第71話 聞くということ
答えられないまま、どれくらい経ったのか分からない。
リシアは、それ以上何も言わず、俺に背を向けた。サラの方へ戻っていく足音が、遠ざかる。誰も、俺を呼び戻さなかった。
境界の向こうで、個体が、まだ低く唸っている。押し込まれた薄膜が、いつまでもつのか、俺には分からなかった。分からないまま、体だけが、そこに縫い止められていた。
夕方には、境界の向こうの気配が、少しずつ薄れていった。個体が、諦めたのか、それとも別の場所を探しに行ったのか、確かめに行く者はいなかった。リシアは、限界まで張った薄膜を、そこで一度、解いた。もう保てない、と本人が言った。あとは、ボルクとリオネルの目に頼るしかない。危うさは、まだ残ったままだった。
声をかけられたのは、それからだった。
「突っ立ってると、体が冷えるぞ」
ロイだった。杖代わりの木剣を、地面に突いたまま立っている。脚の傷は、まだ布を巻いたままだった。
「……見てたんですか」
叱られる、と思った。身構えた。
「見てた。聞こえてもいた」
だが、続く言葉は来なかった。ロイは、それ以上責めなかった。ただ、隣に腰を下ろす。脚を庇う動きが、まだぎこちない。身構えていた肩から、力が、ふっと抜けた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。遠くで、誰かが夕飯の支度をしている音がする。鍋の底を叩く、金属の音だった。
「お前は、見えてた。それだけは本当だ」
昔、俺に言った言葉だった。あの時は、褒め言葉だと思って受け取った。今、同じ言葉が、違う響きで返ってくる。
自分でも、驚くくらい素直に、言葉が出た。
「見えてても、聞かなきゃ、何にもならないな」
地面に落ちた木の葉を、ロイが、杖の先で、意味もなくつついている。
「……今度は、聞いてもらえるといいなって、あの時、言いましたよね」
「言ったな」
「聞いてもらう側になれたと思ってました。でも、いつの間にか」
言葉が、途中で止まった。ロイは、急かさない。
名も知らない新人の話は、二人とも、しなかった。触れたら、崩れそうな気がした。ロイの目の下の隈が、いつもより濃い。稽古をつけていた、と言っていたあの新人のことを、ロイがどう受け止めているのか、俺には聞けなかった。
「証明したかったんだと思います。今度こそ、間に合う男だって」
声に出してみると、拍子抜けするほど単純な言葉だった。単純すぎて、今まで自分でも認められなかったのかもしれない。
「学院で結果を出しても、故郷で失敗すれば、元の俺に戻る気がしてました。だから、今度は絶対に間に合わせないといけないと」
言ってから、自分の声が、思ったより弱かったことに気づいた。ロイは、何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「その、元の俺、ってのは何だ」
「等級もない、誰にも聞いてもらえない、あの頃の俺です」
「あの頃のお前も、俺は、別に嫌いじゃなかったけどな」
軽く言われた一言に、うまく返事ができなかった。ロイは、そのまま先を続けない。それ以上の言葉は、要らないと分かっているようだった。
「今度こそ間に合う男になりたい、証明したい。その気持ちの、何が悪い」
ロイの声は、静かだった。
「悪くはないです。ただ、それを理由に、誰かを踏みつけていいわけには、ならない」
ロイは、頷きも否定もしなかった。ただ、杖の先で、また葉をつついた。
「昔の俺も、似たようなもんだった。前線で、誰よりも先に踏み込みたがった。仲間が止める声を、半分くらい聞き流してた」
「それで、脚を」
「それは違う。脚は、また別の話だ」
ロイは、それ以上、詳しくは語らなかった。
「サラは、無事なんだろ」
「はい。歩けるようにはなると、ニアが」
「それなら、まだやり直せる」
それだけ言うと、ロイは、立ち上がった。杖代わりの木剣に、体重をかける。顔をしかめたのは、一瞬だけだった。
「脚、大丈夫なんですか」
「大丈夫かどうかは、もう聞くな。慣れの問題だ」
軽い口調だった。だが、本当に軽いのかどうかは、俺には分からなかった。
「行けよ。俺に言うことじゃないだろ、それは」
背中を押されるまま、俺は立ち上がった。振り返ると、ロイは、もう夕闇に紛れて、姿がよく見えなくなっていた。杖の音だけが、遠ざかっていく。
村の井戸端に、リシアがいた。桶の縁に手を置いたまま、水面を見ている。井戸の周りだけ、灯りが少し明るい。誰かが、わざわざ提灯を掛け直したらしかった。結び目の高さが、いつもより低い。歩けない足で、それでも誰かのために灯りを整えに来た人物を、俺は一人しか知らなかった。
声をかけると、振り返らずに答えた。
「まだ、答え、決まりました?」
「決まってない。でも、聞きたいことがある」
「今度は、ちゃんと最後まで聞いてくれるんですか」
棘のある言い方だった。だが、いつもの棘だ。久しぶりに聞いた、その調子に、少し息がしやすくなった。
「聞く。今度こそ、約束する」
リシアは、少し間を置いてから、こちらを向いた。
「サラの足場を確かめなかったことも、ユノが言いかけてた声を遮ったことも、リシアの返事のことも、全部後回しにした。悪かった」
「返事?」
「郵便屋の前で、聞いた。アルヴェイン家宛の便を、出しておくって。誰かからの手紙に、返事を書いたんだろ」
リシアの手が、桶の縁で、一瞬止まった。
「……あれは、自分から言うつもりは、ありませんでした。あなたにも」
水を汲みに来ていた誰かが、俺たちに気づいて、少し離れた場所へ回っていった。声をかけるのも、憚られる空気だったのかもしれない。
「聞くつもりはなかった。ただ、ずっと覚えてた」
リシアは、しばらく黙っていた。桶の水面に映る自分の顔を、じっと見つめる。それから、静かに口を開いた。
「エリオから、また手紙が来ていました。家に戻って、正統な結界術を学び直せと」
エリオは、リシアの実家筋にあたる従兄で、家の結界術を継ぐ立場にいると聞いたことがある。
「前にも、似たような話があったのか」
「何度も。家にいた頃から、ずっとです。私の薄膜は、正統じゃない。壁を厚くしないなら、結界とは呼べないと」
初めて聞く話だった。リシアが自分の家のことを話すのを、俺はほとんど聞いたことがない。学院に来てからも、家の話題が出るたび、さりげなく逸らされていたことに、今更ながら気づいた。
「断ったのか」
「断りました。誰にも相談せず。あなたにも、母にも」
声に、迷いはなかった。エリオがどんな顔をしたのか、想像もつかない。リシアも、それを語らなかった。
「自分で決めたことです。誰かに背中を押されたからじゃない」
リシアの指先が、桶の水面に、小さく触れた。
「だから、さっき、あなたに言えたんだと思います。守られる側のままだったら、たぶん、言えなかった」
リシアは、そこで一度、言葉を切った。それから、続けた。
「隣に立つには、対等でいなきゃいけない。あなたが、それを忘れてる時は、これからも言います」
「言ってくれ」
「言われる前に、いつも自分で気づいてほしいですけどね」
それには、何も言い返せなかった。リシアが、桶の縁を、指先で軽く二度叩いた。
「……分かった」
「分かった、だけですか」
リシアの声に、いつもの棘が戻っていた。
「もう一度、聞かせてくれって、言えばいいのか」
「それだけじゃ、足りません」
「他に、何を言えばいい」
「今は、それでいいです。続きは、これから、ちゃんと聞かせてください」
リシアが、桶の水を、一度だけ静かに揺らした。波紋が、桶の縁まで届いて、消えていく。
境界の向こうで、何かが動く気配が、まだ完全には消えていない。柵の修理に使うはずだった木材は、隅に積まれたまま、夜露に濡れ始めていた。
「……お前の言う通りだ。もう一度、聞かせてくれ」




