第70話 証明の道具
黒熱を帯びた個体が、一歩、踏み出した。
地面が、鈍く鳴る。呼吸のたび、皮膚の下の光が、波のように流れて沈む。獣たちも、気配を殺したまま動かない。誰も、動けなかった。
昨日までなら、この重さの前で足がすくんだと思う。だが今は、頭の芯だけが、やけに冷えていた。名も知らない新人が焼け落ちた区画の熱を、まだ肌の奥で覚えている。あれを、二度と繰り返させない。今度こそ、守れることを示したかった。それだけが、今の俺のすべてだった。
個体の目が、こちらを一人ずつ、順に見ていた。狙いを、まだ定めきっていない。その一拍が、今だけの猶予だった。
ユノが、俺の袖を、まだ掴んだままだった。手を離す様子はない。離させる余裕も、こちらにはなかった。指の力だけが、いつもより強い。
「先輩、あれ、さっきの熱と繋がってます。地面の下、まだ何か――」
「後で聞く」
言葉を切って、俺は視線を村の奥へ向けた。ユノの声が、それきり止んだ。何かを言いかけた形のまま、口が閉じられる。
俺は、頭の中で、村の地図を組み立てていた。柵の残り、水路、焼け跡。使えるものと使えないものを、瞬時に並べ替える。誰が、どこに立っていて、次に何を頼めば一番早く動くか。それだけを、順番に決めていった。
「リシア、正面の道を絞ってくれ。あそこしか通れなくする」
「絞る、というと」
「境界を張って、道を狭くする。一頭ずつしか来られないようにすれば、俺の熱で足止めできる」
言い終わる前に、もう体が動いていた。リシアの返事を、最後まで聞かなかった。
「――分かりました。やります」
薄い声だった。迷いを押し殺した声だと、後になって気づいた。今は、聞き取る余裕がなかった。
「サラ、水路の水を、あっちの瓦礫へ回してくれ。足場を悪くすれば、突っ込んでくる勢いを削げる」
「瓦礫って、燃えた方のですか」
「そうだ。時間がない、急いでくれ」
「あそこ、水を回したら、足場がぬかるむかもしれません。先に――」
最後まで聞かず、サラが、頷くより先に、もう瓦礫の方へ走り出している。
俺はもう次の指示を出していた。ボルクに、正面の壁役を頼む声。リオネルに、退避の合図を頼む声。声は、次々に出た。誰かの言葉に、立ち止まって答える暇はなかった。
リシアの境界が、正面の道を、人一人分の幅まで絞る。狙い通りだった。個体が、その隙間へ吸い寄せられるように踏み込んでくる。俺は、絞られた道の両脇、金属の残骸に熱を流し込んだ。赤く灼けたそれに、個体の脇腹が触れる。低い唸り声。効いている。
誰かが、遠くで小さく笑ったような声を上げた。うまくいっている、という手応えが、その場の全員に広がった気がした。俺だけが、それを確信に変えていた。
カイルが、境界の脇で膝をつき、脆化を発動する構えを取っている。あと一押しで、決着まで持っていける。頭の中では、もう次の三手先まで組み上がっていた。誰かの足元を確かめる余裕は、その先読みの中には入っていなかった。
「よし――」
声を上げかけたところで、後ろで水音が跳ねた。振り返ると、サラが、瓦礫の斜面で足を滑らせていた。自分で回した水が、瓦礫の表面をぬめらせている。薄靴の底が、その上で滑ったらしい。膝から下が、瓦礫の隙間に挟まっている。
「サラ!」
「大丈夫、大丈夫です、ちょっと――」
言葉の途中で、顔が歪んだ。瓦礫の隙間に挟まった足首が、変な方向にひねれている。抜こうとした足の甲にも、木の破片で浅い切り傷ができていた。血の量はそう多くない。それでも、彼女はしばらく、自分の足に体重を乗せられなかった。
個体は、境界に阻まれて、その場で唸ったまま動かない。だが、境界に押しつけた鼻先が、じわりと薄膜を押し込んでいる。長くはもたない。今のうちに、退がるしかなかった。
カイルが、構えていた脆化を解いた。誰に言われたわけでもなく、まだ癒えない腕の傷のまま、サラの方へ先に駆け寄っている。
リオネルがサラの肩を支え、皆で瓦礫の区画から離れる。境界の向こうで、個体が、じれたように地面を掻く音が聞こえた。押し込まれた薄膜が、まだ持ちこたえている。だが、いつまでかは、リシア自身にも分からないはずだった。
水路から回した水は、結局、あの個体の足止めには一度も使われていない。
村の広場まで戻ると、誰も、何も言わなかった。サラの足に、ニアが布を巻いていく。傷は浅いと、ニアが小さく言った。それだけで、場の空気は緩まない。
サラは、痛みを堪える顔のまま、俺の方をずっと見なかった。責めようとして見ないのか、それとも別の理由なのか、俺には読み取れなかった。ニアの手だけが、いつも通り迷いなく動いている。
水路の水を回した先の瓦礫が、まだ濡れたまま光っている。誰かがそれを片付け始めたが、途中で手を止めた。今は、それどころではないと気づいたらしい。
ユノが、少し離れた場所で、俺と目が合うと、すぐに逸らした。さっき遮った袖の感触だけが、まだ腕に残っている。言いかけたことを、彼女はもう口にしなかった。
誰かの持ち場に立てかけてあった木箱が、一つ、倒れる音がした。誰も、それを直しに行こうとしない。
リシアが、俺の前に立った。
「レン」
いつもの棘のある丁寧さではなかった。凪いだ、平らな声だった。
「さっきの道、あそこしかなかったんですか。境界を、もう少し広く取れる場所があったはずです」
「時間がなかった。一番早く塞げる場所を選んだだけだ」
「サラの足場を、確かめましたか。あの瓦礫、水を吸って、余計に滑りやすくなっていたはずです」
答えられなかった。確かめていない。地図の中で、道を絞ることばかり考えていて、その先に誰がどう動くかまでは、見ていなかった。
「ユノが、何か言いかけていたのも、聞きませんでしたよね」
それも、答えられなかった。袖を掴まれた腕の感触だけは、覚えている。中身は、覚えていない。
「さっき、足場がぬかるむかもしれないって、私、言いかけました。急いでたから、自分の足元、見ないで水を流しました」
サラが、包帯を巻かれた足のまま、小さく口を挟んだ。責める声ではなかった。だからこそ、こたえた。
丁寧語が、初めて剥がれた。
「あなた、私たちを証明の道具にしていない?」
静かな声だ。責めるというより、確かめるような響きだった。
俺は、何かを言おうとした。違う、そんなつもりはない、と。だが、口を開いた瞬間、それが嘘だと自分でも分かった。
鑑定盤の前で、誰も俺の言葉を聞かなかった日のことを、思い出す。火しか出せない、それだけの男の話を、誰も最後まで聞かなかった。あのとき欲しかったのは、ただ、聞いてもらうことだ。
リオネルが、手帳を持ったまま、何も書かずに立っていた。ボルクも、口を挟まない。誰も、俺をかばわなかった。
リシアは、それ以上、何も言わなかった。ただ、俺の答えを待っている。
村の広場に、風が一つ抜けた。焦げた匂いが、まだどこかに、薄く残っている。柵の修理に使うはずだった木材が、隅に積まれたまま、誰にも触れられずにいた。
境界の向こうで、個体が、まだ低く地面を掻いている。薄膜を押し込む音に、ユノの「地面の下、まだ何か――」が重なって聞こえた。
何か答えなければ、と思う。だが、何を言えば正しいのか、分からなかった。
俺は、言葉を、失った。




