第56話
第56話 熱の設計図
夕暮れの資材置き場の陰に、見慣れない背中があった。
仕立てのいい制服。焦げ跡ひとつない、火属性名門の徽章。
壁にもたれて、じっと動かない。誰かを待っているようにも、迷っているようにも見えた。
グレンだった。
声をかけるかどうか迷っているうちに、向こうが先に振り返った。目が合う。気まずそうに、先に視線を逸らしたのは、あいつのほうだった。
「……何しに来た」
俺が訊くと、グレンは答えずに、資材置き場の壁に積まれた木箱のほうへ、視線を逃がした。理由を言う気は、ないらしい。
「別に。ただの通りすがりだ」
通りすがりが、わざわざ立ち止まる場所じゃない。ここは、外棟の裏だ。三つ星上位の人間が、用もなく足を運ぶような場所では、なかったはずだ。
あの模擬戦のあと、こいつが自分から外棟に近づいてくるところなど、一度も見た覚えがなかった。呼び捨てにしなくなっただけで、それ以上、近づく素振りは見せていなかった。
言い返そうとしたところで、積んであった木箱の一つが、ずるりと崩れた。誰も、触ってはいない。ただの、経年劣化らしい。乾いた土埃が、薄く舞い上がる。その音に、グレンだけが、びくりと肩を揺らした。近くにいた道具係の男が、面倒くさそうに舌打ちして、崩れた箱を、爪先で軽く蹴って戻す。直す気は、最初からなさそうだった。
遠くで、獣の鳴き声のようなものが、途切れずに響いている。ノエルの練習だ。何の役に立つのか、いまだによく分からない音が、ずっと止まない。誰も、うるさいとは言わなかった。どこかで、窓を閉める音だけが、少し不機嫌そうに響いた。
「……セイルの噂、聞いたか」
俺のほうから、そう振ってみた。ここに来た理由が、それだろうと思ったからだ。査問のあとの手合わせ、負けたはずの一戦。それでも、「一手目は面白かった」とセイルに言わせた話は、もう学院のあちこちを、静かに回っている。
「知らん」
短く、そっけない声が返ってきた。だが、目までは、逸らさなかった。知らないと言い切った男にしては、妙に食いついた顔を、していた。
「じゃあ、何だ」
「別に。……お前、まだ護り石、借りられるのか」
答えになっていない問いが、返ってきた。読みが外れたことだけは、はっきりと分かった。
「セイルに、何を言われた」
もう一つ、質問が飛んできた。今度は、はぐらかす気もないらしい。
「言われてない。……ただ、見られてる気は、する」
正直に答えると、グレンは、それきり黙り込んだ。積んだ木箱の縁を、指の背で、意味もなく何度もなぞっている。
沈黙が、しばらくのあいだ続いた。グレンは、何か言いかけては、やめる。それを、二度、繰り返した。三度目は、口を開くこともなかった。
そこへ、老いた声が、割り込んできた。
「揃って、暇そうだな」
イザークだった。手には、いつもの分厚い帳面。外棟の連中を捕まえては、記録の続きを聞き出す、あの帳面だ。近くで水を運んでいたユノが、気づいて頭を下げる。イザークは、それに軽くうなずいただけで、そのまま話を続けた。
「聞いたぞ。境界を維持する娘の話も、氷を疑い始めた小僧の話も。……面白いのが、続くな」
帳面をめくる指の動きが、いつもより少しだけ、早かった。
「疑ってるだけです。まだ、何も、掴めてません」
俺が言うと、イザークは、鼻を鳴らした。
「掴んでから動くのでは、遅い。疑った時点で、もう半分は当たっとる。記録さえ残しておけば、あとから誰にでも使える」
そこで、視線がグレンのほうへ、ゆっくりと動いた。値踏みするような、長い間があった。
「お前も、暇なのか」
「……通りすがりだと、言ってます」
俺が代わりに答えると、イザークは、笑いもせずに、グレンを見続けた。
「爆炎、か。名門の火。分かりやすくて、結構だ。……だが、な」
言葉を切って、帳面を、軽く指で叩く。
「分かりやすいことと、正しいことは、まるで違うぞ」
グレンの表情が、そこで動いた。分かりやすく驚いた、というのとは、少し違う。何かを堪えるような、一瞬の強張りだった。
「……俺は、名門だ。分類は、合ってる」
声に、いつもの勢いは、なかった。言い返しているというより、自分に確かめているみたいな響きだった。
「かもしれんな」
イザークは、もう帳面のほうへ目を戻していた。ページをめくりながら、片手間のように付け加える。
「だが、確かめたのか」
答えを待つ気は、最初からないようだった。そのまま、背を向ける。ユノが、小走りでついていく。呼び止められたわけでもないのに、いつも、そうする。
「先生、これは、一体――」
訊きかけた声は、届かなかった。返事もないまま、二人の足音は、遠ざかっていく。夕暮れの光の中に、その背中が、少しずつ小さくなった。
残されたグレンは、しばらく、動かなかった。
俺も、それ以上は何も言わずにいた。掛ける言葉が、見つからなかったからだ。
少し間を置いて、立ち去ろうとしたところで、木箱の陰にしゃがみ込むグレンの姿が、目に入った。焦げた古布と、割れた護り石の欠片。誰かが捨てたごみの中から、それを、拾い上げている。
「……何してる」
「うるさい。見りゃ、分かるだろ」
分からなかった。だが、それ以上は、訊かなかった。
グレンは、拾った欠片を、片手にそっと包み込んだ。指の背に、赤みが差していく。熱を、自分で通しているのが分かる。普通なら、そこで止めるはずの出力だ。
だが、止めなかった。
手の甲が、じわりと赤くなっていく。グレンは顔をしかめたが、指が、一度だけ跳ねかけて、また力を込め直した。開く気は、ないらしい。
「……そのへんで、止めとけ」
「……お前に、言われる筋合いか」
筋合いは、なかった。それでも、黙っていられなかった。
道具係が置き忘れたらしい、古い天秤ばかりが、資材置き場の隅に転がっている。グレンは、それに気づいたのか、木箱の平らな面に、静かに据え直した。焦げた古布越しに、熱を通した欠片を摘まみ、片方の皿に乗せる。もう一つ、拾ったばかりの欠片を、反対の皿へ。同じ石の、同じ大きさに見える二つだった。
同じ大きさに見えた。なのに、片方だけが、重い。
針は、傾いたまま、戻らなかった。
もう片方の手で、懐から折れた鉛筆と、紙切れを取り出す。リオネルの帳面よりずっと粗末な、ただの端紙だった。
何かを、書きつけている。数字らしい。何度も、書いては、消している。
「……同じじゃ、ない」
独り言のようだった。俺に向けたものかどうかも、分からなかった。
「圧、なのか。……それとも、空気の抜け方か。分からん。分からんが、何かが違う」
言葉の途中で、赤くなった手が、跳ねた。それでも、書く手は、止まらなかった。紙の端には、消した跡が、黒くにじんでいる。書いては消し、消してはまた書いた、その回数の分だけ。
天秤の針が、何を示しているのかまでは、俺にも読み取れなかった。
グレンが、数字を、小さく口の中で転がした。三、七、下がって、二……その並びに、聞き覚えがあった。父が、素材の異常を検める時、いつも同じ調子で呟いていた並びだ。
なぜ、名門の火を誇るこいつの口から、それが出るのか。繋がる答えは、一つも浮かんでこなかった。訊けば、教えてくれるのかもしれない。それでも、口は動かなかった。
俺は、その背中に、何も声をかけなかった。




