第59話
第59話 研究院の視線
白い外套に、見覚えがあった。
訓練場の脇の廊下で、その人影は、壁に寄りかかるでもなく、まっすぐに立っていた。
ノア・エルヴァルト。
腰に、計器と、封のついた小箱をいくつか下げている。以前と、姿勢は変わっていない。火喰い蜥蜴の魔核を持っていった、あの研究官だ。あれから、随分と間が空いている。顔を合わせるのは、それきりだったはずだ。
外套の裾に、灰のような染みが、一つ付いていた。あのときには、なかったものだ。何を扱えばああなるのか、俺には分からない。訊いても、答えは返らないだろう。だから、訊かなかった。
「……お久しぶりです」
語尾が、下がりも上がりもしない声だった。あの日と、同じだ。俺は、頭を下げるだけにした。
静かだった。
何と言えばいいのか、すぐには浮かばなかった。声を聞いた瞬間、当時のことが、いくつか続けて浮かんでは消えた。
てっきり、崩落の件で、また何か回収しに来たのだと思った。読みは、すぐに外れた。
「少し、お時間を」
断る理由も、特になかった。人気の少ない廊下の隅へ、ノアが先に立って移動する。窓の外で、鐘が鳴った。午後の授業が、もうすぐ始まる時間だ。
無駄のない、それでいて急いでもいない足取りだった。廊下の突き当たりで、いったん立ち止まり、周りに人がいないことを、目だけで確かめてから、向き直る。
ノアは、抱えていた紙束を、軽く持ち直した。厚みのある束だった。
「研究院で、外棟の記録を、まとめて確認することになりました」
「まとめて、って、誰と」
「あなたと、リシアさん。ユノさん、ニアさん、ノエルさん」
名前が、次々と挙がった。顔は思い浮かんだが、ここには誰もいない。紙の上だけの話らしかった。それでも、名を呼ばれるたびに、胸のどこかが、少しずつ重くなっていく。
ノアは、束の中から一枚だけ、こちらへ傾けた。日付と、短い数行。細く、詰まった字が並んでいる。読めたのは、自分の名前と、崩落、という二文字だけだった。読み取り切る前に、紙は、束の中へ戻っていた。
「等級のわりに、鑑定盤の分類表に収まらない動きをしている方々です。崩落の際の記録、査問の記録、それぞれ照会させていただきました」
「収まらない、というのは」
「本来なら、鑑定式の等級では軽微と分類されるはずのものが、崩落や実戦の場面に限って、等級以上の判断を見せている。分類の物差しと、実際の働きが、噛み合っていない。そういう例が、五人分、続けて上がってきました」
偶然にしては、多すぎる。ノアも、そう言いたいのだろう。言葉にはしなかったが、紙をめくる指の動きが、心なしか速い。
ユノの、微かな揺れを拾う指のことを思った。鑑定式の紙一枚では、うまく言い表せない力だ。外棟という場所に、そういう力ばかりが、なぜか集まっている。
「俺たちを、調べてるということですか」
「観察対象です。正式には、未分類、あるいは分類不能。呼び方は、まだ定まっていません」
ノアは、紙の端を、指先で揃えた。あの日も、同じ仕草をしていた。
「未分類の力が、まとまって出てきている。研究院としては、放っておけません」
「観察というのは、具体的には」
「定期的な照会と、記録の閲覧です。今のところは、それだけです」
「今のところ、というのは」
「先のことは、私にも分かりません。今は、まだ」
質問が、一つずれた。訊きたかったのは、そこではなかった。だが、聞いた瞬間には、それが的外れだと気づかなかった。ノアの答え方は、一定の距離を保っている。何を訊いても、同じ壁に当たる。
正しい言い分だった。以前と、同じ響きがした。正しいことを言いながら、いちばん見なければいけないものを、見ないことにする響きだ。
「区域の割り当てのことも、知ってるんですか」
思い切って、訊いた。答えが返らないことは、分かっていた。それでも、リオネルが見つけた、決裁欄の窪み。誰かが、一度書いたものを、あとから削った跡だった。半年前の署名と、今の監督官が同じ名前だったという話も、まだ引っかかっている。あれ以来、ずっと胸につかえている。
ノアの手が、紙束の上で、止まった。
ほんの一瞬のことだった。表情は、変わらない。だが、指先だけが、わずかにこわばった。以前、母の名前を聞いたときと、同じ止まり方だった。
「……それは、私の管轄では、ありません」
「今の、止まり方」
俺は、続けた。
「前に、母の名前を出したときと、同じでした」
ノアの目が、はっきりと、俺に留まった。あの日と、同じ色をしていた。
紙束を持つ手に、力がこもった。角が、少し歪んで、下のほうの一枚が、わずかに覗く。他の紙とは違う、赤みの強い印が、端に見えていた。ノアは、すぐに指で押さえ直し、束の中へ沈めた。
「でも、知ってるんですよね」
母のことを、もう少し訊きたくなった。その先に、何があるのか。だが、口をついて出たのは、別の言葉だった。
「材料が足りない、という言葉は」
ノアは、あの日も使った言い回しを、口にしかけて、途中で止めた。
珍しいことだった。この人が、言葉を選び直すところを、初めて見た。
「今回は、使いません」
紙束を、抱え直す。俺のほうは、見ないままだった。
窓の外を、下級生の一団が、列を組んで通り過ぎていく。誰かが号令をかけていた。ノアは、その声にも、目を向けなかった。
「区域の記録に、不自然な点があることは、私も知っています。誰が、何のために動かしたのかまでは、分かりません。分かっていても、私からは言えないことも、あります」
廊下の奥で、誰かの足音が近づいて、また離れていった。用があったわけではなく、ただ通り過ぎただけらしい。ノアは、それにも構わなかった。
「守ってやれない、ということですか」
「守り切れない、と言ったほうが、正確です」
言い換えの一つ一つに、意味がある人だった。適当に言葉を選ぶ人ではない。だからこそ、その言い換えが、逆に、重く響いた。
封のついた小箱の一つが、腰の帯から、少しずれていた。ノアは、それを直そうとして、やめた。急いでいるふうでもなかったが、長居する気配もない。
「あなたが、その記録を掘り続ければ、私の立場でも、いずれ守り切れなくなります。今は、まだ大丈夫です。ですが、いずれ」
言葉を、区切った。続きは、出てこなかった。
「立場、というのは、何ですか」
「研究院の中にも、いろいろあります。詳しくは、話せません」
それだけ言って、ノアは、目を伏せた。誰かをかばっているのか、自分を守っているだけなのか、俺には、読み取れなかった。腕の中の紙束が、少しだけ、揺れていた。
「……私からは、もう何も言えません」
紙束の角が、指の腹に、白く跡を残していた。それだけ気づいて、口には出さなかった。
言えることと、言えないことを、この人は、いつも厳密に線引きしている。今日、その線が、少しだけ動いた。そのことのほうが、内容よりも、よほど重く感じられた。何が動いたのか、俺には、まだ説明できない。
遠くで、誰かが、忘れたものを取りに戻ったのか、扉を開け閉めする音が、二度した。
ノアは、紙束を、腕の中で、もう一度整えた。
「次の照会は、星位ランキング戦の前に入ります。それだけは、先にお伝えしておきます」
珍しく、先回りして渡された言葉だった。何のための一言なのか、俺には読み切れない。それから、廊下の窓の外に、一度だけ目をやった。それから、再び、俺のほうを見た。
「分類不能、という言葉は慎重に使うべきです。……これ以上は、持ち出さないでください」
今回はノアが久しぶりの登場でした。実際に書いてみると、思っていたより間が空いていて、自分でも少し驚きました。
静かな話ですが、この人が何を隠しているのかは、この先じわじわ効いてくる予定です。
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