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第64話

第64話 外周の交戦


 獣の低い唸り声が、林の奥から近づいてきた。数は、一つじゃない。


 外周の見回りに出て、まだ十分と経っていなかった。柵の外、修理の手が回っていない区画のさらに先。土がぬかるみ、腐った葉の臭いがする窪地だった。空はまだ明るいが、林の中は、もう夕方の色をしている。


 サラ、メイ、ボルクの三人が村に着いたのは、つい昼過ぎのことだ。荷馬車が門をくぐるなり、母さんが飛び出していって、また一人ずつ頭を下げていた。荷物を解く間もなく、そのまま外周の見回りに合流することになった。挨拶らしい挨拶をする暇もなかった。


「荷物、このへんに置いといていいのか」


 ボルクが、担いだ荷袋を肩から下ろしながら訊いた。


「後にしましょう」


 リオネルが、帳面を片手に、荷物には目もくれず、先に歩き出す。ボルクは、荷袋を下ろしかけた姿勢のまま、結局また担ぎ直した。


「久しぶりです、なんて言ってる場合じゃなさそうですね」


 サラが、笑いながらそう言った直後、その笑みが固まった。風向きが変わって、獣の臭いが急に濃くなったのが、俺にも分かった。


「サラ、こっちです」


 声をかけたのは、ニアではなくメイだった。誰よりも先に、地面の異変に気づいていたらしい。着いたばかりで、村の地理も知らないはずなのに、迷いのない足取りだった。


「はいっ」


 サラが、水筒代わりの革袋をその場に放り出して駆けてくる。革袋は、木の根元に転がったまま、しばらく誰にも拾われなかった。中身の水が、少しずつ地面へ染み出していく。


 窪地に溜まった泥は、ただの泥じゃない。獣の血と、腐りかけた何かが混じって、足を取られる粘り方をしていた。表面は黒く光っているが、少し先は灰色に濁っている。踏み込めば、確実に沈む深さだった。


「深いところだと、膝上まで来ます。回り道は……この地形だと、少し無理そうですね」


 リオネルが、帳面から顔を上げずに言った。


 サラの手が、地面に触れる。


「――ほんの少しの間だけ、我慢してください」


 泥の表面がひび割れていく。水気が抜けていくのが、熱を見る目にもはっきり分かった。表面から、深さ半歩分。乾いた土の色に変わっていく。以前は指を広げて押しつけていた手が、今は掌をつけただけで、もう離れていた。


「四」


 数を数える声が、後ろで聞こえた。木立の間から、牙を剥いた影が滲み出てくる。


「……いや、五」


 俺の見立てより、一頭多かった。数えるだけで精一杯で、動きまでは追い切れない。一頭だけ、毛並みの色が他より薄く、湿って束になっていた。


「リシア、左を塞げるか」


「――少しだけなら」


 答えるより早く、リシアの薄膜が、左手の茂みの間に張られていた。壁ではない。逃げ道を一つ潰しただけの、細い膜だ。獣の一頭が、それに阻まれて進路を変える。狙い通りではあったが、リシア自身、ほっとした様子はなかった。額に、汗が一筋、伝っていた。


「メイ、右」


 カイルが、それだけ短く言った。返事はなかった。右手の茂みが、一瞬だけ揺れて、静かになる。悲鳴も、争う音もない。木の葉が数枚、遅れて落ちてきただけだった。気づいた時には、もう終わっていた。


 残った獣の一頭が、真正面から一気に突っ込んできた。避ける間合いはない。


 ボルクが、前に出る。


 拳を構える動きに、迷いがなかった。硬直の熱が、腕の表面で一気に固まるのを、俺は見た。牙が、その表面を滑る。噛みついた形のまま、獣の顎が、行き場をなくして止まった。薄い鉄鍋を蹴飛ばしたような、鈍く硬い音が響いた。


 拳を突き出す。獣の顎が、外れる。悲鳴を上げて、林の奥へ逃げていった。


 息が、まだ整っていなかった。片がついたのは、二頭。数は、まだ足りない。あと三頭。


 薄膜に阻まれた獣が、方向を変えて泥の外周をうろついていた。その隙に、木立の影が、ニアの背後へ回り込んでいる。毛の薄い、あの一頭だった。


「ニア、後ろ――」


 叫んだ時には、もう遅かった。牙が届く寸前、サラの手が、乾いた地面に叩きつけられた。半歩分の土が、一息で泥に戻る。ニアの足が沈み、体が横へ、大きく持っていかれる。牙は、空を噛んだ。


「――っ、すみません!」


 サラが、荒く息をつきながら叫んだ。詫びる声だったが、迷いはなかった。ニアは、尻もちをついたまま、しばらく動けずにいた。


 毛の薄い獣は、それ以上は襲ってこなかった。低く唸ったまま後ずさる。後ずさる足の幅が、他の個体と揃わない。半歩、また半歩。唸り声だけが、下がる速さに追いつかないまま、木立の奥へ消えていく。


 薄膜に阻まれていた獣は、その場から動かず、じっとこちらを窺っている。ボルクが向き直った。


「そっちは任せろ」


 硬直を使わなかった。使えなかった、と言うほうが近い。一頭目の硬直は、腕の強張りが、まだ抜けきっていない。素の拳を軽く握って、間合いを詰める。獣が飛びかかるより先に、腰の入った一発が、横合いから叩き込まれた。獣は、鈍い声を上げて、乾いた土の上に、一度だけ跳ねて止まった。


「二発目まで、硬くする必要はねえよ」


「じゃあ、一発目は、何だったんですか」


 ニアが、尻もちをついたまま、茶々を入れる。ボルクは答えず、拳を握り直しただけだった。


 残るもう一頭は、最後まで藪から出てこない。仲間が次々と倒れる音だけを聞いて、そのまま気配を消していく。


「もう、これで終わり、ですか」


 サラが、乾いた地面の上で膝をついたまま、こちらを見上げた。額に泥が跳ねている。手の甲でそれを拭うと、妙な位置に泥が広がっただけだった。


「……たぶんな」


 答えながら、俺は林の奥を透かし見た。毛の薄かったあの一頭だけ、熱の落ち方が違う。鼻先から順に、熱が引いていた。生きている獣の冷め方じゃない。何が起きているのかは、まだ分からない。


「水を張ったままの桶みたいな臭いがしますね」


 ニアが、鼻をつまみながらつぶやいた。


「昼、何を食った」


「そういう話じゃないです」


 ニアが、呆れた声を返す。誰かが小さく笑った。笑ったのが誰だったのか、俺には分からなかった。


「道中も、似たような臭いを二度」


 リオネルが、帳面に何か書きつけながら付け足す。書きつけた文字は、覗き込む間もなく、すぐに閉じられた。


 乾いた地面の上を、荷物を担ぎ直したメイが、音もなく歩いてくる。頬に、小さな傷が一本増えていた。誰も気づいていない様子で、メイ自身も、それに触れようとしなかった。着いたその日に一頭仕留めたことを、誰かに誇るつもりはないらしい。


 リシアが、薄膜を解いて、少し離れた場所から、その一部始終を見ていた。息が、少しだけ上がっている。近づいてはこない。それだけで、十分だった。


「おい、革袋」


 カイルが、木の根元に転がったままの革袋を拾って、サラに放った。サラは受け止め損ね、二度弾ませてから、ようやく抱え込んだ。中身が、少しだけ漏れていた。


「サラさん、大丈夫でしたか」


 カイルが、珍しく声をかけた。監視付きの立場で、誰かに話しかけること自体が少ない。サラは、少し驚いた顔をしてから、笑う。


「わたし、直接は何もしてませんから」


 泥だらけの両手を、パンパンと払う。乾いた土の粉が、風に散った。指の間には、まだ泥が残っていた。


「助かった」


 ニアが、尻についた泥を払いながら、それだけ言う。礼というには短すぎる一言だったが、サラは満足そうな顔をした。ボルクは、拳を軽く握り直しながら、その様子を黙って見ていた。関節の隙間に、まだ泥がこびりついている。落とす様子はなかった。


 村のほうから、鐘の音が一つ、遠く聞こえた。集合の合図だ。荷物を拾い直しながら、俺たちは、来た道を戻り始めた。泥の窪地は、乾いたまま、その場に残されていく。放り出された革袋が転がっていた木の根元にも、もう誰もいない。


 隣を歩きながら、サラが、独り言のように、小さく呟いた。


「戦えなくても、戦える状態は作れます」

サラ・メイ・ボルクの合流回でした。三人まとめて実戦に出すのは正直かなり悩みましたが、それぞれ別のやり方で「戦う」を成立させられたかなと思います。

サラの泥を戻す使い方、書いていて一番楽しかったです。作れるものは、壊せるものでもある。

読んでくださってありがとうございます。ブックマークしていただけると励みになります。

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