第62話
第62話 帰郷
荷馬車の揺れが、いつもより大きくなった。舗装が終わり、土の道に変わったらしい。
懐の封筒を、そっと取り出した。角が、少し丸くなっている。糸は、もう緩んでいる。今度こそ、指が止まらなかった。
中身は、思ったより短かった。二枚の紙に、母さんの字が、いつもよりゆっくりと並んでいる。近頃、村の周りで魔物が増えていること。井戸の水が、少し前から濁りやすいこと。隣家のおばさんが、今年はもう市場へ出す元気がないと言っていたらしい。親父の足の具合も、季節の変わり目でまた少し悪い。心配はいらない、という一文が、何度も形を変えて出てくる。読むほどに、その「心配はいらない」の数が、かえって気になった。
不安にさせまいとする書き方だ、とすぐに分かった。分かったところで、今の位置からは、何もできない。手紙の最後に、いつもの結びの言葉があった。元気で、と。それだけだった。何かを付け足そうとして、やめたような余白が、文末に少しだけ残っていた。
馬車の窓の外を、見慣れた木立が流れていく。子供の頃、あの木の下で、ロイに素振りを真似て見せてもらった覚えがある。もう、はっきりとは思い出せない。
村が見えてきたのは、日が大きく傾いた頃だった。街道の脇に、見覚えのある大岩がある。子供の頃、その陰でよく雨宿りをした。近づくにつれ、記憶にある村の輪郭と、今見えている輪郭が、少しずつずれていくのが分かった。
外周の柵は、半分だけ新しい木に替わっている。継ぎ目が、まだ白い。木の香りが、少しだけ漂っていた。井戸の近くの壁には、黒く焦げた跡が、拭いきれずに残っていた。人の背丈より高い場所まで、煤が這っている。倉庫の屋根は、片側だけ、応急の板でふさがれていた。積み上げられた土嚢が、まだそのまま残っている。
誰も、それについて、あえて何も言わなかった。村の広場では、子供が数人、普段と変わらない様子で駆け回っている。その傍らで、大人たちの動きだけが、いつもより硬い。
手紙の「心配はいらない」が、頭の中で、もう一度鳴った。
「よう、おかえり」
声をかけてきたのは、顔なじみの鍛冶屋の主人だった。柵の修理を手伝っていたらしく、手に木槌を持ったままだ。俺の後ろに並ぶ一団を見て、少しだけ目を見張ったが、それ以上は訊かなかった。
少し離れた場所で、片腕に包帯を巻いた男が、荷車の縄を結び直していた。荷台には、収穫らしい麻袋がいくつか積まれている。見覚えのある顔だった。以前、遠征帰りにこの村で羽を休めていた冒険者の一人だ。目が合うと、軽く顎を引いて寄越しただけで、また作業に戻っていく。井戸端では、女たちが、桶を並べて水を確かめている。濁っていないかを、一杯ずつ、順番に見ているらしかった。
家の前に、母さんが立っていた。エプロンの端で、手を拭きながら。
「……ずいぶん、大きくなった」
母さんは、俺の顔を、上から下まで見た。値踏みするような目ではない。ただ、確かめるような目だった。手についた小麦粉を、エプロンでもう一度拭ってから、こちらへ近づいてくる。近くで見ると、目元に皺が一本、前より深く刻まれていた。
「オルド、ほら、レンが帰ってきたよ」
母さんが、家の奥に声をかける。出てきた親父は、片足を引きずりながら、ゆっくり近づいてきた。杖を突くたび、次の一歩までの間が、前より長い。
「……無事か」
「ああ」
短いやり取りだった。それ以上、続く言葉はない。親父は、俺の後ろのリシアたちに目をやり、それだけで何かを察したような顔をした。何を察したのかは、訊かなかった。
荷馬車から降りたリシアたちに、母さんが一人ずつ、丁寧に頭を下げた。急な人数に、家の中の支度が間に合っていないことを、何度も詫びる。リオネルが、慌てて「お構いなく」と返したが、母さんは聞いていないようだった。こういうところは、昔から変わらない。
リシアは、家の柱の傷や、繕われた屋根の様子を、じっと見ていた。王都の暮らししか知らないはずのその目に、何が映っているのかは分からない。ただ、いつもまっすぐな背筋が、心もち前に傾いていた。
「狭くて、悪いな」
気づけば、そう口にしていた。リシアは、小さく首を横に振った。
「いえ。……ここで、レンさんは育ったんですね」
視線が、また家の中を巡る。土間の隅に積まれた薪、壁に吊るされた乾燥中の薬草、修理の跡が幾重にも重なった卓、天秤と木箱が並ぶ棚。飾り気のない、そのひとつひとつを、リシアの指先が、卓の縁をなぞるように追っていた。王都の屋敷とは、何もかもが違うはずだ。それでも、顔をしかめる素振りは、最後まで見せなかった。
夜、狭い食卓に、みなで肩を寄せ合って座った。椅子が足りず、木箱を逆さにして腰かけている者もいる。ニアとリオネル、カイルは、村の集会場に案内されている。鍋の中身は、干し肉と根菜を煮込んだだけの簡素なものだったが、湯気の量だけは、学院の食堂よりずっと多い気がした。
「学院での暮らしは、どうだ」
親父が、椀を置いてから、そう訊いた。急かす響きはない。事実だけを、確かめたいだけの声だった。窓の外で、名も知らない虫の鳴く声が、途切れずに続いている。人の声も、鐘の音もしない。学院の寮とは、違う種類の夜だった。
「悪くない。厳しいことも、多いけど」
「厳しいのは、いいことだ」
親父は、また椀を手に取る。褒めるでも、案じるでもない返し方が、いかにもこの人らしかった。それ以上、学院での細かい話を訊いてくることはなかった。
母さんが、鍋から湯気の立つ皿を、また一つ配りながら、リシアに何気なく訊いた。
「あなたの家の方は、心配してないの」
「……いえ、大丈夫です」
リシアの返事は、いつもより一拍遅れた。母さんは、それ以上、深く訊かない。代わりに、俺の皿に、もう一杯おかわりをよそった。焦がさないように、といういつもの口癖を、今日も一度だけ言った。
卓の隅で、リシアが、椀の中を見つめたまま、動きを止めていた。何か言いたそうな顔をしていたが、結局、何も言わなかった。族譜だとか、継承の座だとか、この家の空気の中では、ひどく遠い言葉に思えているのかもしれない。訊けば、少しは分かるのだろうか。訊く勇気は、今夜も出なかった。
食後、親父が、湿らせた布にくるんだ何かを、机の上に置いた。開くと、拳大の魔物の甲殻が現れた。厚みのある一枚板で、割れ口が鋭く尖っている。
「村のすぐ外れで、昨日拾った。近頃、こういうのが増えてる」
表面は、見慣れた魔物の甲殻と、それほど変わらない。ざらついた灰褐色で、ひびが一筋、走っている。だが、その割れ口の奥にだけ、わずかに違う色がにじんでいた。
「素材屋の目から見て、お前はこれをどう思う」
親父が、そう訊いてきた。答えを急ぐ様子もなく、椀を置いた時と同じ調子で、ただ待っている。ランプの灯りが、机の上で、小さく揺れている。
手を伸ばして、触れてみる。ひやりとした感触の奥に、微かな熱の揺らぎがあった。表面は冷たいのに、割れ口の奥だけ、いつまでも冷めきらない。指の腹で、そっとなぞってみる。熱の動き方に、癖があった。外から温めているのではない。内側から、絶えず、何かがにじみ出ている感触だった。
指を離しても、この感触には、確かに覚えがあった。
村近くの魔物素材が、黒熱魔核片と似た熱を持っている。
第62話、レンが久しぶりに実家に帰る話でした。
これまで「村」としか書いてこなかった場所に、初めて父と母の姿を出しました。父の名前も今回が初出です(母は今後も「母さん」呼びのままでいく予定です)。
家族との再会って、感動的に盛り上げようと思えばいくらでも盛れる場面だと思うんですが、今回はあえて抑えました。派手な抱擁とか、涙とか、そういうのは一切なし。杖をつく音が前より長くなっている、目元の皺が一本増えている——そのくらいの変化で、離れていた時間を感じてもらえたら十分かなと。
あと、ラストの一文。伏線を拾ってくれている方は「あ」となったかもしれません。拾えてなくても大丈夫です、ちゃんと今後効いてきます。
次回、村の外れの話にもう少し踏み込みます。




