↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
57/120

第57話

第57話 エリオの最後通牒


 乾いた音が、二つ続けて響いた。


 剣じゃない。何かが押し返されて、弾かれる音だった。


 足を止めて、柵の向こうを見た。夕方前の、まだ日の高い時間だった。古い訓練場に、二つの人影がある。使われなくなって久しい壁は、ところどころ苔で黒ずんでいた。今日は、外棟の当番が早く終わった。だから、こんな時間に、この道を通りかかった。


 一人は、リシア。もう一人は――エリオ。


 考えるより先に、柵の陰へ寄っていた。声をかける場面じゃない、と体のほうが先に判断していた。苔むした壁の隙間から、二人の様子が、切れ切れに見えた。動けなかった。


 また、腕試しか。以前もこんな形で、リシアが一人で立たされていたのを見たことがある。


 正面から、エリオの拳が伸びる。《鉄壁》。名前どおり、隙のない一撃だった。


 初めて対峙したときのことを、覚えている。あの日も、リシアの膜は、何もできずに終わった。


 一度目。リシアの膜が広がる。触れた瞬間、あっけなく弾けて消えた。今までなら、それで終わりの光景だ。


 二度目。同じことが、また起きる。石畳の水たまりに、乾いた埃が薄く貼りついた。エリオの表情は、変わらない。


「――」


 リシアは、何も言わず、また膜を張り直す。息が、もう浅い。呼吸が、目に見えて乱れていた。


 三度目。エリオの拳が、また伸びる。膜が、今度はたわんだ。拳の勢いを受けたまま、真横へ、滑るように逃がしていく。靴底が、石畳を擦る音がした。エリオの体が、わずかに泳いだ。


 柵の陰で、息を止めていた。あの膜が、崩れずに何かを受け流すところを、俺は初めて見た。何百回も、こうして一人で張り直してきたのだろう。そんな気がした。この感触に、いつ気づいたのかは、まだ聞いていない。


「……ほう」


 低く、声が漏れた。感心には、聞こえなかった。値踏みするような響きだった。


「まぐれだ」


「三度目のまぐれ、というものが、あるんでしょうか」


 声の震えは、隠せていなかった。それでも、言葉は崩れていない。挑発には、聞こえなかった。ただの、確認のようだった。


 エリオが、また拳を放つ。速さは、さっきと変わらない。だが、リシアの膜は、今度は同じようにたわまなかった。


 弾けた。何が違ったのか、リシア自身にも、分かっていないようだった。石畳に、片膝をつく音がした。


「……四度目は、駄目でした」


「当然だ」


 エリオの声に、初めて、苛立ちが混じった。俺には、そう聞こえた。拳を握る手に、僅かに力がこもるのが見えた。


 柵を回って、訓練場に入った。声をかけるほどの間合いではなかったが、いつまでも隠れている理由も、もうなかった。


 しばらく、二人とも動きを止めていた。風が、土埃を、低く巻き上げていく。遠くで、鐘が一つ、鳴った。柵の外の道を、下級生らしい二人組が、こちらを気にも留めずに通り過ぎていった。片方が、夕飯のおかずが少なかったと、やけに真剣な声で文句を言っているのだけ、妙にはっきり聞こえた。


 エリオが、懐から何かを取り出した。折り畳まれた紙――いや、封のついた書状だった。蝋の印章に、見覚えのある紋が押されている。アルヴェインの、家紋だ。折り目は、まだ一本しかなかった。


 仕立てのいい上着の内側から、真っ直ぐな姿勢のまま、それを取り出す。指先が、書状の角に、一度だけ引っかかった。


「読まなくていい。中身は、俺が言う」


 リシアの手が、止まった。受け取るかどうか、迷っているように見えた。手を伸ばせば届く距離に、俺は立っていたが、それでもエリオは、俺の方を見なかった。最初から、いないもの扱いだった。


「アルヴェイン家として、正式に、お前を呼び戻す。次の満月までに、答えを出せ」


「……断れば」


「家名も、継承の座も、失う。今のお前は、その両方を持ったまま、外にいる。半端なままだ」


「……祖母上は」


 エリオは、何も返さない。


「族譜からも、外す。それだけは、分かっているな」


「……族譜って、何ですか」


 我慢できずに、口を挟んだ。エリオは、目もくれずに、答えなかった。リシアが、俺の腕に、そっと触れた。それだけで、黙るしかなかった。


 リシアは、何も言わず、書状を両手で受け取った。指先が、まだ震えている。


「戻って、正統な結界を、一から学び直せ。基礎からだ。今のような、その場しのぎの薄い膜ではなく」


「……今のは」


 リシアが、口を開いた。震える指先で、封を、そっと撫でる。


「今のは、壁では、ありませんでした」


「知っている」


 エリオが、即答した。


「だから、聞いている。壁でないなら、何だ」


 答えは、それきり、いつまでも、返らなかった。


 エリオは、それ以上、待たなかった。踵を返し、柵の脇を通り過ぎていく。俺の姿には、一瞥もくれない。足音が、遠ざかっていく。柵の外へ出ても、振り返ることはなかった。静かな、退場だった。


 リシアは、まだ、その場から動いていない。


「……エリオと、いつも、あんな感じなのか」


 我ながら、間の抜けた訊き方だった。他に、言葉が、出てこなかった。柵の陰から見ていたことは、言わずにおいた。


「……いつもです。小さい頃から、ずっと」


 リシアは、それだけ言って、視線を書状に戻す。表情は、窺えない。


「今のは、あいつが悪い。お前の膜は、ちゃんと」


「レンには、分からないと思います」


 言葉を、途中で遮られた。責めるような声ではない。ただ、事実として、そう言っているだけだった。


「……分からない。悪いが、家のことは」


「いいんです。分からなくて」


 リシアは、書状を、両手で持ったまま、しばらく黙っていた。手のひらの震えが、少しずつ、封の端まで伝わっていく。指の付け根に、皮の擦れた跡が、うっすら赤くなっていた。


 伸ばしかけた手を、途中で止めた。触れていいものか、分からなかった。半歩の距離が、いつもより、遠く感じられた。査問のあと、まともに言葉を交わした回数は、片手で足りるほどだった。


「……少しだけ、怖いんです。今のが、本当に、私のものなのかどうか」


 語尾は、最後まで下がらずに、揺れていた。確かめる勇気は、なかった。


 隅に転がった水桶から、こぼれた水が、石畳の上に細く伸びていた。誰かが蹴ったらしい。


 族譜がどうとか、継承がどうとか、正直、俺にはよく分からなかった。そんな大層な話をされても、実感が湧かない。手の甲に、荷運びでできた擦り傷が、まだ薄く残っている。柄にもなく、そんなことが目についた。


 沈黙が、また戻ってきた。ノエルの練習の声が、遠くで途切れがちに響いているのが、耳の端に届いた。それきり、聞こえなくなった。


 日が、少しずつ傾いていく。訓練場の影が、いつの間にか、二人の足元まで伸びていた。石畳の水気が、その影の中で、まだ乾ききらずにいた。


「……行かないと」


 リシアが、先に呟いた。実習の集合時間が、そろそろ迫っている。鞄の紐を、いつもより強く握っているのが見えた。


 俺は、頷くことしかできない。何か気の利いたことを言えたら良かったのだろうが、そんな都合のいい言葉は、最後まで浮かんでこない。せめて隣を歩くくらいは、と思ったが、それさえ、口にできずにいた。


 リシアが、ふと、顔を上げた。目が合う。すぐに、逸らされた。ほんの、一瞬のことでしかない。


 リシアは、書状を、開かないまま、鞄の奥へ、しまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。