第69話 補給村防衛戦・第一波
鐘が、乱れた音で鳴った。一度だけの合図じゃない。連打だった。
竈の煙が、まっすぐ立ち昇ったまま、動きを止めた。朝の支度をしていた誰かの手が、止まったらしい。
柵の外、森の際が、黒く揺れていた。獣の群れが、木々の隙間から、次々に湧いて出てくる。数は、外周の交戦のときの比じゃない。十を超えている。
昨日までの警戒態勢が、今日の数を、まったく見積もれていなかったことだけは、誰の目にも明らかだった。
「サラ、水路を閉じてください」
リオネルの声が飛ぶ。サラは、もう走り出していた。命令を最後まで聞かないうちに動き出すのは、いつものことだった。
「はいっ、こっち手薄になります、誰か回して――」
水路の水を土手に集め、吸わせて、乾かして固める。それが、サラの能力だった。水を吸った土手が、サラの手の下で、みるみる硬く乾いていく。柵の継ぎ目、獣が抜けそうな一角を、土の壁で塞いでいく。乾いた地面がひび割れる音が、あちこちで重なった。指の腹が、途中で赤く擦れているのが、遠目にも分かった。サラは、それに気づいているのかいないのか、手を止めずに、次の継ぎ目へと移っていく。
汗が、顎の先から落ちた。拭う暇もなかった。
「メイ、右手の茂み」
「もう見てます。数、十二。うち一頭、様子が変です」
声が、茂みの奥から返ってきた。姿は見えない。メイの声だけが、こちらへ届く。
「変って、どんな風に」
「動きが、揃いすぎてます。獣って、もっとバラバラに来るものなのに」
答えた声が、途中で途切れた。茂みが、大きく揺れる。メイが、体勢を低くしたまま、こちらへ駆け戻ってきた。息が、上がっている。
ユノが、柵に手をついたまま、目を閉じていた。指先が、震えている。
「先輩……一頭、揺れの質が違います。他のと、明らかに」
「どう違う」
「分かりません。分からないけど、たぶん、危ないです」
言葉にならないまま、それだけを絞り出す。俺は、その声を頭の隅に留めた。留めただけで、確かめる時間はなかった。
柵の板が、軋む。誰かの怒鳴り声。水音。土のはぜる音。ばらばらに重なって、一つの騒音になっていた。
考える暇は、なかった。
誰かの持ち場から、鍋の焦げる匂いが、ふいに漂ってきた。
柵の南側が、最初に崩れた。獣の一頭が、体当たりで木の杭をへし折る。ボルクが割って入り、拳で押し返す。皮膚が、殴るそばから、灰色に硬く変わっていく。だが、崩れた隙間から、二頭、三頭と、続けて入り込んでくる。
「数、多すぎるだろ」
柵の外れで、鶏が一羽、事情も知らずに走り回っていた。
ボルクが、二頭目の顎を殴りつけながら、独り言のように零す。返事を期待した声ではなかった。誰も答えなかった。三頭目が、彼の背後に回り込む。
「後ろ、任せろ」
ロイの声だった。木剣が、一閃する。稽古用のはずのそれが、獣の鼻面を、確かに打ち据えた。
「北も来ます!」
カイルの声。脆化を使う間もなく、彼自身が盾になって、獣の突進を受け止めていた。監視付きの立場を、今だけは誰も咎めなかった。
「カイル、無理はするな」
「無理じゃなきゃ、間に合わないんですよ、こういうのは」
言い返す声に、余裕はなかった。二頭目の爪が、彼の腕を浅く切る。血が、少し滲んだ。それでも、足は下がらなかった。
ボルクが、カイルの隣に並んだ。何も言わず、二頭同時に殴り飛ばす。カイルが、ちらとその横顔を見て、また前を向いた。それだけで、何かが伝わったらしかった。
俺は、リシアと二人で、東の細い路地を塞いでいた。薄膜が、獣の牙を一度弾く。だが、二頭目の爪が、膜の端をかすめて破った。
「――もう一枚、張れます。でも、次はもたないかもしれません」
「分かった。俺が熱で足止めする」
金属の柵の留め具に、熱を流し込む。赤くなった金属に触れた獣が、悲鳴を上げて怯む。効いている。だが、それも数秒だ。次の一頭が、もう間合いに入っていた。
息を吸う。吐く。次を、考える。留め具の熱が、じわりと指先まで伝ってきて、その熱さで、頭の芯が、少しだけ冷える気がした。
「レン、下がって。次、張り直します」
リシアの声に、迷いはなかった。薄膜が、路地の幅いっぱいに、もう一枚広がる。前のものより、心なしか色が薄い。長くはもたない、と本人が言った通りだった。
「境界、あとどれくらい保つ」
「分かりません。保たせます、としか言えません」
答えになっていない、と思ったが、それ以上は訊かなかった。ユノの声が、まだ耳の奥に残っていた。留めただけで、確かめていない声が。
村の奥、古い納屋のあたりから、悲鳴が上がった。金属を叩く音とは、明らかに違う響きだった。
「あっちの区画、退避が終わってません!」
誰の声かは、分からなかった。だが、切迫の度合いだけは、はっきり伝わってきた。
リオネルが、手帳を鞄に押し込みながら、走り出していた。
俺も、後を追った。息が、上がる。納屋のそばには、以前ロイが稽古をつけていた、あの空き地がある。木剣を打ち合う音を、俺はここで何度も聞いた。新人が転んでは起き上がる姿を、遠目に眺めていたこともある。稽古の終わりには、律儀に一礼してから帰っていく奴だった。名前までは、覚えていない。
誰かが、納屋へ駆け込んでいく後ろ姿が、遠目に見えた。見覚えのある、小さな背中だった。
着いたときには、もう遅かった。
獣の群れの一頭が、逃げ惑う人を追って、灯りの台を蹴り倒した。零れた油に、火が回る。乾いた藁と木の壁に、あっという間に燃え広がった。風が、悪い方向に吹いていた。
俺は、熱を殺そうと手を伸ばした。だが、届く前に、火はもう壁一面を這い上がっていた。感じ取ることはできても、触れていない炎を消すことは、できない。
「誰か、まだ中に!」
誰かが叫ぶ。水を、サラが飛ばす。届かない。距離が、足りない。届く前に、屋根が、崩れ落ちた。
熱が、俺の肌にまで届く。焼け跡全体が、燃える熱のまま、均一に静まっていた。その中に、まだ動くものがあるのか——読み分けられなかった。何度も、確かめた。応えるものは、何もなかった。
名前も、知らない相手だった。それでも、拳を、強く握っていた。
ロイが、駆けてきた。
崩れた納屋の前で、足が止まる。杖代わりの木剣を、地面に突く。それだけで、体を支えている。脚の外側、布が赤黒く滲んでいた。南から、ここまで駆け通しで来たらしい。詳しい事情は、あとで聞くしかない。
何も言わなかった。俺には、その顔だけで、十分だった。あの、名も知らない新人の名を、ロイは、最後まで口にしない。
灰になりかけた壁の残骸の前で、手帳を持たないままの手が、何かを書こうとして、止まっていた。誰の手かは、見なくても分かった。
くすぶる木材に、水をかけ続ける音だけが、続いていた。もう火は消えている。それでも、止まらない。手のひらに、大きな水膨れができているのが、遠目にも分かった。次からは、この速さで水を出せないかもしれない。
火が、獣たちの足も止めていた。しばらくの間だけ、戦いが、止まった。
焦げた瓦礫の縁に、そっと手が触れる感触が、隣から伝わってきた。境界を確かめる、いつもの仕草だった。今は、それだけのことに意味があるように見えた。少し離れた場所では、膝をついたまま、動かずにいる姿もあった。声を、かけられなかった。
離れた木の陰から、メイが、小さく手を上げた。無事の合図らしい。声を出す元気は、なさそうだった。
風の向きが、少しだけ変わった。焦げた匂いが、薄れていく。
その静けさの中で、森の奥から、地面を割るような足音が近づいてくる。一歩ごとに、地面が、確かに揺れた。
木々が、押し倒される音。焦げた匂いに混じって、もっと重く、もっと熱いものが匂った。
掲げたままの水も、止めたままの手も、その方角を向いていた。誰も、動かなかった。
俺は、熱を、遠くまで薄く伸ばした。届いた先で、何かが跳ね返ってくる。今までの獣とは、明らかに違う強さで。
姿を現したのは、これまでの獣の、二回りは大きい影だった。全身の毛が、炎に炙られたように黒く、その奥で、皮膚そのものが、赤黒く脈打って発光していた。歩くたび、その光が、皮膚の下を流れて、また沈んだ。呼吸の音だけが、やけに大きく響いていた。
ユノが、俺の腕を、強く掴んだ。指先が、冷たかった。
「――これです。さっき言った、揺れの質が違う個体」
声が、震えていた。それでも、目は、逸らさなかった。獣たちが揃いすぎていた理由が、今、目の前に立っていた。
手帳を開くリオネルの指が、うまく紙をめくれずにいた。ページの端が、風もないのに揺れている。ボルクは拳を握り直し、カイルは、傷ついた腕のまま、一歩、前に出た。
誰も、動けなかった。
黒熱を帯びた、大型の個体だった。




