第61話
第61話 東方からの報告
「ハルヴェル」
名前を呼ばれて、書きかけの課題から、顔を上げた。空いている教室に、外棟の何人かが、ぽつぽつと椅子に座っている。呼び出されたのは、自分だけではなかったらしい。
マルクの声は、いつも低くて、抑揚がない。用件を言う前に間を置く男だ。今回は、その間が、いつもより長かった。机の上には、他の生徒の書類も、いつもより多く積まれている。今日は忙しい日らしい。
「東方の報告が、また、悪くなっているらしい。お前の村の方角だ」
手にした紙を、机に置く。裏返しのままだった。すぐには見せない。この人らしいやり方だと、外棟に来て一年で分かるようになった。
「学院が、実習名目で調査班を出す。行き先は、お前の生まれ育った辺りの前線だ」
息が、一瞬、詰まった。村、という言葉だけが、耳の奥に居座った。ここしばらく、手紙のやり取りが、以前より短くなっていたことを思い出す。机の上に置いたままの、まだ開けていない封筒のことも。マルクは、それに気づいた様子もなく、次の言葉を続けた。
窓の外では、朝の実習が始まる鐘が鳴っていた。いつもと同じ音のはずなのに、今日はやけに間延びして聞こえた。村の名前を、頭の中で、もう一度だけ繰り返した。
「実習という名目だが、実質は調査だ。危険地帯には近づかせない、という体裁になっている」
マルクは、そこで一度、言葉を切った。体裁、という言い方に、含みがある。それ以上は、こちらから訊かなかった。
「調査の中身は」
「現地で聞け。俺が説明するより、正確だ」
それだけ言うと、机の上の紙に、指を置いたまま動かさなかった。話は終わりだ、という合図らしかった。突き放してはいない、と思う。書類仕事しかできないマルクより、現場の人間から聞いたほうが正確だ——そう言いたいのかもしれない。
「行くのは六人。お前とアルヴェイン、クレッタ、カルツ、フェルメ、それにブレイズ」
いつもの呼び方だった。マルクは、誰のことも家名でしか呼ばない。外棟に来たばかりの頃は、誰が呼ばれているのか分からず戸惑った。今はもう、聞き慣れている。
アルヴェイン、と呼ばれて、リシアが小さく顔を上げた。クレッタ、でユノのいつもの小さな声。カルツ、でリオネルが帳面から目を上げないまま、うなずいた。フェルメ、でニアが薬箱の紐を締め直しながら「はい」と、はっきり答える。ブレイズ——その名だけ、マルクの声の温度が、少し違った。カイルは、腕を組んだまま、何も言わなかった。
「監視付きだ。単独行動は、一切許可しない。分かってるな」
「……ああ、分かってる」
短い返事だった。誰も、それ以上は触れなかった。査問のあと、この扱いに慣れてしまったのかもしれない。慣れていいことなのかどうかは、まだ分からない。
「ミューレンとシャロットは、数日遅れて後続で入る」
サラとメイのことだと、それはすぐに分かった。他の呼び名より、まだ聞き慣れている。合わせて八人。外棟の中では、少ない数ではない。それでも、寮にはまだ何人も残る。全員が動くわけではない、ということだ。
「残りは、学院に残る」
誰が、とは言わなかった。
教室を出ると、廊下の向こうから、下級生たちの号令の声が、揃わないまま響いていた。足の運びだけが、いつもより速くなっている自分に気づいた。
準備には、二日をかけた。荷物は少なく、点検だけが多い。装備庫の前には、いつになく長い列ができていた。ニアの薬箱は、蓋の建て付けが最後まで悪いままだった。出発の朝になっても、直っていない。リオネルは、帳面を三冊も鞄に詰めて、四冊目を諦めた。カイルは、監督役の教官と一言も交わさないまま、荷物を自分で運び終えていた。
荷造りの最中、フィンの道具袋の留め具が、何度直しても、うまく閉まらなかった。残る側に回ったこととは、たぶん関係ない。ラグは、相変わらず訓練場の隅で素振りを続けていた。誰かがそれを気にする様子もなかった。
自分の部屋でも、荷造りをした。着替えと、水筒と、非常食。窓の外は、まだ夜だった。詰め終わってから、机の上の封筒に、また目が行った。持っていくべきか、置いていくべきか、しばらく迷う。一度だけ自分で緩めた糸の結び目は、あの晩から、もう元に戻っていない。結局、懐に入れた。開けないまま、村へ持ち帰ることになる。それでいい気がした。
出立の日、まだ薄暗いうちから、王都の門の前に、リシアが先に来ていた。旅装の上から、薄い外套を羽織っている。
「お前も、ずいぶん早いな」
「昨夜は、あまり眠れなかったので」
それだけ言って、目を伏せた。理由は、訊かなかった。書状のことだろうとは思ったが、訊いていいものかどうかが、いつまでも分からない。今日はまだ、その日じゃない気がした。リシアの鞄は、いつもより小さい。着替えと水筒だけにしては、底のあたりが妙に角ばっていた。
荷馬車に最後の積み荷を運んでいると、白い息を吐きながら、セイルが門のほうから歩いてきた。訓練用の外套ではない。移動用の、簡素な装いだった。
「見送りに、来ただけだ」
息が、まだ白い。朝の稽古を、いつもより早く切り上げてきたのかもしれない。汗の跡も、まだ乾ききっていなかった。
短い挨拶のあと、しばらく黙って、荷馬車の車輪を見ていた。何を言うつもりか、こちらには分からなかった。訓練場でしか会ったことのない相手が、こんな朝早くに、わざわざ王都の門まで足を運ぶ。それだけで、何か普通ではないことが起きているのだと察しがついた。荷を積む音だけが、しばらく間を埋めていた。
「北方でも、似たような報告が上がっている」
感情の乗らない声だった。事実だけを、そのまま置くような話し方だった。いつもの、稽古のときと同じ声色だ。
「氷原の防衛線に、人と予算がどれだけ回るかは、今年の実績次第だと聞いている。星位ランキング戦は、私個人の名誉の話じゃない」
その先を続ける気配は、なかった。氷原の話も、防衛線の話も、これまで一度も本人の口から聞いた覚えがない。意外だとは、思わなかった。ただ、重い、とは思った。
「北方も、東方も、同じ場所を見てるのかもしれない」
言ってから、ずいぶん踏み込んだ言い方をしたと気づいた。取り消すには、もう遅い。
セイルは、それには答えなかった。代わりに、荷馬車の荷を、一度だけ確かめるように見た。それだけだった。用は済んだというように、静かに背を向けて、門のほうへ戻っていく。振り返ることはなかった。
リシアが、その背中を見送りながら、小さく呟いた。
「珍しい人ですね、あの人も」
「……ああ」
互いに、それでよかった。御者が、荷の縄を締め直しながら、そろそろ出るぞ、と出立の合図を告げる。
馬車が、ゆっくりと動き出す。石畳を踏む音が、規則正しく響き始めた。空は、まだ薄い青のままだった。人通りのない大通りを、馬車だけが進んでいく。王都の屋根が、少しずつ遠くなっていく。
荷馬車の中は、狭かった。荷台が揺れるたびに、荷物が小さく跳ねる。ニアの寝息と、リオネルのペンが紙をこする音だけが、車内に規則正しく続いていた。リシアは、窓際に座って、流れる景色を眺めている。何を考えているのかは、横顔からは読めなかった。
懐に入れたままの封筒が、揺れるたびに、胸のあたりで、かすかに硬い感触を伝えてきた。中身は、まだ知らない。
これは、俺の村の話だ。
61話、第4部の始まりです。
ここからしばらく、レンの故郷が舞台になります。前半で出てきたキャラの家名(本名)が今回一気に出てきて、自分で書いていて誰が誰だか一瞬迷いました。読者の方も同じ気持ちだったら申し訳ないです。
移動回なので大きい事件は起きていませんが、次から動きます。読んでくださってありがとうございます。




