第63話
第63話 ロイ
乾いた音が、風に乗って聞こえた。木剣がぶつかる音にしては、拍子がおかしい。片方だけ、いつも一拍遅れて鳴る。
母さんに聞いた道を、記憶をたどりながら歩いた。柵の修理が終わった区画と、まだ手のついていない区画が、境目もなく入り混じっている。その一角を抜けると、先に、空き地が開けていた。
空き地の隅で、二人が向かい合っていた。片方は、左手だけで剣を構えている。もう一方は、痩せた体つきの少年だった。声変わりもまだのようで、構えるたびに、肩が跳ねる。
空き地の隅には、古い鐘が一つ吊るしてあった。時刻を知らせるためのものらしいが、縁の一部が欠けている。誰かが叩くたび、音の後半だけ、少しひび割れて聞こえた。直す気配はない。
左手の男が、木剣を軽く振った。少年の構えが崩れ、尻もちをつく。
「型より先に、腰を作れ。何度言ったら覚える」
その声で、分かった。
声をかけようとして、やめた。少年が先に、こちらへ気づいたからだ。少年は、木剣を構えたまま、値踏みするような目でこちらを見た。
「……誰だよ」
少年が、小さく呟いた。ロイには聞こえなかったらしい。俺には、はっきり聞こえた。素材屋の倅、という顔だった。前は、村の誰もがそういう目をした。今も、その目はほとんど変わっていない。
男が振り返った。木剣を提げた左手が、だらりと下がる。日焼けした首筋に、古い傷跡が一本、白く走っていた。前は、なかったものだ。
「……帰ってたのか」
「ああ」
それだけだった。駆け寄りもしなければ、肩を叩くこともない。ロイは少年に短く「休め」とだけ言うと、木剣を杭に立てかけた。少年は素直に離れ、水桶のほうへ歩いていく。名乗ることも、名乗らせることもなかった。
近くで見ると、頬のあたりに、以前はなかった皺が一本増えている。日に焼けた肌の色も、記憶より濃い。右手の袖は、少しだけ余っていた。中の腕は、もう、あの日から動かないままだ。
「その剣、変わったな」
「持ちやすいのに替えた。左でも、振り回せる分だけ短い」
ロイは、腰の剣を軽く叩いた。片手で扱うために、刃渡りを大きく削ったのだと、見ればすぐに分かる。柄の握りだけ、革が巻き直されていた。すでに手に馴染んで、色が変わりかけている。
「学院じゃ、大したもんになってるらしいな」
「誰から聞いた」
「商人だよ。噂は、ここにも届く。……お前がどこぞの上位生を負かしたとか、話半分に聞いといたが」
誰から誰へ渡って、そこまで話が膨らんだのか、見当もつかなかった。ロイは、それだけ言うと、口の端をわずかに動かす。笑ったのかどうかは、はっきりしない。褒める言葉は、それきり続かなかった。代わりに、視線が少しだけ、俺の後ろへ動く。
柵の向こうに、リシアが立っていた。近づいてはこない。ただ、少し離れた場所で、こちらを見ているだけだ。
目が合うと、リシアはわずかに頷いて、視線を柵の修理のほうへ逸らした。その頷きが、俺にではなく、俺の後ろのロイに向いていた気もした。確かめようがなかった。
「連れか」
「ああ」
「そうか」
ロイは、もう興味を失ったように、視線を戻した。誰なのか、どういう関係なのか、訊いてはこない。
少年が、水桶の縁に腰かけて、木剣の柄を握り直している。五度、握っては開いた。四度目までは、指の全部が同じ強さで巻きつく。五度目だけ、小指と薬指が、他より遅れて閉じた。
その遅れた分だけ、熱が、手のひらの中心から内側へ引かれていく。同じ場所へ、同じだけ。六度目も、七度目も、同じことが起きた。癖ではない。もう、そこだけ力が通らなくなっている。
「あの子の、右手首。さっきから、力を入れ直すたび、内側に熱が溜まってる」
「……何だと」
「使いすぎてる。今日、もう振らせないほうがいい」
根拠を、細かくは説明しなかった。長く話すことでもない。ロイも、訊き返さない。少しの間、黙って少年のほうを見ていた。それから、確かめもせず、腰を上げる。
「おい」
ロイが呼ぶと、少年は木剣を置いて、こちらを見た。
「今日はもう終わりだ。手首、冷やしとけ」
「まだ、やれます」
「終わりだ」
少年は、不満そうな顔のまま、水桶のほうへ歩きかけた。数歩で、足が止まる。ロイが背を向けた隙に、木剣を拾い上げ、もう一度だけ振った。
手首から、鈍い音がした。木剣が、地面に落ちる。少年は、それを慌てて拾い直し、何ごともなかったような顔で、水桶に手首を浸けた。
ロイは、振り向かなかった。ただ、片方の肩だけが、わずかに強張っている。見えていたのか、聞こえただけなのか、それは分からない。
俺は、何も言わなかった。ただ、少年の手首を見ていた。今の一振りの分だけ、また熱が乱れている。
「相変わらず、変な目をしてやがる」
ロイが、そう言って、水桶の縁に腰を下ろす。俺も、少し離れて座った。
「学院は、どうだ」
「悪くない。……いや、色々ある」
「色々、ね」
それ以上、深くは訊いてこなかった。星位がどうとか、外棟がどうとか、説明しても、たぶん半分も伝わらない。伝える気にもならなかった。
少年が、水桶から手首を上げて、包帯を巻き直し始めた。不器用な手つきだ。ロイは、それを黙って見ている。名を、最後まで口にしなかった。
「あいつ、名前は」
「まだ、名乗るほどのもんじゃない」
少年の名前について、こちらも、それ以上は訊かなかった。
風が、修理途中の柵の隙間を抜けていく。焦げた跡の残る壁の向こうで、誰かが炭の湿り気について、独り言のようにぼやいている声が聞こえた。誰に向けたものでもない愚痴だった。
「その足で、ここまで来られるようになったのか」
「まあな。走れはしない」
そういえば、少年を止めに行く時も、片足を、わずかに庇っていた。歩幅も、健常なほうより心もち短い。
「……まだ、痛むんじゃないのか」
「もう痛くねえよ」
即答だった。早すぎる返事だ、と思ったが、それ以上は突けなかった。本当かどうか、確かめる術は、俺にはない。ロイの顔から、答えを読み取ろうとしても、無駄だった。昔から、こういう時の顔だけは、何も見せない男だった。
しばらく、二人とも黙っていた。少年が包帯を巻き終え、離れた場所で、また素振りを始める。今度は、左手だけで振っていた。危なっかしい動きだったが、ロイは、それを止めない。
「お前の言葉、村の連中も、少しは聞くようになったか」
「まだだ。……でも、あんたの言葉なら、聞く。今日、そうだったろ」
「あれは、お前が正しかったからだ。俺の言葉じゃない」
そう返されて、続く言葉が出なかった。何と言えばいいのか、うまく形にならない。
鐘が、また誰かに叩かれて、ひび割れた音を立てた。ロイは、その音のほうを一瞬見て、また視線を戻す。
「お前、まだその目、続けてるんだな」
「続けてる、というか。……やめ方が分からない」
「そうか」
それだけだった。理由も、続きも、なかった。
少年の素振りの音が、遠くで続いている。左手のぶん、拍子はまだ崩れたままだった。誰も、それを直しに行く様子はない。
日が、少しずつ傾き始めている。柵の影が、地面の上を長く伸びていった。焦げた木の影だけ、心なしか、色が濃く見えた。
ロイは、少しだけ黙る。それから、水桶の水面を見つめたまま、口を開いた。
「お前は、見えてた。それだけは本当だ。……今度は、聞いてもらえるといいな」
今回は幼なじみのロイとの再会回でした。この人には、なるべく多くを語らせないようにしています。何かを言いすぎると、この人の良さが消える気がして。
新しく出てきた名前のない少年も、この先しばらく気にかけてやってください。
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