第67話
第67話 ゼクト再来/返事
煙管の匂いが、先に来た。
村の柵の前で、振り向くと、そこにいた。旅装のまま、柵の杭に片肘をついている。修理の終わっていない一角を、ちょうどそこだけ避けるようにして、立っていた。最後に会ったのが、いつだったか、すぐには思い出せない。
「よう、坊主」
旅の埃を、まったく気にしていない声だった。
ゼクトが、片手を軽く上げた。学院の制服姿の俺を、上から下まで、一度だけ眺める。
「大きくなったな、って言うほど、そう久しぶりでもないか」
煙管の先が、赤く光る。吸い口から漏れる煙が、ゼクトの目の高さで、薄く広がった。
「……何しに、来たんですか」
「風の噂ってやつだ。辺境じゃ、噂も風に乗って、ちょっとばかり速く遠くまで走る」
それだけ言うと、ゼクトは、答えを待たずに、村の奥へ歩き出した。煙管の煙が、風もないのに、後ろへ長く尾を引いている。
どこまで本当か、いつも分からない男だった。学院への推薦状を書いたときも、理由をちゃんと聞けた覚えがない。柵の修理跡を横目で見ながら、ゼクトの足取りは、まるで前から知っている道のように迷いがなかった。旅装の裾に、村では見ない色の泥がついている。どこを通ってきたのかは、訊かなかった。
母さんが、井戸端の脇でゼクトに気づいて、一瞬だけ手を止めた。だが、すぐに薬草の束へ視線を戻し、何も言わなかった。ゼクトの方も、軽く片手を上げただけで、通り過ぎていく。二人の間にも、何か、俺の知らない挨拶の仕方があるらしかった。
途中、村の郵便を扱う雑貨屋の前で、リシアとすれ違った。手に、何も持っていない。指先に、まだインクの跡が残っていた。
店先から、主人が、俺に向かって声をかけてきた。
「今の子の分、確かアルヴェイン家宛だったな。次の便で出しとくよ」
俺は、何と答えていいか分からず、曖昧に頷いた。主人は、それ以上、深くは訊いてこなかった。
「その人、誰ですか」
「昔の知り合い。親父の、なんというか……もう、ずいぶん古い伝手だ」
自分で言っておいて、ひどく雑な言い方だと思った。だが、それ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。
うまい説明には、なっていない。それでもリシアは、それ以上訊かず、小さく頷いて、井戸の方へ歩いていった。振り返ると、水を汲むでもなく、桶の縁に手を置いたまま、じっと動かずにいる。肩のあたりの力が、いつもより抜けているように見えた。何かを終えた後の姿勢に、少し似ている。
声はかけなかった。かける理由が、うまく見つからなかった。井戸の水面が、リシアの影を映したまま、揺れずに静まっている。俺は、そのまま集会場へ足を向けた。
集会場では、リオネルが、記録を並べたままにしていた。灰雨鉱窟の写し、村の帳面、そして昨日の分。紙の端が、机の木目に沿って、少し反っている。机の脚の一本が、相変わらず長さが合っておらず、リオネルが身じろぎするたび、かたりと小さく鳴った。ゼクトは、煙管を持ったまま、その前にしゃがみ込んだ。読むというより、眺める、という感じだった。
「拍が、きっちり揃ってる、ってやつか」
「はい。ちゃんと、その三つとも」
「その杭も、三本とも、削られてたんだって?」
「はい。二重に、なってました。古いのと、最近のと」
ゼクトの眉が、わずかに動いた。それだけだった。表情そのものは、最後まで崩れない。
ゼクトは、しばらく何も言わなかった。煙管の先だけが、ゆっくり赤くなって、また暗くなる。灰が、指の腹に落ちても、払おうとしなかった。リオネルも、それ以上は説明を継ぎ足さず、ただ、ゼクトの反応を待っていた。
「親父は、どこだ」
「奥の部屋で、休んでます」
「休んでる、ね……」
ゼクトの口調が、少しだけ変わった。軽さの底に、何か硬いものが混じった気がした。リオネルが、手帳を持つ手を止めて、こっちを見た。何も言わなかった。窓の外では、サラとメイが、崩れた柵の残りを片付けているのが見えた。二人とも、こちらには気づいていないようだった。
奥の部屋の前で、ゼクトは、一度、足を止めた。それから、ノックもせずに戸を開けた。俺は、その後ろから、覗き込む形になった。
親父は、寝台の上で、半分だけ体を起こしていた。使い込んだ杖は、壁に立てかけてある。窓から差す光が、床の木目を、斜めに区切っていた。枕元には、水の入った椀が、手つかずのまま置かれている。ゼクトを見ても、驚いた顔はしなかった。
「早いな」
「風が、やけに速いんだよ、この村は」
ゼクトが、部屋の中に入る。俺は、戸口で立ち止まった。二人の間に、入っていい空気じゃない気がした。
「浅瀬まで、この坊主を連れてったのか」
「入口までは、行った」
「入口までで、もう、そのざまか。老けたな」
ゼクトの目が、親父の足元へ、一瞬だけ落ちた。親父は、何も答えなかった。壁に立てかけた杖の影が、床にまっすぐ伸びている。
俺は、その視線の意味が、分からなかった。父の弟子だった、という一言を、俺はずっと聞き流してきた。どっちが先にこの村に来たのかも、どちらが年上なのかさえも、俺は知らない。
「昔、俺を拾ったのも、あの手の場所だったな」
ゼクトが、煙管を、指の間で回した。
「拾ったんじゃない。お前が、勝手に、ついてきただけだろう」
親父は、それだけ返した。それ以上は、続かなかった。窓の外で、鶏の声が、一度だけ響いて、また静かになる。
寝台の脇、丸めた布の下から、親父の右足が、少しだけはみ出していた。膝から下が、まるで自分のものではないみたいに、動いていない。皮膚の続きだと思っていたものが、途中から、木の節のような硬い筋に変わっていた。今まで、意識して見たことすら、なかった。
ゼクトの視線も、同じところに、一瞬だけ落ちていた。
「まだ、そこの継ぎ目、緩んだりするのか」
「今更、緩むも何もあるか。もう、すっかり慣れたもんだ」
親父が、布を引き寄せて、足を隠す。動きは、いつもよりわずかに速かった。ゼクトは、それ以上、訊かなかった。代わりに、寝台の端に、勝手に腰を下ろす。
二人とも、それきり、しばらく口を開かなかった。窓の光が、床の木目の上を、少しずつ動いていく。俺は、戸口に立ったまま、その沈黙の長さを、ただ数えていた。さっきの井戸端の桶は、まだ水を汲まれていないはずだった。
ゼクトは、しばらく、天井のあたりを見ていた。何かを、数えているような目だった。数え終わるまで、誰も口を挟まなかった。
「杭の話も、削られた記録の話も、聞いた」
「それで……?」
「間隔、揃ってる。深さも、そこそこ」
ゼクトは、そこで言葉を切った。煙管の煙が、いつもより、細く長く伸びていた。指先が、柄の部分を、意味もなく撫でている。撫でる指は、止まらなかった。
気づけば、一歩、前に出ていた。
「何か、知ってるんですか」
親父は、何も言わなかった。ただ、寝台の脚のあたりを、じっと見ている。逃げているのか、それとも、ただ聞いているだけなのか、俺には判断がつかなかった。
柵の前で、ゼクトが、修理の終わっていない一角だけを避けて立っていたことを、ふいに思い出した。あれは、遠慮じゃなかったのかもしれない。
ゼクトは、俺の方を見なかった。煙管の煙が、二人の間で、ゆっくり形を崩していく。親父の顔だけを、見ていた。
「師匠が足を失った遠征と、同じ匂いがする」




