↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
74/119

第74話 届かなかった報告

【幕間 side:ハーグ】


 評定長室の机に、書類の山が、いくつも積まれている。


 夕刻の光が、窓から低く、長く差し込んでいた。ハーグは、その山の一番上から、一枚ずつ、目を通していく。手を止めることは、ほとんどない。


 中層実習の定例報告。昇格判定の下書き。予算の申請書。どれも、すでに見慣れた書式だった。判を押す指の動きに、迷いはない。文面の九割は、読む前から、結論が分かっている。


 書記官のドナが、新しい束を抱えて運んでくる。机の端に置くとき、山が少し崩れた。


「すみません。今日は、いつもより、少し量が多くて」


「いつものことだろう」


 ハーグは、目も上げずに答えた。ドナは、それ以上何も言わず、下がっていく。廊下の先で、茶器を落とした音がした。今日はそういう日らしい。


 入れ替わりに、白髪の交じった老教官が、扉から顔だけ出した。査問のとき、末席に座っていた男だ。


「星冠選抜戦の登録受付だが、来期から一週間ほど、前倒しになるかもしれん。詳しい日取りは、まだ確定していない」


「理由は、何だ」


「上の都合だ。詳しい経緯は、まだ降りてきていない」


 ハーグは、書類から目を離さないまま、頷いた。星冠選抜戦は、まだ先の話だ。今は、優先の順が違う。老教官は、それだけ告げると、部屋を出ていった。用件は、それだけだったらしい。


 窓の外、中庭の木が、風もないのに一度だけ揺れた。ハーグは、目を上げず、気に留めなかった。


 評定長室は、いつもこの時間、静かになる。生徒も教官も、大半が食堂へ移る刻限だった。書類と向き合うには、都合のいい静けさだ。ハーグは、この時間が、嫌いではなかった。邪魔が入る前に、片をつけられるだけつけておく。長年の習慣だった。


 机の隅、湯気の消えた茶が、一つ置かれていた。手をつけないまま、もう半刻は経っていた。一度、手を伸ばしかけたが、冷めきっているのを思い出し、そのまま戻した。


 新しい束の中に、一通、体裁の違う封書があった。学院の紋ではなく、辺境の駐屯地の印。差出人の欄に、補給村の担当官の名がある。ハーグの指が、初めてそこで止まった。見慣れない印は、それだけで目を引く。


 封を切る。中から出てきたのは、定例の被害報告だった。もう一枚、別の紙が添えられている。筆跡が違う。丁寧で、細かい。学院の記録の型を、几帳面になぞっている。手本を、よほど繰り返し写したのだろう。崩れた字が、一つもなかった。


 外棟班・リオネル・カルツ、と、几帳面な字で署名があった。文字の圧が、書き進むほど、少しずつ弱くなっている。手が、疲れていたのだろう。


 査問には、呼ばれなかった少年だ。戦えない代わりに、記録だけは残す。名簿の末尾に、代理で提出された帳面の提出者として、一度だけ名が載っていた。


 黒熱を帯びた個体の出現。異常な魔核の反応。外から熱を受けるだけでなく、内側から送り返してくる――そう記されている。数字と観測時刻が、行間を詰めて並んでいた。子供にしては、丁寧すぎる仕事だった。紙の質は、辺境の駐屯地にしては上等だった。備品を惜しまなかったのか、それとも、自前の紙を使ったのか。そこまでは、書かれていない。


 ハーグは、それを、最初から二度読んだ。


 三度目だけは、読まなかった。代わりに、椅子の背にもたれ、しばらく天井を見た。


 中層で握り潰したはずの異常が、今度は辺境の村から上がってくる。しかも、あの外棟班の名前で。査問で退けたはずの警告が、形を変えて、また戻ってきた。


 紙の右下、余白の隅に、小さな文字で一行だけ添え書きがあった。「詳細は、追って口頭にて」。この程度の分量に収まる話ではない、という意味だろう。年若い割に、要領のいい書き方だった。


 窓の外で、素振りをする音が聞こえた。木剣の風切り音が、一定の間隔で続いている。今日は、いやに稽古熱心な生徒がいるらしい。


 顕現名《選定》。皮肉なことに、自分の生き方そのものを言い当てていると思う。何を選び、何を選ばないか——それだけの、地味な力だった。三十年、評定長の椅子の周りで働いてきた。若い頃、自分より優れた同期が、上の不興を買って現場を追われるのを、何度も見た。理由は、大抵、正しすぎたことだった。あの頃の自分にも、選べる道はいくつかあったはずだった。


 だから、ハーグは、いつも正しさより先に、順序を見る。未分類の異常は、序列を持たない。分類できないものを一つ通せば、次も通さねばならなくなる。前例は、そうやって増えていく。


 外棟班が、また何かを見つけたらしい。査問のときと、同じ匂いがする。


 あのとき、小柄な生徒が、地面の奥の魔力の揺れが、いつもと違う速さだと訴えていた。声が、少し震えていた。感覚の話は結構だ、の一言で退けた。あの生徒の名は、覚えていない。覚える必要が、なかったからだ。今、目の前にある報告は、あの続きだった。ハーグは、それを苦々しいとは思わない。ただ、面倒だ、と思っただけだった。


 思い出すのは、あのときのランキング戦だ。番外だったはずの班が、格上の相手を、あと一歩まで追い詰めた。書き換わるはずのない記録が、一行だけ、動いた。あれ以来、外棟という名を見るたび、胃の奥が、わずかに重くなる。


 この報告を、そのまま研究院なり上層なりへ回せば、何が起きるか。ハーグには、大体の予測がついていた。異常事態の再調査、実習体制の見直し、誰が責任を負うのかを問う声。一枚の紙が引き金になって、これまでの運用が、一斉に問い直される羽目になりかねない。動けば、必ず誰かが割を食う。


 割を食うのは、大抵、上には立たない者だ。名も残らず、記録にも残らない誰かだ。査問のとき、震える指で紙を伏せていた監督官の顔を、ハーグはまだ覚えていた。声は、最後まで小さいままだった。あの男は今、別の任地に回されている。栄転だと、風の噂で聞いた。


 机の隅、インク壺の蓋が、少し欠けていた。いつからか、閉めるたびに小さく引っかかる。買い替えを、何度か勧められた気もするが、思い出せない。誰に勧められたのかも、もう定かではなかった。ハーグは、蓋を閉め直しながら、それに気づいたが、直させるほどのことでもないと判断した。


 報告書を、机の上で、もう一度そろえる。角を、指先で丁寧に合わせる。いつ、誰に見られても、恥ずかしくない揃え方だった。それが、この男の癖だった。


「今のところは、静観でいい。それだけのことだ」


 誰に言うでもなく、声にして出した。低く、静かな声だった。


 これが握り潰しだとは、自分では思っていない。動かぬ証拠と呼べるだけの、厚みのある材料が、もう少し要る。星冠選抜戦の登録が始まるまでには、片をつけておきたかった。


 窓の外の木剣の音が、まだ続いている。ハーグは、それを聞くともなく聞きながら、引き出しの取っ手に手をかけた。


 中には、似たような形の紙が、すでに何枚か眠っている。査問の記録、実習区域の割り当て、外棟班にまつわる報告――どれも、日の目を見ていない紙だった。積み重なった紙の厚みを、ハーグは、目分量でしか把握していなかった。数えたことは、一度もない。


 報告書を、その一番上に重ねた。


 いつもなら、引き出しは、乾いた音を立てて、すんなり閉まる。何年もそうしてきた、体に染みついた仕草だった。


 今日に限って、わずかに、つかえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。