第73話 熱を戻す魔核
ユノが村に戻ってきたのは、夜が明けてからだった。
服の裾が、泥で汚れている。眠っていないのは、目の下に浮いた色を見れば、すぐに分かった。
「すみません、勝手に離れて」
それだけ言って、頭を下げる。地面の下、何か気になるものがあると言っていたのを、俺はまだ覚えていた。詳しくは訊かなかった。今は、それでいい。
「一晩中、あちこち歩き回ってました。揺れの出どころは、まだ絞りきれてません」
声に、悔しさが滲んでいた。それでも、成果はゼロではなかったらしい。
「柵の外れに、これが落ちてました」
差し出してきたのは、黒熱個体の体から弾け飛んだらしい、拳ほどの欠片だった。表面が、ひび割れた黒い石のようになっている。触れると、まだかすかに熱かった。
ユノは、それを渡すと、崩れるように、井戸端の縁に座り込んだ。サラが、水を持って駆け寄ってくるのが見えた。とりあえずは、任せていい。「絞りきれてません」という言葉が、耳の奥に残っていた。それを確かめる時間を、今の俺はまだ作れていない。
俺は、それを持って、家に戻る。母さんに、見せるためだ。
台所の隅、薬草の匂いがする作業台に、欠片を置く。母さんは、しばらく黙って、それを見ていた。手には触れず、目だけで、表面のひび割れを追っている。
「灰雨鉱窟で見たのと、これ、同じ種類?」
「似てます。でも、もっと生々しい。取れたばかりだからかもしれません」
棚の隅に、干した薬草の束が、いくつも吊るされている。いつも通りの台所の匂いの中に、今だけ、焦げた匂いが、うっすらと混じっていた。
「熱を、流してみて」
言われた通り、指先から、薄く熱を流し込む。欠片の中に、何かが応えるように動いた。流した熱が、そのまま吸い込まれていく。ここまでは、いつも通りだった。
だが、しばらくすると、逆に、熱が押し返してくる。流した分より多いのか、同じくらいなのか、感覚だけでは判断がつかない。指先が、じわりと熱くなった。
「……戻ってきてる」
「そう見える?」
母さんの声は、いつもより低かった。詰め寄るでもなく、確かめるでもなく、ただ、事実を並べるような口調だった。
「もう一度、確かめて。今度は、同じ強さで、同じ長さだけ」
母さんが、砂時計をひっくり返す。砂が落ちきるまで、同じ強さの熱を流し続けた。最初と同じだけ流したはずなのに、指先に返ってくる熱は、明らかに、それより多い。
「外から熱を受けるだけじゃない。内側から、熱を送り返してくる。普通の魔核は、こんな動きをしない」
「言い切っていいの、それ」
「一回だけじゃ、言い切れません。でも、間違いなく、普通とは違います」
「根拠は」
「今のところ、指先の感覚だけです。まだ、数字にまではできていません」
正直に言うと、母さんは、少しだけ、頷いた。曖昧なまま話す俺を、咎めない。分からないことを分からないと言うのを、いつも許してきた人だった。
母さんは、それ以上、何も言わなかった。欠片を、布に包んで、脇へ寄せる。手つきに、迷いがなかった。
「母さん、これ、知ってるんですか」
「知ってる、とは言えない。似たものを、見たことがある、くらい」
「どこで」
母さんは、答えなかった。代わりに、俺の顔を、じっと見た。
「あなたの《火種》も、似たところがあるの、気づいてる?」
言われて、初めて意識した。俺の熱も、表面を焼かずに、内側へ流れる。この欠片の動きと、方向は逆でも、仕組みのどこかが似ている気がした。
鑑定式の日、灰色に光っただけの鑑定盤を、思い出す。あの日から今まで、誰も、俺の火の中身をちゃんと見なかった。母さんだけが、違った。
「気のせいかもしれない。決めつけないで」
いつもの言い方だった。分からないことは、分からないままにしておく。母さんが、昔から教えてきたことだ。「外側だけ見ないで、内側の変化を見なさい」——子供の頃、何度も言われた言葉を思い出す。あの頃は、ただの薬草の見分け方の話だと思っていた。
母さんは、もう一度、欠片を手に取った。今度は、指先で、直に触れる。しばらく、黙ったままだった。それから、小さく、息を吐いた。
「昔、これと同じ手触りを、知ってる。指の記憶って、案外、消えないものね」
母さんは、そこで言葉を切った。声の調子が、さっきまでと違っていた。
「でも、今回は、決めつけていいと思う」
「昔、研究院にいた頃、似た反応を見せる魔核が、何個か見つかった。低い等級の異常として、記録には残した」
「残した、けど」
「握り潰された。誰の手でかまでは、私には分からない。ただ、その報告書を出した後、私は研究院を出た。追い出された、が正しいのかもしれない」
初めて聞く言葉が、次々に出てくる。俺は、口を挟まずに、聞き続けた。ここで遮ったら、続きが聞けなくなる気がした。誰かの話を最後まで聞く、というだけのことが、今の自分には難しい。ここ数日で、嫌というほど思い知った。
「当時は、下級研究員だった。声を上げても、誰も本気で取り合わない。魔核処理師なら誰でも扱う、当たり前の異常だって、上の人間は言った」
「当たり前じゃ、なかったんですよね」
「なかった。でも、それを証明する前に、私は現場から外された」
「その証拠は、今もどこかに残ってるんですか」
「魔核そのものは、私の手元には、もう残ってない。記録の原本も、ほとんどは、研究院の資料庫に置いたまま、荷物をまとめる暇もなく、追い出される形で出された。写しだけ、一部、隠すようにして持ち出した」
いつもの、諭すような話し方ではなかった。母さんが、その話をするのを、俺は今まで一度も聞いたことがない。魔核処理師として働く母さんの姿しか、知らなかった。
「あなたの父さんの遠征も、似た熱の異常が絡んでいた。ゼクトが、それに気づいて訪ねてきたんでしょう」
「前から、知ってたんですか」
「勘、みたいなもの、程度には」
母さんは、それ以上、詳しくは語らなかった。父さんの足のことにも、あえて触れなかった。触れない理由が、俺にも、なんとなく分かる気がした。
「父さんは、これのこと、もう知ってるんですか」
「知ってると思う。でも、あの人も、あなたと同じで、根っから決めつけるのが嫌いな性分だから」
小さく笑う。だが、目は、笑っていない。何か、まだ言っていないことがある目だ。それが何かまでは、俺には読めなかった。
母さんは、椅子から立ち上がり、寝室の奥へ向かった。ついていっていいものか迷ったが、止められなかったので、そのまま後をついていく。
古い木箱が、寝台の下から引き出された。積もった埃を、軽く払う。襟元から、紐を引き出す。服の下に、ずっと隠していたらしい鍵が、そこに下がっていた。俺は、その鍵を、これまで一度も見たことがなかった。
鍵を、鍵穴に差し込む。小さく、乾いた音がした。蓋を開けると、中から出てきたのは、色褪せた紙束だった。表紙に、研究院の印が、かすれて残っている。長い年月、湿った場所と乾いた場所を行き来してきたのか、角が、波打つように反り返っていた。
紙束を縛る紐に、封蝋が、何重にも重ねて垂らしてあった。指をかけては、切らずに、その上からまた蝋を足した跡だった。蝋の色が、層になって違う。何度も、同じところで手を止めてきたのが分かる。
「今まで、開けなかったんですか」
「開けようとしたことは、何度もある。でも、開けられなかった。開けたら最後、確かめなきゃいけないことが、際限なく増える一方だったから」
「今日は、本当に、開けるんですか。それには、何が、書いてあるんですか」
二つとも、俺が続けて訊いた問いだった。母さんは、どちらにも答えなかった。指が、封の上で、一度、静かに止まる。窓の外で、鶏が一羽、のんびりと鳴いた。
「今は、理由が、できた」
紙束を、静かに開く。一番上の紙に、太い線で、何行も塗り潰された跡があった。俺は、少し離れた場所から、その手元を黙って見ていた。




