第72話 生命賦活と境界の防衛線
境界の向こうで、何かが動いた。
気配。
地面を揺らす音が、また近づいてくる。押し込まれていた薄膜は、もう張られていない。柵際の見張りだったボルクの声が、夜を裂いた。
「来るぞ、みんな!」
俺は、熱を流し込む金属の残骸を、もう一度確かめた。昨日の続きだ。相手は、まだ諦めていない。休む間もなく続く二晩目の襲撃に、周りの動きが、昨日よりも重い。
村の広場に、鐘が連打で鳴る。眠っていた者も、叩き起こされたはずだった。灯りが、あちこちの窓で灯る。誰かが、寝間着のまま飛び出してきた足音がした。昨日の防衛戦から、まだ一日も経っていないというのに、体に染み付いた動きだけが、迷いなく次の持ち場へ向かっていく。
柵の修復は、資材も人手も足りず、まだ半分も終わっていない。昨日崩れた区画には、応急の板が打ちつけてあるだけだった。板の隙間から、外の暗闇が見える。誰かが立てかけた木材が、隅で、まだ夜露に濡れたままだった。今は、それどころではない。
村の広場から柵際まで、まだ眠たげな顔のまま、人が並び直す。腕の傷を庇いながら、カイルも列に加わろうとしていた。
「お前、それで動けるのか」
「動けるって、言ったら動けるんですよ」
強がりなのは、見え透いていた。だが、止める間もなく、カイルは膝から崩れた。傷口が開いたらしい。血の気の引いた顔で、それでも柵を掴んで立とうとする。監視付きの立場のこの男が、誰よりも先に前へ出ようとしていた。
「動くな」
ニアの声だった。小柄な体で、駆け寄ってくる。両手を、カイルの胸に当てた。
何かが光る、というほどの派手さはない。ただ、カイルの荒い息が、少しずつ、整っていく。土気色だった顔に、血の色が戻る。
「治した、わけじゃないんです。生命賦活……傷そのものは、塞がっていません。血の巡りと、体温と、呼吸の流れを、無理やり戦える状態まで押し上げてるだけです。借りているだけの力です。傷は、後でちゃんと縫わないと」
ニアが、俯いたまま言う。誇るでもなく、謝るような言い方だった。
「今は、それで十分だ」
カイルが、自分の足で立ち上がる。さっきまでの青白さが、嘘のようだった。
「無理はさせません。今度無理をしたら、次は戻せないかもしれないので」
ニアが、カイルの背中に、念を押すように言う。カイルは、面倒くさそうに頷いただけだった。
「北側、抜かれます!」
誰かの声が飛ぶ。柵の継ぎ目、修理の追いついていない一角から、獣の一頭が突っ込んできていた。応急の板が、あっけなく蹴り破られる。今夜は、いつもより、手が足りない。
「リシア!」
「今、すぐやります」
リシアが、狭い路地の入り口に、手をかざす。境界が、道の両脇の壁に沿って薄く貼りつき、獣一頭がやっと通れるだけの隙間だけを残した。壁のようには見えない。むしろ、壁を削った跡に近かった。
「厚くはしません。今は、厚くする時間が、ない」
獣が、隙間に吸い込まれるように入り込む。俺は、その両脇、薄膜の内側にある金属の柵に、熱を流し込んだ。前と同じ手だ。さらに今度は、柵の少し先、リオネルが札を掛けていた。触れると跳ねる仕掛けだと、あとで教わった。
「記録じゃなくて、罠なんて、専門外なんですけどね」
リオネルが、手を震わせながらも、最後の一枚を貼り終える。
だが、奥の一枚は、貼る位置がずれていた。獣が近づいても弾けない。焦ったリオネルが、掛け直そうとして、足を滑らせる。尻もちをついただけで、怪我はないようだった。
獣が、その手前の札に触れた瞬間、パン、と乾いた音を立てて弾けた。驚いた獣が、前へつんのめる。
その隙を、ボルクが逃さなかった。正面から、拳が叩き込まれる。骨が軋むような音がして、獣が怯んだ。左右は薄膜、後ろは仲間の群れで、逃げ場はどこにもなかった。
「――抜けません、まだ今のところは」
リシアの声に、余裕はなかった。それでも、薄膜は、破れずに持ちこたえている。
境界を張り続けるのが、どれだけの負担になるのか、俺には正確には分からない。ただ、彼女の呼吸が、少しずつ、浅くなっていく。
柵の外、境界の向こうに、大きな影が見えた。黒熱を帯びた、あの個体だ。まだ距離がある。だが、確実に近づいてきていた。
周りの空気が、一段階、重くなる。誰も、それを言葉にはしなかった。だが、全員の動きが、わずかに硬い。
「あれが本命です。今の道は、あれを通す道じゃない」
リシアが、言う。
「今の道に、そのまま誘い込めないか」
「無理です。あの図体じゃ、今の道には入りません」
言われて、初めて気づいた。俺の計算は、いつの間にか、今までの獣の大きさのままで止まっていた。
「じゃあ、どうすればいい」
「あの個体専用に、もう一本、道を作ります。あれの図体ぎりぎりの幅で。押し返す分の余地しかありませんが、それしかありません」
「それだと、リシアの負担が大きくないか」
「知ってます。それでも、他に手がない」
迷いのない声だった。俺は、それ以上何も言わない。ただ、彼女の指示を待った。
「ボルク、カイル、細い道の両端を固めてください。中に押し込めたら、そのまま押し返して」
「了解した」
ボルクが、短く答える。カイルにも、目だけで合図を送った。
「お前こそ、無理はするなよ」
カイルが、いつもの調子で、ボルクに軽く言い返す。ボルクは、答えず、拳を握り直しただけだった。
俺は、リシアの隣に立って、熱を流す準備をする。境界の細さは、俺の間合いとほとんど同じだった。俺の熱が届く範囲に、狙って、合わせてくれているのが分かった。
新しい道は、崩れた柵の外側、獣の群れが最初に踏み荒らした通り道の延長に張られていた。個体にとっては、来た道をそのまま戻るだけの、一番自然な進路だ。
黒熱を帯びた個体が、その細い道へ、一歩、踏み込んできた。皮膚の下の光が、脈打つように流れる。地面が、重い足音で鳴った。
俺は、道の両脇に、ありったけの熱を、一気に流し込んだ。金属が赤く灼ける。個体が、一瞬、怯んだように見えた。それだけでは止まらない。分厚い体が、道の壁に、じわりと圧をかけてくる。
「持ちません、このままじゃ」
リシアの声が、初めて震えた。それでも、境界を解こうとはしなかった。手の指先が、小刻みに震えている。それを止める余裕さえ、今はないようだった。
「頼む。あと少しだけ、耐えてくれ」
皮膚の下を流れる光が、脈打つたび、一定の間隔で強くなる。ユノが以前、揺れの間隔が独特だと言っていたのを思い出した。強くなる瞬間だけ、皮膚のすぐ下まで、熱が浮き上がってくる。表面に近い分だけ、外から流し込む俺の熱と、繋がりやすい。それ以外の瞬間は、熱が奥深くに沈み、いくら流しても素通りするだけだった。そこへ、間隔を合わせて、俺の熱を叩き込んだ。
個体の唸り声が、一段、高くなる。効いている証拠だ。俺は、同じ間隔で、二度、三度と続けた。
四度目で、個体が、たじろぐように、半歩、後ろへ下がった。
ボルクとカイルが、その隙を逃さず、両側から距離を詰める。カイルの動きが、途中から、目に見えて鈍くなった。借りた力の期限が、切れかけているのかもしれない。獣たちの群れが、細い道の途中で、団子状に詰まって身動きが取れなくなっていた。
「今のうちに、一気に、押し返します」
リシアが、黒熱個体を押し込む道の幅を、さらにわずかに絞る。詰まった群れの動きも、明らかに鈍くなった。
しばらくの間、誰も、口を利かなかった。押し合う力と力が、拮抗したまま、動かない。汗が、リシアのこめかみを伝って落ちる。
やがて、個体が、群れごと、じりじりと後退していった。完全に退いたわけではない。ただ、今夜のところは、それで十分だった。
誰も、勝ったとは言わない。それでも、村は、まだそこにあった。積まれたままの木材も、応急の板も、崩れた柵も、明日また続く仕事として、そこに残っていた。
細く絞られたままの境界線だけが、そこに残っている。
リシアが、崩れるように、座り込んだ。それでも、薄膜だけは、解かない。
「守るとは、壁を厚くすることだけではない」
それだけ言って、リシアは、肩で息をついた。ニアも、リオネルも、ボルクも、見える範囲にいた。
ユノの姿だけが、どこにもなかった。




