第66話
第66話 浅瀬の脈動
誰も、すぐには動かなかった。
親父の言葉が、岩の臭いに混じって、いつまでも残っている気がした。
「道が消えた、って」
リオネルが、手帳を持ったまま訊いた。親父は答えず、杖の先で岩肌の際を軽く叩く。乾いた音がした。
「こっちだ。昔の道は、埋まってる。回り道がある」
親父は、右手で岩の割れ目を示した。人ひとりがやっと通れるくらいの隙間だ。奥は薄暗く、どこまで続いているのか、外からは見当もつかない。苔も生えていない。最近、誰かが通った跡もなかった。
「危なくないですか」
リシアが訊いた。親父は、答えなかった。ただ、杖の先で割れ目の奥を示しただけだった。
深追いする者は、いない。リオネルが、手帳を開きかけて、そのまま閉じた。
親父を先頭に、割れ目を抜けた。体を横にしないと入らないほど狭い。壁の岩肌は、湿って冷たい。親父が、杖を持ち替える回数が、増えていた。時折、上のほうから細い水の筋が落ちてきて、首筋を伝う。奥へ進むほど、音が変わっていく。自分の足音だけが、やけに近く聞こえた。リオネルの手帳が岩に擦れる音がした。表紙の角が丸くなっていたのは、明るい場所に出てから気づいた。俺の上着の袖にも、名も知らない草の実がいくつも絡みついている。あとで取ろうと思ったが、結局そのままだった。
途中、リシアが立ち止まって、岩肌に手をかざした。
「――この先、膜が薄いです。押したら、破けそうなくらい」
それだけ言って、また歩き出す。どういう意味かは、分からないままだった。ただ、リシアが「薄い」と言った場所で、何もなかったことは、これまで一度もない。
どれくらい進んだのか、分からなくなった頃、前を歩く親父の足が、ふいに止まった。
「出るぞ」
その一言で、視界が開けた。
抜けた先は、思ったより広かった。灰色の地面が、なだらかに下っている。草はない。土の色が、途中から赤黒く変わっていた。風が、通っていない。音も、ほとんどなかった。虫の一匹も、鳥の一羽もいない。
少し先に、朽ちた天幕の骨組みが倒れていた。布はとうに失われ、木の骨だけが、白く乾いて残っている。すぐそばに、水筒が転がっていた。底が抜けている。持ち主が誰かは、分からない。
「――ここが」
俺は、足を止めた。
前線の浅瀬。あの頃、俺がそう呼んで、誰にも聞いてもらえなかった場所だ。名前だけ知っていて、来たことはなかった。想像していたよりずっと、広く、静かだった。地の底から突き上げるような気配は、どこにもない。静かすぎて、自分の耳鳴りが聞こえた。
地面の奥、少し窪んだあたりに、黒っぽい岩が露出していた。表面が、ゆっくりと脈打っている。呼吸のように、膨らんで、萎む。膨らむたびに、表面のひび割れが、うっすらと赤みを帯びて浮かび上がり、萎むとまた元の黒に沈んでいく。岩の周りの赤黒い土に、細い筋がいくつも、同じ向きに擦れていた。足跡と呼ぶには、形がなさすぎる。近づくにつれ、息を吸う回数が、増えていた。喉の奥が、少し苦い。
似た脈だった。学院の中層で、熱を流して読んだ、あの空洞の動きに。壁の向こうで息をひそめていた、あの気配と同じものが、ここでは隠れもせず、地面に居座っている。
「――同じかもしれない」
声が、勝手に出た。リオネルが、すぐに手帳を開く。ページをめくる手が、少し急いていた。
「灰雨鉱窟で測った黒い熱と、村の甲殻と、いま目の前のこれ。拍の間隔が、三つとも同じです」
「間隔まで、本当に同じなのか」
「はい」
親父は、何も言わずに、脈打つ岩を見つめていた。杖を握る手に、力が入っているのが見える。膝は、少し震えていた。額の汗が、顎の先まで伝って落ちる。
リオネルが、鞄の底から、母さんに借りたあの古い帳面を取り出した。持ってきていたことを、俺はそこで初めて知った。ページを繰る指が、わずかに震えている。
俺は、熱を流してみた。表面のすぐ下で、跳ね返ってくる。脈打つたび、強くなっている気がした。
「――強くなってきてる、気がする」
リオネルが、手帳から顔を上げないまま、首を横に振った。
「間隔は、変わってません。三つとも、誤差はほとんどないままです」
「数字の話じゃない。触った感じの話だ」
「感じで書き換えたら、記録じゃなくなります」
それ以上、何も言わなかった。俺の感覚と、リオネルの記録が、噛み合っていない。どちらが正しいのかは、分からないままだった。
リオネルが、すぐ隣にしゃがみ込んだ。地面から、短い杭のようなものが突き出ている。古い測量杭だった。少し離れた場所にも、同じ形の杭が、あと二本。頭の部分に、文字が刻まれていたはずの跡がある。だが、どれも削り取られていた。刃物か、それに近い何かで、意図的に。指でなぞると、削った溝の底の、さらに奥にもう一段浅い筋が走っていた。前の削り跡を、なぞるようにして、上から削り直した跡だ。古い溝には、指に付くほど埃が積もっているのに、重ねて削られた筋にだけ、埃がない。指先についた粉を嗅ぐと、削りたての石の匂いがした。
「これ……誰かが、消してます。それも、最近も」
リオネルの声が、少し掠れた。手帳を持つ手が、ほんのわずかに強張っている。
「風化じゃ、こうはならない」
親父が、削り跡に杖の先を当てた。動きが、いつもより遅かった。
「昔、俺たちが来た時には、もう、こうだった」
「昔って」
「訊くな」
短く、それだけだった。目は、削り跡から動かない。それ以上は、踏み込めなかった。
入口に、誰かが通った跡はない。
……なら、そいつは、どこから入ってる。
そのとき、脈が、変わった。膨らむ間隔が、急に短くなる。地面が、低く鳴った。振動というより、うなり声に近い。空気が、一段階、重くなった。
「――さっきの膜、動いてます」
リシアが、短く言った。
「退がるぞ」
親父の声が、初めて張った。だが、体はすでに傾いでいた。足が、もつれる。杖の先が、地面を空振りした。息の音が、荒く、短く、途切れがちになっていた。
俺は、とっさに肩を支えた。リシアも、反対側から腕を回してくる。
「歩ける」
「歩けなくても、退がります」
リシアが、言い返す隙を与えなかった。親父は、何も言わなかった。目だけが、まだ脈打つ岩を見ている。
足元の地面が、細く裂けた。リオネルが体勢を崩し、抱えていた帳面を取り落とす。裂け目のすぐ際に落ちたそれを拾いに屈んだ一瞬、脈の音が、耳のすぐそばで低く鳴った。
割れ目まで、来た時より長く感じた。振り返ると、脈打つ岩の周りだけ、赤黒い土が、来た時より広がっていた。それだけ確かめて、あとは走った。
割れ目の前で、リシアが手を離した。狭さが、二人がかりの支えを許さない。親父を先に押し込み、俺があとに続く。
狭い隙間を、今度は逆向きに抜ける。リオネルの息が、思いのほか大きかった。抜けきるまで、沈黙が続いた。
割れ目を抜け、元の道に戻ると、親父はそのまま地面に座り込み、肩で息をしている。杖を、両手で握りしめていた。リシアが水袋を差し出す。今度は、ちゃんと礼を言った。
俺は、来た道を振り返った。岩の壁の向こうに、まだあの脈が続いているはずだ。見えないのに、続いているのが分かる気がした。学院の査問で、ユノの言葉が「記録にない」の一言で退けられたことを、ふいに思い出した。
遠くに、村の屋根が見えてきた。何ごともなかったような煙が、細く立ち昇っている。それだけのことが、やけに眩しく見えた。母さんは、まだ何も知らない。あの脈のことを、どう話せばいいのか、俺にはまだ分からなかった。
リオネルだけが、手帳を閉じずに、何度も同じページを見返していた。指先が、記録の欄と欄の間を、行き来している。
「……この帳面の間隔、今日のより、長いです」
「古い記録だろ」
「今日測ったのより、長いんです」
指が、同じ行を、三度なぞった。
合っていた、と思う。それが、少し嫌だった。
やがて、リオネルが言った。
「偶然ではありません。同じ熱です。そして、誰かがこれを消そうとしている」




