第57話
第57話 エリオの最後通牒
乾いた音が、二つ続けて響いた。
剣じゃない。何かが押し返されて、弾かれる音だった。
足を止めて、柵の向こうを見た。夕方前の、まだ日の高い時間だった。古い訓練場に、二つの人影がある。使われなくなって久しい壁は、ところどころ苔で黒ずんでいた。今日は、外棟の当番が早く終わった。だから、こんな時間に、この道を通りかかった。
一人は、リシア。もう一人は――エリオ。
考えるより先に、柵の陰へ寄っていた。声をかける場面じゃない、と体のほうが先に判断していた。苔むした壁の隙間から、二人の様子が、切れ切れに見えた。動けなかった。
また、腕試しか。以前もこんな形で、リシアが一人で立たされていたのを見たことがある。
正面から、エリオの拳が伸びる。《鉄壁》。名前どおり、隙のない一撃だった。
初めて対峙したときのことを、覚えている。あの日も、リシアの膜は、何もできずに終わった。
一度目。リシアの膜が広がる。触れた瞬間、あっけなく弾けて消えた。今までなら、それで終わりの光景だ。
二度目。同じことが、また起きる。石畳の水たまりに、乾いた埃が薄く貼りついた。エリオの表情は、変わらない。
「――」
リシアは、何も言わず、また膜を張り直す。息が、もう浅い。呼吸が、目に見えて乱れていた。
三度目。エリオの拳が、また伸びる。膜が、今度はたわんだ。拳の勢いを受けたまま、真横へ、滑るように逃がしていく。靴底が、石畳を擦る音がした。エリオの体が、わずかに泳いだ。
柵の陰で、息を止めていた。あの膜が、崩れずに何かを受け流すところを、俺は初めて見た。何百回も、こうして一人で張り直してきたのだろう。そんな気がした。この感触に、いつ気づいたのかは、まだ聞いていない。
「……ほう」
低く、声が漏れた。感心には、聞こえなかった。値踏みするような響きだった。
「まぐれだ」
「三度目のまぐれ、というものが、あるんでしょうか」
声の震えは、隠せていなかった。それでも、言葉は崩れていない。挑発には、聞こえなかった。ただの、確認のようだった。
エリオが、また拳を放つ。速さは、さっきと変わらない。だが、リシアの膜は、今度は同じようにたわまなかった。
弾けた。何が違ったのか、リシア自身にも、分かっていないようだった。石畳に、片膝をつく音がした。
「……四度目は、駄目でした」
「当然だ」
エリオの声に、初めて、苛立ちが混じった。俺には、そう聞こえた。拳を握る手に、僅かに力がこもるのが見えた。
柵を回って、訓練場に入った。声をかけるほどの間合いではなかったが、いつまでも隠れている理由も、もうなかった。
しばらく、二人とも動きを止めていた。風が、土埃を、低く巻き上げていく。遠くで、鐘が一つ、鳴った。柵の外の道を、下級生らしい二人組が、こちらを気にも留めずに通り過ぎていった。片方が、夕飯のおかずが少なかったと、やけに真剣な声で文句を言っているのだけ、妙にはっきり聞こえた。
エリオが、懐から何かを取り出した。折り畳まれた紙――いや、封のついた書状だった。蝋の印章に、見覚えのある紋が押されている。アルヴェインの、家紋だ。折り目は、まだ一本しかなかった。
仕立てのいい上着の内側から、真っ直ぐな姿勢のまま、それを取り出す。指先が、書状の角に、一度だけ引っかかった。
「読まなくていい。中身は、俺が言う」
リシアの手が、止まった。受け取るかどうか、迷っているように見えた。手を伸ばせば届く距離に、俺は立っていたが、それでもエリオは、俺の方を見なかった。最初から、いないもの扱いだった。
「アルヴェイン家として、正式に、お前を呼び戻す。次の満月までに、答えを出せ」
「……断れば」
「家名も、継承の座も、失う。今のお前は、その両方を持ったまま、外にいる。半端なままだ」
「……祖母上は」
エリオは、何も返さない。
「族譜からも、外す。それだけは、分かっているな」
「……族譜って、何ですか」
我慢できずに、口を挟んだ。エリオは、目もくれずに、答えなかった。リシアが、俺の腕に、そっと触れた。それだけで、黙るしかなかった。
リシアは、何も言わず、書状を両手で受け取った。指先が、まだ震えている。
「戻って、正統な結界を、一から学び直せ。基礎からだ。今のような、その場しのぎの薄い膜ではなく」
「……今のは」
リシアが、口を開いた。震える指先で、封を、そっと撫でる。
「今のは、壁では、ありませんでした」
「知っている」
エリオが、即答した。
「だから、聞いている。壁でないなら、何だ」
答えは、それきり、いつまでも、返らなかった。
エリオは、それ以上、待たなかった。踵を返し、柵の脇を通り過ぎていく。俺の姿には、一瞥もくれない。足音が、遠ざかっていく。柵の外へ出ても、振り返ることはなかった。静かな、退場だった。
リシアは、まだ、その場から動いていない。
「……エリオと、いつも、あんな感じなのか」
我ながら、間の抜けた訊き方だった。他に、言葉が、出てこなかった。柵の陰から見ていたことは、言わずにおいた。
「……いつもです。小さい頃から、ずっと」
リシアは、それだけ言って、視線を書状に戻す。表情は、窺えない。
「今のは、あいつが悪い。お前の膜は、ちゃんと」
「レンには、分からないと思います」
言葉を、途中で遮られた。責めるような声ではない。ただ、事実として、そう言っているだけだった。
「……分からない。悪いが、家のことは」
「いいんです。分からなくて」
リシアは、書状を、両手で持ったまま、しばらく黙っていた。手のひらの震えが、少しずつ、封の端まで伝わっていく。指の付け根に、皮の擦れた跡が、うっすら赤くなっていた。
伸ばしかけた手を、途中で止めた。触れていいものか、分からなかった。半歩の距離が、いつもより、遠く感じられた。査問のあと、まともに言葉を交わした回数は、片手で足りるほどだった。
「……少しだけ、怖いんです。今のが、本当に、私のものなのかどうか」
語尾は、最後まで下がらずに、揺れていた。確かめる勇気は、なかった。
隅に転がった水桶から、こぼれた水が、石畳の上に細く伸びていた。誰かが蹴ったらしい。
族譜がどうとか、継承がどうとか、正直、俺にはよく分からなかった。そんな大層な話をされても、実感が湧かない。手の甲に、荷運びでできた擦り傷が、まだ薄く残っている。柄にもなく、そんなことが目についた。
沈黙が、また戻ってきた。ノエルの練習の声が、遠くで途切れがちに響いているのが、耳の端に届いた。それきり、聞こえなくなった。
日が、少しずつ傾いていく。訓練場の影が、いつの間にか、二人の足元まで伸びていた。石畳の水気が、その影の中で、まだ乾ききらずにいた。
「……行かないと」
リシアが、先に呟いた。実習の集合時間が、そろそろ迫っている。鞄の紐を、いつもより強く握っているのが見えた。
俺は、頷くことしかできない。何か気の利いたことを言えたら良かったのだろうが、そんな都合のいい言葉は、最後まで浮かんでこない。せめて隣を歩くくらいは、と思ったが、それさえ、口にできずにいた。
リシアが、ふと、顔を上げた。目が合う。すぐに、逸らされた。ほんの、一瞬のことでしかない。
リシアは、書状を、開かないまま、鞄の奥へ、しまった。




