第65話
第65話 記録の接続と父の道
リオネルのペン先が、止まった。
舌打ちでも、ため息でもない。ただ、紙の上を滑っていたペン先が、動きを止めただけだった。俺は、隣の椅子に座ったまま、その手元を覗き込んだ。
村の集会場を借りた一角に、紙の束が積み上がっていた。灰雨鉱窟で回収した記録の写し、村の被害報告、そして母さんが古い納戸の奥から引っ張り出してきて貸してくれた帳面。表紙の端がめくれて丸まった、いつのものかも分からないくらい古い一冊だった。インクの匂いが、紙の隙間から、うっすら漂っていた。
「母さん、これ、いつのですか」
「研究院を辞める、少し前のだよ」
母さんが、薬草を束ねる手を止めずに答えた。手元だけを見ている横顔から、それ以上のことは読み取れない。何年前かは、結局言わなかった。窓の外で、鶏が一声鳴いて、また静かになる。
リオネルは、帳面と鉱窟の記録を、交互に見比べていた。指の動きが、ページの隅で止まる。見比べる動きを、三度繰り返した。四度目で、ようやく口を開く。
「灰雨鉱窟の魔核記録と……この村の、甲殻の記録。反応の落ち方が、同じです」
「同じ、って」
「熱の引き方に、癖があるんです。外から冷めるんじゃなくて、内側から先に、冷めていく。ここの帳面にも、同じ癖を持った素材の記録が、二件」
「季節の変わり目とか、そういうのじゃないのか」
俺が言うと、リオネルは、ページから顔を上げないまま、首を横に振った。
「季節でしたら、村の他の素材にも、もっと広く出ているはずです。でも、こんなに限られた記録にしか出てこない。……珍しいから、書き残されているんだと思います」
言われてみれば、当たり前のことだった。俺は、それ以上、口を挟まなかった。
壁際のランプの芯が、そろそろ切れかけていた。時々、光が瞬く。俺は、立って芯をつまもうとしたが、思ったより熱くて、指先を弾かれるように離した。芯は、余計に短くなっただけだった。母さんが、横目でそれを見て、何も言わずに、また薬草へ視線を戻した。
「あの時の、黒熱魔核片と、同じです」
リオネルの語尾が、いつもよりわずかに強くなった。俺の掌に、あの検体を触れた時の感触が、蘇る。冷めているはずなのに、絶えず内側から滲み出るような、しつこい熱だった。
「二件しか、ないんです」
リオネルが、帳面の余白を、指でなぞった。
「よくあることなら、もっと書き残されているはずです。書き残されていない、ということは……書いた人間が、二回しか、見なかったということです」
リオネルが、そこで言葉を切った。
「黒熱、です」
リオネルが、それだけ言って、帳面を閉じた。閉じた拍子に、挟んであった古い葉のしおりが、床に落ちる。
母さんは、手元の薬草から顔を上げなかった。指先が、一瞬だけ止まったのを、俺は見た。何か言いかけて、やめたようにも見えた。
「母さんは、この帳面のこと、覚えてるんですか」
「古い話だよ」
「……ロイの、あの年の話ですか」
束ねる手が、一瞬だけ強く、薬草を握った。指の間で、茎が一本、折れる小さな音がした。すぐに、また元の力に戻る。
「さあ。どうだったかね」
はぐらかす言い方だった。それだけで、もう十分だ。
卓の脚が一本、長さが合っていないらしい。リオネルが身を乗り出すたび、かたりと小さく鳴った。母さんは、束ねた薬草を、天井の梁に一つずつ吊るしていく。作業の手は、最後まで止まらなかった。
「行くぞ」
声がして、振り向くと、戸口に親父が立っていた。杖を握る手に、もう慣れた様子がある。荷物は、水袋一つだけだった。
「他のみんなは」
「サラとメイは、外周の見回りだ」
残りは村に残る、とだけ付け足した。理由は、聞いていない。俺も、それ以上は訊かなかった。
外に出ると、リシアが柵の前で待っていた。何をするでもなく、ただ空を見上げている。声をかけると、小さく頷いて、後をついてくる。それだけだった。
村を出て、獣道を登る。木々の間隔が、次第に狭くなっていく。頭上を覆う葉が厚くなり、光が、地面にまだら模様を落としていた。親父の足取りは、最初、いつもと変わらなかった。子供の頃、まだ杖を必要としなかった親父の背中を追いかけるようにして、この道を何度も連れられて歩いた覚えがある。当時はただ長く感じただけの道が、今は妙に短く見えた。
途中、倒木が道を塞いでいる場所があった。太い幹に、苔がびっしりと張っている。日の当たらない側だけ、黒に近い緑になっていた。親父は、迷わず脇へ回り込んだ。俺たちも後に続く。リシアだけが、一瞬、足を止めた。
「……この苔、片側だけ、擦れています」
誰も、それに答えなかった。リシアは、気にする風もなく、また歩き出した。
鳥が、さっきから鳴きやまない。姿は、見えなかった。リオネルが、歩きながらも、手帳に何か書きつけている。歩調は崩れない。俺たちの誰よりも、足の運び方が慣れているように見えた。
途中、虫の声が、一瞬だけ止んだ。数歩のうちに、また戻る。
分かれ道に差しかかったところで、親父が立ち止まった。杖の先を、土に浅く突き立てて、また抜く。先端についた土の色を、少しの間だけ見ていた。
「こっちだ」
迷いのない足取りで、右の道へ入っていく。地図にも、獣道の跡にも見えなかった方角だった。俺には、ただの藪にしか見えない。
「どうして、分かるんですか」
リオネルが訊いた。親父は、振り返らずに答えた。
「見えるんじゃない。……嫌な感じがする方を、避けてるだけだ」
答えになっていない気がしたが、リオネルはそれ以上訊かなかった。手帳に、何かを一行だけ書きつけて、また閉じる。俺も、黙って後をついていった。
半刻ほど歩いたところで、親父の足が、目に見えて遅くなった。さっきまでの、迷いのない足取りが、まるで嘘みたいだ。杖にかける体重が増えている。息の間隔も、短くなっていた。額に、汗の粒が浮いている。
「親父」
「まだ、歩ける」
即答だった。声に、張りがない。
嘘だ、と思った。だが、それは口にしない。無理に止めても、聞かない人だと知っている。
リシアの目が、親父の肩の上下を、一瞬だけ追った。何も言わず、水袋を差し出す。親父は、それを受け取って、一口だけ含む。礼も言わずに、また前を向いた。リシアも、何も言わなかった。
木立が開けた場所で、親父が足を止めた。杖に体を預けたまま、しばらく動かない。
その先に、灰色の岩肌が広がっていた。土の匂いが、途中から変わっている。湿った鉄と、毛の焦げるような臭いが混じっていた。虫の声が、いつの間にか消えている。あれほど鳴きやまなかった鳥の声も、もう届かない。
「ここまでだ」
親父が、額の汗を、袖でぬぐった。杖を持つ手が、わずかに震えている。
「この先は」
リオネルが訊きかけて、口をつぐんだ。答えを、急かすつもりはないようだった。
俺は、目の前の岩肌に、そっと熱を流してみた。表面は、ただの岩だった。だが、奥のほうへ流した分だけ、返ってくる速さが、わずかに遅い。半歩ぶん深く流すと、返りは、さらに遅れた。
「――向こうに、空洞があるかもしれません」
親父が、初めてこちらを見た。
「……遅れる、か」
それだけ呟いて、また岩肌へ目を戻す。何かに思い当たったような、そうでもないような、読めない横顔だった。
「詰まってるだけにしては、遅すぎる気がします」
親父は、答えなかった。
しばらく黙って、岩肌の向こうを見つめていた。杖の先が、乾いた土の上で、小さく音を立てる。それから、静かに言った。
「この先は、昔一度だけ道が消えた場所だ」




