第60話
第60話 開けない封
訓練場は、もう、すっかり人けがなくなっていた。
床に散った革の削れ屑と、誰かの飲み残しの水筒だけが残っている。誰のものかは、分からない。片付けを頼まれたわけでもないのに、水筒だけ拾って、壁際に寄せておいた。夕方の光が、埃の中を斜めに差し込んでいる。空気は、もう冷え始めていた。季節が、少しずつ動いているらしい。
今日もまた、届かなかった。
セイルの動きを、何度も思い出す。速さでも、力でもない。あの人が止めた瞬間、周りの時間まで一緒に止まったように見えた。何度読み直しても、同じところで、俺の熱は止まる。指先の熱そのものは、いつもどおりの速さで馴染んでいくのに、あの間合いの半歩分だけは、いつまで経っても、体に馴染まない。
もう誰もいない的に向かって、もう一度、手をかざしてみる。掌に、いつもの熱が集まってくる。何を足せば、あの半歩が縮むのか、まだ分からない。訓練場の隅では、まだ、外棟のラグが、一人で素振りを続けていた。名前だけは、何度か聞いている。話したことは、ほとんどない男だ。音は、途切れずに続いていた。熱だけを、静かに散らした。
外棟の連携も、まだ粗い。今日もユノの警告とボルクの位置取りが、一拍ずれた。誰かが焦っていたわけではない。ただ、詰めきれていないだけだった。査問の疑いも、区域の割り当ての不審も、答えの出ないまま止まっている。壁に貼られた掲示のうち、一枚だけ、まだ古い日付のままだった。誰のせいでもない。誰のせいでもないことが、いちばん厄介だった。
寮に戻ると、扉の前に、ベルナが立っていた。洗い立てのシーツを、まとめて抱えている。
「レン、あんた宛に、届いてるよ」
差し出されたのは、一通の封書だった。裏に、見覚えのある癖字が並んでいる。母の字だ。
「珍しいな。うちから、手紙なんかが来るなんて」
「たまにはね。シーツと一緒だよ。溜めると、ろくなことにならないよ」
ベルナは、俺の顔を、少しだけ見た。何か言いたそうな目だったが、結局、何も言わずに、廊下の奥へ歩いていった。誰かの部屋の前で、また立ち止まる。抱えたシーツの中から、一枚だけ取り出して、確かめるように広げていた。指先で、縫い目のあたりを、軽くなぞっている。この人は、いつもそうだ。誰が何を落としたか、誰の様子がおかしいか、いちばん先に気づく。それでいて、余計なことは、あまり言わない。
自分の部屋に戻って、封を、机に置いた。厚みは、そんなにない。表には、宛名と、村の名前だけが、他に何も飾らずに並んでいる。字は、いつもより大きい。筆の圧が、紙の裏まで通っていた。急いで書いたのか、それとも、力を込めて書いたのか。宛名の最後の一画だけ、他よりわずかに震えている。その一画で、一度、手が止まったのかもしれない。紙の端に、指で押さえたらしい薄い皺も、一つだけ残っていた。裏には、封蝋の代わりに、糸で結び目が作ってある。母らしい結び方だった。
結び目のきつさだけは、いつもと変わらない。几帳面さだけは、揺らいでいなかった。
変わっていない。
開けようとして、その指先が、宙で、ふと、止まった。
中に何が書いてあるのか、想像がつかない。灰雨鉱窟の件からこっち、家との間には、何か一枚、隔たりのようなものがある気がしていた。手紙のやり取りも、以前より、ずっと短くなっていた。何を訊いても、どこかで言葉を選ばれている感触が残る。父も、母も、それを隠しているつもりはないのだろう。だからこそ、余計に落ち着かない。
母から手紙が来ることは、これまで、ほとんどなかった。用があれば、村の誰かに言付けるほうが早い。わざわざ紙にして、糸で結んで、東方から届けさせる。それだけの理由が、この一通には、あるということだ。届くまでに、何日かかったのかも、俺には見当がつかない。荷馬車の揺れで、宛名の墨が、端のほうで少し滲んでいた。良い知らせなら、もっと早く、もっと軽い言葉で届くはずだった。
開ければ、それが分かる。分かったところで、今の俺に、できることがあるとは思えなかった。それでも、開かない限り、何も始まらないことも、分かっていた。
最後に故郷を出たときのことを、思い出そうとした。うまく思い出せない。荷物をまとめる母の手つきくらいしか、はっきりしたものは残っていない。指先に何度も唾をつけて、布の結び目を締め直していた。あの手つきだけは、今も、はっきり思い出せる。見送りの言葉は、大したものではなかった。ロイの言葉のほうが、よほど鮮明に残っている。声というのは、姿より長く残るものらしい。
封を置いたまま、しばらく突っ立っていた。窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。下の階で、笑う声がした。何がおかしかったのかは、聞こえなかった。壁の向こうで、覚えたての歌らしいものを、誰かが繰り返し口ずさんでいた。同じところで、毎回、少しだけ音が外れる。
ノエルの声真似の練習かもしれない、と思ったが、確かめには行かなかった。確かめたところで、何がどうなるわけでもない。廊下の向こうを、急いだ足音が通り過ぎていく。誰かの部屋の扉が、遠くで、軽く叩かれる音もした。応える声は、聞こえなかった。しばらくして、扉が、諦めたように、そっと閉まる音がした。
廊下の灯りだけが、変わらず点いている。明日になれば、また、いつもどおりの朝が来る。
今日一日で片づくような話じゃない。それは分かっている。分かっているのに、机の上の封筒一つに、指が動かなくなる。
エリオが持ってきた書状のことを、リシアは、あれから、口にしていない。訊けば、答えてくれるのかもしれない。だが、訊いていいものかどうかが、いつまでも分からないままだった。族譜だとか、継承の座だとか、正直、俺には縁のない言葉だ。縁のない言葉のぶんだけ、踏み込む勇気も出てこない。
気づけば、机の前に、椅子を引いて座り込んでいた。
もう一度、封を、そっと手に取った。
机の隅には、まだ答えの出ない話が、いくつも積み上がっている。だが、今、目の前にあるのは、それとは違う重さの紙一枚だった。研究院の紙とも、監督官の記録とも違う。ただ、母の字が並んでいるだけの、薄い紙だ。それなのに、他のどれよりも、開くのに勇気がいる。ランプの芯が、小さく爆ぜる音がした。
糸を、少しだけ緩めてみる。それ以上は、指が動かなかった。緩めた結び目は、たぶん、元には戻せない。緩めた分だけ、かえって、封が重くなった気がした。
部屋の扉が、少し開いたままだった。閉め忘れていたらしい。廊下の冷えた空気が、細く流れ込んでくる。ランプの灯りが、わずかに揺れた。
立ち上がって、扉を閉めに行こうとした。その途中で、足が止まった。
隙間から、廊下の向こうが、少しだけ見えた。
リシアが、鞄を膝に乗せて、廊下の壁に背を預けている。両手で持っているのは、あの書状だろう。開くでも、しまうでもなく、ただ、じっと見下ろしていた。廊下の奥、遠いランプの明かりが、その膝のあたりまで、届いている。座り込んでから、もう長いのか、鞄の持ち手が、少し歪んでいた。
声をかける言葉は、見つからない。何と言えばいいのか、分からなかった。動かない指先と、俯いたままの首の角度が、そこにあった。廊下の空気も、動かない。
封を、見つめている。
開ける前に、廊下の向こうで、リシアも同じ顔をしているのが見えた。
60話、第3部の最後になります。
手紙を開けない話を一本まるごと書くのは、正直かなり悩みました。事件らしい事件が起きない回なので、間延びさせないようにするのに何度か書き直しています。
次から第4部に入ります。ここまで読んでくださってありがとうございます。よければブックマークしていただけると励みになります。




