第58話
第58話 戻ってきた手
鈍い音が、まっすぐ響いた。
革束の的が、揺れて、止まる。
打ったのは、ボルクだった。
訓練場の隅で、拳を的に当てていた。ニアが許した、軽い的打ちだ。硬直はまだ使っていない。力は込めず、同じ場所だけを、何度も打っている。的の革が、汗でうっすら黒ずんでいた。右腕を庇う動きは、もう見えなかった。崩落の日、真っ先に駆け出し、真っ先に岩を受けたのもボルクだったが、誰かが礼を言いかけて、的を打つ音に消された。ボルクは、打つのをやめなかった。
崩落から、しばらく経つ。俺たちの暮らしは、ひとまず元の形に戻っていた。それでも、あの日のことを、進んで口にする者はいない。誰かが触れかけては、途中でやめる。そういう空気が、まだ少し残っている。
朝の光が、格子窓から斜めに差し込んでいる。埃が、その中をゆっくり漂っていた。訓練場の板張りは、あちこち踏み減っていて、季節ごとに軋む場所が変わる。今朝はやけに静かだった。奥のほうで、縄跳びの音だけが、規則正しく続いている。訓練場の隅では、もう一人、木剣を振る音が、途切れずに続いていた。
リシアの姿は、今日は見えない。実習の割り振りが違うのか、それとも、別の用事なのか。訊く間もなく、朝の集合で散った。書状の件を、口にする者は誰もいない。
「まだ、本調子じゃないですよ」
ニアが、帳面を片手に近づいてきた。ボルクの腕を、そっと取る。指の腹で、骨が接いだあたりを、確かめるように押していく。
「痛みは、ありますか」
「ない」
ボルクは、それだけ答えた。ニアは、まだ納得していない顔のまま、帳面をめくる。細かい字が、びっしりと並んでいた。
「施術、十四回。使った薬包、三十二。骨が繋がるまで、二十日以上かかりました。……軽い怪我の数字じゃ、ないんですから」
帳面の余白に、日付だけが淡々と並んでいた。誰かに読ませるための字ではない。広く見て回ることは、ニアには向いていない。それでも、目の前の一人からは、最後まで手を離さなかった。指先に、絆創膏の跡が、かすかに残っている。
サラが、洗い終えた包帯を抱えて通りかかった。使う当てのない布まで、律儀に畳んで積んでいく。
「予備、まだ余ってますよ。使わなかった分も、もったいないから」
誰も頼んでいない。積まれた布の山は、崩落の日から少しずつ増え続けている。片付けろと言う者がいない限り、これからも増え続けるのだろう。サラは、崩れかけた山の角を、指先でそっと直した。それだけで、満足したように離れていった。
手が空いていたので、布を運ぶのを手伝おうとした。
「あ、それ、順番あるんで」
やんわり止められた。伸ばした手を、そのまま引っ込める。役に立てることは、まだ、何も見つからない。手のやり場に困って、結局、腕を組んだ。
ニアが、帳面を閉じた。数字の重みを、誰かに向けて説明する気配はない。ただ、記録として、そこに置いておくだけだった。
ボルクが、また拳を打つ。さっきと同じ場所に、二度続けて入った。
ニアが、それを見て、小さくうなずいた。何も言わなかった。
少し離れた壁際で、俺はそのやり取りを見ていた。本人は、あの日の話をしない。訊いたところで、同じ答えしか返ってこない気がした。壁の時計を、誰かが直そうとして、途中で諦めた跡がある。文字盤に、薄く埃が積もっていた。
外棟の他の面々は、それぞれの割り振りに散っている。がらんとした訓練場には、今、ここにいる分だけしかいない。全員が揃わない朝も、今ではそう珍しくなくなった。
廊下の向こうから、フィンが欠伸をしながら歩いてきた。ボルクを見るなり、「まだ治んねーの」と、遠慮のない一言を投げる。誰も答えなかった。フィンは、答えを待たずに、訓練場の奥へ目をやった。木剣の音がするほうだ。何か言いかけて、やめる。今日の当番ではないはずだった。結局、欠伸をしながら、そのまま通り過ぎていった。
木剣の音がするほうへ、俺も、そっと目を向けた。
誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残っている男がいる。ラグ・ベルガ。名前だけは、何度か聞いていた。話したことは、ほとんどない。入学から一年以上が経つのに、序列表の中では、下から数えたほうが早い位置に、ずっと名前が居座り続けている。
木剣を、ただ振っている。型も、狙いも、はっきりしない。息は上がっているのに、振りの速さだけは、変わらなかった。何百回目か分からない素振りが、同じ調子で続いていた。
汗が、床に点々と落ちている。人目のない場所で、誰よりも長く体を動かしている。それでも、成果らしい成果は、見えなかった。星位ランキング戦の名簿にも、こいつの名前は、まだ載っていない。壁際に、使い込んだ木剣が、もう一本立てかけてあった。柄の部分だけ、色が変わるほど握り込まれている。それでも、まだ折れてはいない。
「……まだまだ、足りない」
誰に聞かせるでもない声が、木剣の音の合間に、小さく漏れた。手を止める気配はない。振っては、止め、また振る。その繰り返しだった。
声をかけようとして、足が止まった。
何を言えばいい。頑張れば、の続きが、出てこなかった。
結局、何も言わずに、通り過ぎることにした。
数歩も行かないうちに、視界の端で、何かが引っかかった。
少し離れた場所で、下級生が二人、光を灯す初歩の詠唱を練習していた。まだあどけなさの残る顔つきだった。手のひらに、小さな光の玉を灯す、それだけの術だ。片方の玉が、灯る寸前で、ほんの一瞬だけ、遅れた。
「……あれ」
下級生が、自分の手を見つめて、首をかしげる。もう一度試すと、今度は普通に灯った。連れがからかうように、何かを言った。気のせいだと思ったのか、二人はそのまま、練習を続けていく。
光の術でも、灯る前は、掌が熱くなる。それだけは知っていた。俺には、何が起きたのか分からなかった。ただ、あの手のひらに集まりかけていた熱が、灯る直前に、ほんの一瞬だけ、外へ引かれるのを感じた。引かれた先に、ラグがいた。それだけだった。
当のラグは、気づいた様子もない。木剣を振る手を、止めもしなかった。顕現名は《無才》。誰がつけたのか知らないが、ずいぶんな名だと思う。
訓練場の扉が、軋んだ音を立てて開いた。誰かが顔を出し、床のあたりを見回してから、諦めて出ていった。手ぶらのままだった。廊下の向こうで、予定表が急に変わったと、切れ切れに愚痴る声が聞こえた。
窓の外で、鐘が鳴る。実習の準備が、そろそろ始まる時間だった。
ラグの木剣の音が、鐘に紛れて、聞こえなくなった。
ボルクのところへ戻ると、ニアはもう帳面をしまい、サラは布の山を運び終えていた。ボルクだけが、まだそこに立っている。
「――戻れそうか」
訊くと、ボルクは、少しの間だけ黙った。いつもの、考えるときの間だった。答えを急かす者は、ここにはいない。窓の外を、鳥が一羽、横切っていった。遠くで、まだ縄を跳ぶ音が続いている。
右手を、ゆっくり握る。指の関節が、拳の形に収まっていく。小指の先だけ、ほんの少し遅れて閉じた。ボルクは、気づいていないようだった。言わずにおいた。そのまま、また開く。何度か、それを繰り返した。硬直を使わない、素の握力だけの動きだった。
そろそろ、時間だ。行かなければならない。
ボルクが、拳を軽く握って開く。
「動く」
今回はボルクの復帰回でした。「動く」のひとことに落ち着くまで、地味に何稿か書き直しました。
新しく出てきたラグも、この先ちょくちょく絡んできます。
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