乾いた分だけ、色が浅くなる。紙の表面に、うっすらと艶の違いが浮いた。
「……待って」
母さんの声が、初めて上ずった。紙を、蝋燭の灯りに透かす。塗り潰しの下、浮かび上がった輪郭は、文字というより、判のような形をしていた。研究院のものとは、違う印だった。
「これ……学院の、印」
母さんが、そう呟いた。声から、余裕が消えていた。研究院ではなく、学院の印だった。
母さんは、しばらく、その紙から目を離さなかった。何かを読み直しているのか、それとも、別のことを考えているのか。俺には、判断がつかなかった。
「昔から、そういうふうに見えてたんですか」
「見えてた、というより。あなたが焦がさないように何かを扱う手つきを見て、これは火じゃないなって、ずっと思ってた」
焦がさないように。子供の頃、何度も言われた言葉だった。あの頃は、ただの躾だと思っていた。
「私が現場から外された理由の一つが、まさにこれ」
指が、報告書の束を、軽く叩いた。
「低等級の異常は、まとめて『使えない』で処理するのが、上の方針だった。私は、何度も、中身を見ろと言い続けた。誰も、聞かなかった」
「それで、聞かなかった、で終わったんですか」
「終わらなかったから、結局、こうして、今も隠すはめになった」
声に、少し皮肉が滲んだ。
「魔核の異常報告も、同じ扱いだった。役に立つかどうかでしか、測らない。危ないかどうかは、いつも二の次」
「父さんの、遠征も」
母さんは、答えなかった。代わりに、報告書の別の一枚を、俺の前に置いた。日付が、父さんが足を失った時期と、近い。走り書きの隅に、遠征先の地名らしきものが、消しかけの字で残っている。
「確証は、今のところ、まだない。でも、無関係だとも思えない」
断定は、しなかった。決めつけないで、という自分の口癖を、自分で守っているようだった。父さんが、この件についてどこまで知っていて、どこまで黙っているのか。今の俺には、まだ聞けなかった。
「ゼクトさんが訪ねてきたのも、この線を辿ってたからですか」
「たぶんね。あの人は、昔から、私よりずっと勘がいい人。証拠がなくても、匂いだけで動ける人だから」
母さんの視線が、一瞬だけ、遠くを見た。皮肉なのか、懐かしんでいるのか、判断がつかない目だった。ゼクトさんと母さんの若い頃について、俺はまだ、何も知らない。
窓の外、犬の声が、また遠くで響いた。誰かが、追い払ったらしい。急に静かになる。蝋燭の芯が、じじ、と小さく鳴った。灯りが、一瞬だけ、細くなった。
「研究院を出てから、ずっと考えてた。あの報告が、もし通ってたら」
母さんの手が、報告書の表紙に、そっと乗った。その下には、父さんの遠征地名が残った紙も、まだ挟まったままだった。蝋燭の火が、一度だけ、大きく揺れる。俺は、それだけの間、何も言わずに待った。
「私の報告が通っていれば、ここまでにはならなかった」




