第55話
第55話 境界の維持
(幕間 side:リシア)
薄い膜が、また、あまりにあっけなく消えた。
張った瞬間だけは、確かにそこにあった。指先から広がる、水面のような一枚。だが、腕を動かした途端、膜は音もなく弾けて消える。跡形も、残らなかった。
中庭の隅、誰も使わない古い訓練場で、リシアはもう二時間近く、同じことを繰り返していた。掌の皮膚が、薄く痺れている。石畳には、水たまりがいくつも残っていた。数日前の雨が、まだ乾ききっていない。
結界とは、動かないものだ。家では、そう教わってきた。
だが、あの日、レンとセイルの間にあったものは、壁ではなかった。
雨の中、遠くから見ていただけだった。近づく勇気は、最後まで出せずにいた。傘も持たずに立ち尽くしていた自分を、あの場の誰も気に留めていなかった。それでも、あの一戦の中に何かがあったことだけは、はっきりと分かる。セイルの間合いには、目に見える壁も、氷の柱も、何もない。それなのに、レンの動きだけが、確かに変わっていた。半歩、遅れる。それだけの違いが、勝敗を決めていた。
あの力は、レンが動くたびに、間合いの形そのままについてきていた。壁のように、そこに立ち止まってはいなかった。
自分の薄膜には、それがない。一瞬だけ張って、砕けて終わる。息を止めている間しか、持たなかった。
「……もう、一度だけでいい」
誰に言うでもなく呟いて、また指先に力を込める。膜が、指先から広がる。半歩、足を動かす。腕を振る。加減を変えて、何度も張り直す。結果は、いつも同じだった。動いた瞬間、膜はそこで終わる。維持する、ということが、こんなにも難しいとは思っていなかった。張ることは、もう何百回とやってきた。だが、張ったまま何かを"する"ことは、一度もなかった。
家の結界術は、動かないことにすべてを懸けている。分家の教本にも、当主の言葉にも、「揺らぐ結界は結界ではない」と、繰り返し書かれていた。従兄のエリオが得意げに語っていた「鉄壁」も、そういう力だ。立ったまま、ただ耐える。
だが、リシアの薄膜は、最初からその型に合っていなかった。分厚くもなく、頑丈でもない。ただ、境目を作るだけの、頼りない一枚。だからこそ、家では「正しくない」と切り捨てられた。
幼い頃、庭でエリオと並んで結界の基礎を教わったことがある。エリオの張った壁は、教官の一撃をびくともせずに受け止めていた。リシアの膜は、同じ一撃で跡形もなく散った。「薄すぎる」と、教官は一言だけ残す。それ以上、何も教えてはくれなかった。エリオは、その隣で、何も言わずに笑っていた。慰めだったのか、優越だったのか、今でも分からない。
あの日から、自分の膜は「未完成の壁」として、家の中でずっとそう扱われてきた。厚くすればいつか壁になる、そう思い込もうとした時期もあった。だが、どれだけ張り直しても、厚みは増えない。ただ、境目を作るだけの薄さは、変わらなかった。
今になって、その"正しくなさ"の意味が、少しずつ、違って見え始めていた。誰かに教わったからではない。あの雨の日、自分の目で見たものが、そう思わせていた。
訓練場の隅では、庭師が黙々と生垣を刈っていた。こちらを気にする様子もない。鋏の音だけが、規則正しく響いている。何を思っているのかも、話しかける気力もなかった。ふと顔を上げた拍子に、庭師と目が合った気がした。すぐに逸らされた。それだけだった。
訓練場の柵の向こうを、誰かが横切っていく。片手に鞄を提げた、見覚えのある歩き方だった。レンだ、と気づいたときには、もう視界の端を通り過ぎていた。こちらには気づいていない。
気づいたときには、半歩、柵の方へ踏み出しかけていた。何を言うつもりだったのかは、自分でも分からない。足を止め、また元の場所に立ち直る。監視付きの身では、寄り道もままならないのかもしれない。あの一戦のあと、彼がどんな顔で過ごしているのかも、まだ知らなかった。
膝をついたまま、しばらく動けずにいた。呼吸が整うのを待つ間に、頭の中で、あの日の光景を何度も繰り返した。何度も繰り返しても、見え方は変わらなかった。セイルの剣先が、雨粒を弾きながら伸びてくる。レンの足が、ほんの僅かに遅れる。あの半歩は、どこから生まれていたのか。剣でも、氷でもない何かが、確かにそこにあった。
膝から、不意に力が抜けて、その場にしゃがみ込む。石畳の冷たさが、掌から伝わってきた。雨に濡れた石は、いつまでも冷たいままだった。指先はもう、感覚が鈍くなり始めていた。
それでも、あの日見たものの正体だけは、まだ掴めないままだった。動きながら在り続ける境界。維持するとは、張り続けることなのか、それとも――張り直し続けることなのか。
考えているうちに、体が前のめりに傾いた。石畳に手をつく寸前、反射的に、指先へ力を込める。
いつもの、一瞬の膜。
だが、その膜は、今度は弾けなかった。
傾いた体を受けて、薄い一枚が、たわむ。潰れず、消えず、ただ、押し返してくる。まるで、そこに小さな足場があるかのように、体を支えていた。
瞬きの間だけ、どこにも落ちていかなかった。指先に、これまでとは違う手応えが伝わってくる。次の瞬間には、膜はまた弾けて消え、体は石畳の上に、そのまま尻もちをついた。
痛みよりも先に、息が止まった。
今のは、何だったのか。張っただけでは、ない。支えただけでも、ない。倒れる体を受け止めて、その形のまま、一瞬だけ、そこに"在った"。
立ち上がろうとして、膝が震えていることに気づいた。掌には、さっきとは違う種類の痺れが残っている。息も、まだ整いきっていない。それでも、今すぐもう一度、同じ感触を確かめたかった。
膜を張る。今度は、意図して、倒れる姿勢を作る。傾ける。支える。
――弾けた。ただの薄い膜に、戻っただけだった。
あれは、偶然だったのだろうか。それとも、あの一瞬にだけ、何か違う条件があったのか。何が違ったのかは、まだ分からない。分からないまま、何度も指先を握り直した。倒れる姿勢を作っては、支えを試す。たわむ前に崩れる回もあれば、たわんだ直後に消える回もある。安定して同じものを出せる気配は、まだどこにもなかった。それでも、確かに一度、触れた感触だけは、指先に残っていた。
庭師の鋏の音は、いつのまにか止んでいた。振り返ると、誰もいない。いつ立ち去ったのかも、覚えていなかった。刈られた生垣だけが、几帳面な線を保ったまま、そこにあった。
日が傾き始めていた。石畳に落ちる影が、少しずつ長くなっていく。夕刻の鐘が、遠くでかすかに鳴っている。実習の集合時間を告げる合図だ。今から向かえば、まだ間に合う時間だった。それでも、リシアは訓練場を出なかった。
もう一度、体を傾ける。今度は、さっきよりも深く。息を、一度だけ止めた。
膜が、確かに、たわんだ。
……今の、これだ。
確信には、まだ遠い。だが、今日の中に、確かに一度だけ触れたものがあった。家で教わってきた結界とは、明らかに違う何か。それでも、指先には、確かな手応えが残っていた。
「……今のは」
声に出してから、しばらく、続きの言葉を探す。壁、という言葉が、もう自分の中でしっくり来ないことだけは、はっきりしていた。かといって、他にどう呼べばいいのかも、まだ思いつかない。
「……今のは、壁ではありませんでした」
誰もいない訓練場に、その一言だけが、静かに残った。




