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第54話

第54話 止めるもの


 誰もいない訓練場で、俺は同じ動きを繰り返していた。


 踏み込む。止まる。もう一度、踏み込む。


 ――遅れない。


 当たり前だ。ここには、誰もいない。あの半歩の遅れは、俺の中にあるものじゃなかった。だとすれば、間合いの中にあったということになる。


 護り石はもう持たされていない。負けた翌日から、実習の予定表にも俺の名前は入っていなかった。監視付きの残留組らしい扱いだと、誰かに聞いた。誰に聞いたのかは、もう、はっきりとは覚えていなかった。


 砂の上に残った、自分の足跡を眺めた。踏み込みの深さは、いつもと変わらない。それなのに、あの日だけ、剣が半歩分、狙いより内側に落ちていた。


 最初は、剣の重さのせいかと思った。使い慣れた模擬剣ではなく、貸し出しの一振りだったからだ。だが、握りを変え、柄の太さや重心の位置まで一つ一つ確かめても、あの遅れだけは、どうやっても再現できなかった。次に、単純に自分が焦っていただけかとも考えた。査問の直後だ。冷静さを欠いていても、おかしくはない。だが、それも違う気がした。焦りなら、もっと早くに気づけていたはずだった。どちらも、違う。あの場でしか起きなかった何かが、まだ他にあるはずだった。


 答えの出ない踏み込みを、もう、十回以上は繰り返していた。踏み込みそのものは、軽い。息も、上がってはいなかった。


「……まだ、やってるんですか」


 声のした方を見ると、ユノが立っていた。両手に、いつもの布袋を抱えている。いつ来たのか、まったく気づかなかった。


「もう、意味ない気がしてきた」

「意味は、あると思います。……ただ、ここでやっても、たぶん出ません」


 断定するでもなく、慰めるでもない、いつもの言い方だった。俺は、踏み込みかけていた足を、そのまま止めた。


 言われて、初めて気づいた。ユノの言うとおりだ。あの遅れは、セイルの間合いの中でしか起きなかった。何もない場所で足跡を数えたところで、何も再現できるはずがない。


 分かっていたはずのことを、体は分かっていなかった。


「……あの時、何か感じたんだよな。空気が、内側だけ重いって」

「はい。でも、それだけです。何が重いのかまでは、分かりません」


 ユノは、そこで言葉を切った。布袋の紐を、意味もなく指で撫でている。何かを言いかけて、やめたようだった。


 布袋の中身が、机の上に広げられた。石の欠片が、いくつも並んでいる。


「……何だ、これ」

「護り石の欠片です。割れた分、係の人が捨てるので。拾っておきました」

「あの日の、か」

「はい。……レンさんの分だけ、分けておきました」


 なぜ分けたのか、理由は聞かなかった。ユノも、それ以上は説明しなかった。


 欠片の一つを手に取る。ひび割れの断面が、妙に滑らかだった。刃で切られたような跡ではない。何かに、内側から押し潰されたような形を、している。割れたというより、潰れたんじゃないか。そんな気がした。


「魔力の流れが、変なんです。……欠片の中に、まだ残ってて」

「変って」

「上手く、言えません。……流れが、一箇所だけ、遅れて追いついてくる感じです」


 感じたことを、言葉にしきれていないのは、いつものことだった。それでも、今の一言は、俺の中で何かと繋がった。


 遅れて、追いつく。


 あの日、俺の体で起きたことと、同じだ。


 欠片を並べ直していると、フィンが訓練場の隅を横切っていった。何束もの荷縄を抱え、誰かに頼まれた運搬の途中らしい。こちらに気づいて片手だけ挙げたが、足は止めずに行ってしまった。忙しない足音が遠ざかって、また静かになる。何を運んでいるのか、訊く間もなかった。荷縄の端が、床を擦る音だけが、しばらく耳に残っていた。


 紙の束が、机に叩きつけられる音がした。振り向くと、リオネルだった。挨拶もなく、机の端に紙を広げていく。


「セイルの試合記録、集めてきた。過去五回分だ」


 頼んだ覚えはなかった。次の束の紐に手をかけたところで、リオネルの指が、一瞬だけ止まる。どうやって集めたのかは、訊かなかった。


 紙には、対戦相手の名前と、簡潔な戦況の書き込みが並んでいた。どの試合も、決着のつき方が似ている。相手の動きが、終盤になるほど僅かに遅れていく。判定官の所見に、疑いの色はなかった。「疲労による精彩を欠く動き」という同じ言葉が、判で押したように繰り返されている。


「疲れてるようには、見えなかった」

「俺も、そう思う。だから、持ってきた」


 ――五回とも、か。


 リオネルは、それだけ言って黙った。数字を並べて、あとは俺に任せる、という顔をしていた。


 冷たい。皆が、セイルの力をそう説明する。氷の花、氷の剣。氷という字が、いつも先に立つ。その先を疑う理由が、これまで一度もなかっただけかもしれない。


 だが、俺が受けた一撃に、冷たさはなかった。指先の感覚は、いつもどおりの速さで戻ってきた。戻らなかったのは、時間の方だった。


 凍らせている、わけではないのかもしれない。


 冷やして遅くしているのではなく、動きそのものを、一瞬だけ止めているのだとしたら。そう考えると、判定官の「精彩を欠く動き」も、ユノの「遅れて追いつく」も、同じ一つの答えに収まりそうだった。氷という名前が、あまりに分かりやすかった。それだけのことかもしれない。


 声には出さなかった。証拠と呼べるものは、まだ何一つない。ユノの感覚も、リオネルの記録も、状況証拠でしかない。父の言葉が、ふと頭をよぎった。名前で戦うな、現象を見ろ。だが、その現象自体が、まだ薄膜のように頼りなかった。


「確かめる方法、あるんですか」


 ユノに訊かれて、答えに詰まった。セイルとまた立ち合う機会など、当分ない。監視付きの身では、次の実習に呼ばれるかどうかも怪しい。査問の結果すら、まだ出ていなかった。それでも、待つ以外に、今すぐできることは何もなかった。


「……今は、ない」


 それだけ答えると、ユノは、それ以上は何も訊かなかった。リオネルは、黙って記録を紙ばさみに戻している。二人とも、俺を責めるでもなく、急かすでもなかった。それが、かえって重かった。握ったままだった欠片の角が、手のひらに、赤い痕を残していた。


 窓の外で、誰かの怒鳴り声が短く響いて、すぐに消えた。声の主までは、分からなかった。訓練場の反対側では、係の男が備品の数を数え直す声だけが、途切れ途切れに続いている。負けた話は、もう口の端に上らなくなっていた。数え直す声だけが、いつまでも半端な数で止まっていた。


 欠片を、光に透かしてみた。断面の奥に、細い筋のようなものが、幾つも走っている。ひびとは、また違う模様だった。


「……仮に、そうだとして」


 リオネルが、紙ばさみを閉じながら言った。


「止めるだけなら、なぜ剣を使う。触れるだけでいいはずだ」


 言われて、答えられなかった。確かに、そうだ。止める力があるなら、剣という形を借りる理由がない。触れるだけで済むなら、剣を振る必要すらない。


 その問いだけが、答えのないまま残った。ユノも、何も言わなかった。窓の外を見ている。視線の先までは、追わなかった。


 分からないことが、また一つ増えた。仮説は、まだ半分も形になっていない。剣という道具に、何の意味があるのか。触れるだけで止められるなら、なぜ刃を振るう必要があるのか。それでも、消えない手応えが一つだけ、胸の底に残っていた。


 欠片の縁を、指の腹でもう一度、ゆっくりとなぞった。冷たさはない。ただ、何かが、あの時の感覚と、よく似ている気がした。


 なぜ、剣なのか。そこだけは、まだ繋がらない。


 あれは、冷やしてない。


 ……止めてるんだ。


 言えば、二人まで巻き込む。監視付きの身で、これ以上は誰も引きずり込みたくなかった。


 誰にも言わなかった。

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