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第68話

第68話 間に合わせたい


 ユノが村に着いたのは、翌日の朝だった。


 馬から降りるなり、荷物も下ろさずに、こっちを見た。頬に、乾いた土が、白く浮いていた。


「レン先輩。浅瀬の話、本当ですか」


 誰にも挨拶をする前に、まず俺の姿を探していたらしいと分かるくらい、その足取りには迷いがなかった。声が、いつもより硬い。俺は、詳しい説明を省いて頷いた。時間が惜しかった。


「本当だ。詳しい話は、歩きながらでいいか」


 ユノは、それ以上訊かず、荷物を担ぎ直した。目の下に、薄く隈ができている。夜通し馬に揺られてきたのかもしれない。訊けば答えるだろうが、今はその余裕もなかった。


 門番が、遠くから小さく手を上げた。ユノは、それに気づかず、先に集会場の方へ歩き出していた。


 集会場に、地図を広げる。灰雨鉱窟の記録、村の帳面、昨日リオネルが書き足したページ。ゼクトの姿は、もうなかった。「調べる」とだけ言い残して、朝には村を出ていたらしい。行き先は誰も聞いていない。書き置きの紙切れが一枚、テーブルの端に残されていた。字は、思ったより丁寧だった。母さんは、その紙切れを、しばらく黙って見つめていた。


 親父の容態を訊きに来たのだろう村人が、戸口から中を覗いて、また静かに引き返していった。誰も、それを気に留めなかった。


「もう一度、浅瀬に入ります」


 俺が言うと、リオネルの手が止まった。ペン先が、紙の上で、小さな染みを作る。集会場の隅で、誰かが小さく咳をした。誰のものかは、確かめなかった。


「昨日、脈が急に強まったばかりです。危険度は、まだ測り切れていません」


「分かってる。だから今日のうちに、確かめる」


 言ってから、自分の声が、思ったより強かったことに気づいた。誰も、それ以上は、何も言わなかった。窓の外、干したままの布が、誰にも取り込まれずに垂れ下がっていた。


 ユノが、荷物も解かないまま、地図を覗き込む。


「私が、村に着くまでの道中、馬に揺られながらずっと考えていたことを、少しだけ、お伝えします。……間隔じゃなくて、揺れの方向が」


「後でいい。今は歩きながら聞く」


 言葉を、途中で遮った形になった。ユノの口が、一瞬、閉じる。それ以上、続けなかった。地図の端を持つ指先だけが、しばらく小さく動いていた。何かを、まだ言いたそうに。


 親父は、寝台から起き上がろうとして、母さんに止められていた。杖を握る手だけが、まだ何か言いたそうに動いている。義足の継ぎ目が、布の下で、かすかに軋む音を立てた。俺は、それを見なかったことにして、荷物を背負った。


 サラが、水袋をいくつか差し出してきた。


「無理は、しないでくださいね。あと、その水袋、村の備品なので、ちゃんと返してくださいね」


「分かってる」


 分かっていなかった。自分でも、そう思う。


 ボルクは、外周の見回りに出たまま、まだ戻っていない。メイの姿も見当たらなかった。誰がどこにいるのか、今の俺には、確かめている余裕がなかった。


 リオネルが、手帳を鞄にしまいながら、俺の顔を、一度だけ見た。何かを確かめるような目だった。俺は、その視線から、先に目を逸らした。


 割れ目までの道を、行きよりも速く歩いた。リシアが、途中で一度、足を止める。


「――膜が、また薄くなっています。前に確かめたときより、はっきりと」


「知ってる。だから急ぐ」


 答えになっていない。分かっていたが、止まらなかった。リシアの足音が、後ろで、一瞬遅れる。追いつくまでの数秒を、俺は待たなかった。


 リシアが、俺を追い越して、先に立って歩き出した。振り返らないまま、それだけした。


 狭い割れ目を、今度は迷わず抜けた。壁に何度か肩をぶつけたが、痛みに、あとで気づいた。ユノが、後ろで小さく息を切らしている。長旅のあとに、休みも取らせていない。分かっていて、止まらなかった。


 割れ目を抜けると、脈打つ岩の音が、遠くからでも聞こえる。低く、途切れながら。昨日は土の外にあったはずの、朽ちた天幕の骨組み。その脚が、二本とも、赤黒い土の中に沈んでいた。


 ユノが、その音に、耳を澄ませた。目を、細くする。


「――これ、変です」


 短く、それだけ言う。それから続けた。


「一拍目と二拍目で、足の裏に来る向きが違います。片方は下から、もう片方は、横から」


「見た限り、岩は一つしかないぞ」


「分かってます。でも、揺れの出どころは、確かに二つあるんです。片方は、岩じゃなくて……もっと下からです」


 俺は、足を止めなかった。ユノの言葉が、頭の隅に入っては、すぐにこぼれていく。今は、脈の間隔さえ測れれば、母さんの帳面と照合できる。それだけで、十分だと思っていた。


 リオネルが、帳面と手帳を並べて広げる。指先が、行と行の間を、いつもより速く動いていた。焦っているのが、動きだけで分かる。今日の分の欄が、まだ、ほとんど白いままだった。


「レン先輩。急がなくても、記録は逃げません。焦って書いた数字ほど、あとで読み返すと当てにならないものです」


「逃げるかどうかは、俺が決めることじゃない」


 言ってしまってから、自分の言葉に、少し驚いた。誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。


 リシアが、岩の反対側で、指先を土に触れさせていた。境界を確かめているらしい。何も言わない。その手の動きのほうが、何かを言われるより、こたえた。


 岩に近づく。熱を流す。指先に返ってくる感触が、前より速い。骨に近いところまで、一息に来る。速すぎる。


「リオネル、間隔、計ってくれ」


「今、ちゃんと計ってますから。ですが」


「急いでくれ」


 語尾を、また遮った。リオネルが、手帳から顔を上げて、俺を見た。何か言いかけて、やめる。手帳の紙を押さえる指に、力がこもっていた。


 どれくらいの沈黙があったのか、正確には分からない。ほんの数秒だったはずだが、もっと長く感じた。


「レン先輩は、いつもこうでしたっけ」


 やがて、リオネルが、静かに訊いた。皮肉ではなく、ただ確かめるような口調だ。俺は、それに答えなかった。答える言葉を、持っていなかった。


 ユノが、俺の隣に来て、地面の一点を指さした。


「レン先輩、待ってください。ここ。ここだけ、様子が違います」


 声が、いつもより張っている。長旅の疲れも、隠さず全部乗せてきたみたいな、精一杯の声だった。届けようとしているのが分かった。指先が、わずかに震えていた。


「……先輩。私、いま、たぶん、役に立ってないですよね」


 ユノが、続けてそう零した。責める口調ではない。むしろ、静かすぎるくらいだった。


 答えられなかった。今度こそ間に合わせたい、としか、俺には言えない。何に、誰に対して間に合わせたいのか、それすら、自分で分けられていない。等級のなかった俺の言葉を、誰も聞かなかったあの日。ロイの顔。査問でのユノの声。脈打つ岩。それが、頭の中で、重なったままだった。


 あの査問で、ユノの警告は「記録にない」の一言で退けられた。今度は違う、と思っていたはずだった。なのに今、その声を、俺自身が、聞き流そうとしている。誰よりも分かっているはずの俺が、だ。気づいていて、それでも、手を止められなかった。


 リオネルが、地図から顔を上げて、俺とユノを、交互に見た。何かを言おうとして、結局、何も言わなかった。手帳の角を、指先で何度も撫でている。書くべきことが、多すぎるのかもしれない。


 だが俺は、その指の先を、ちゃんと見なかった。岩の間隔だけを、数え続けていた。ユノの感知が、今、何を拾ったのか——確かめる前に、俺は熱を、もう一段深く流し込んでいた。


 跳ね返りが、途中で、二つに割れた。


 ……二つ。


 ユノが、俺の名前を呼んだ。

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