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第53話

第53話 届かない剣域


 もう、逃げ場は、ない。


 セイルの足が、地を噛んだ。低い姿勢のまま、間合いが、さらに詰まる。さっきと同じ躱し方をすれば、剣は確実にそこへ来る。同じ逃げ方はできない。


 護り石は、次で終わる。左の掌の中で、ひびの感触だけが、まだ硬く残っている。ならば、待つより先に、こちらから仕掛けるより他に、道はなかった。


 踏み込む。刃の芯へと、意識を、集める。


 ――遅い。


 振った剣は、狙った場所より半歩分、内側に落ちた。セイルは、動きもせずに、それを見切っていた。まだ痺れの残る指先では、それだけの狂いが出る。


 試しに、少し後ろに下がってみる。動けた。遅れは、ある。だが、動けないわけではない。間合いの中だけ、速さが違うらしい。外まで下がれば、たぶん元に戻る。だが、下がった分だけ、こちらの手も届かなくなる。踏みとどまるしかなかった。


 二度目、間合いを詰めてみる。低く、足元を狙う。刃が届く寸前、セイルの剣が、こちらの軌道の内側に、先回りして滑り込んでくる。弾かれた反動が、痺れとなって手首に残った。読まれている。狙いを変えるしかなかった。三度目、上から叩き落とすように振った。


 ――刃が、ほんの僅かに、確かに触れた。


 セイルの眉が、今度ははっきりと寄った。前の一戦より、深く。この一瞬なら、いける。そう思った。だが、その一瞬に賭けて重ねた四度目は、あっさりと弾かれた。


 白い剣閃が、袈裟に落ちてきた。雨粒が、刃の軌道に沿って弾かれ、白い筋になって散る。合わせようとした。だが、刃と刃が触れる、その一瞬前に、切っ先の角度が変わった。遅れて動いた足では、その修正に間に合わない。


 躱しきれず、肩口に、鈍い衝撃が来た。骨まで響く痛みではない。むしろ、遠くで誰かが殴られたのを見ているような、薄い痛みだった。それでも、体は容赦なく、地面へ引き寄せられていく。乾いた音だけが、雨の中に長く尾を引いて消えていった。


 護り石が、掌の中で、はっきりと砕けた。二つに割れた欠片が、指の間からこぼれ落ちて、濡れた砂の中に、静かに沈んでいく。もう、握りしめておく理由もなかった。近くにいた係の男が、遠目にそれを一瞥する。「派手にやったな……今月これで四つ目だぞ」愚痴だけ残して、拾いもせず、離れていった。


 膝から、不意に力が抜けた。地面に片手をついて、それでも倒れきらなかった。立とうとして、力が入らない。肩の一撃だけでは、説明のつかない重さだった。荒い息の中で、周りの音が戻ってくる。人だかりのざわめき、雨の音、誰かの足音。ずっと遠くから聞こえていたはずのものが、今になって近くなった気がした。雨粒が、頬を伝う感触さえ、やけにはっきりしていた。


 負けた。それだけは、疑いようもなく、誰の目にも、はっきりと、そう分かった。


「……何を、した」

 声に出してから、質問になっていないと気づいた。セイルは、それに答えなかった。


「三度目は、悪くなかった」

 セイルが、そこで言葉を止めた。剣を、ゆっくりと静かに引く。その目の奥で、何かを探るように見ている。


 刃が届いたのは、三度目、あの一度だけだった。四度目は、あと一歩まで迫りながら、届かなかった。刃そのものに仕掛けがあるのか、間合いという距離自体に何かがあるのか。それさえ、まだ判断がつかない。


 人だかりの隅で、ユノが、両手を軽く広げていた。指の先が、小刻みに揺れている。何かを感じ取ろうとする、いつもの仕草を見せていた。しばらく、そのまま動かなかった。誰かが咳払いをしても、気づいていない様子でいた。周りの視線が集まっても、それにさえ、気づいていない。

「……空気が、内側だけ、重いです」

 彼女が言えたのは、それだけだった。冷たいのか、粘っこいのか、それ以上のことは、彼女にも掴めていないらしかった。眉根が、微かに寄ったまま、戻らない。感知の得意な彼女でさえ、これだけしか言葉にできないという事実が、逆に、重く響いた。


 濡れた足音が、慌ただしく近づいてきた。ニアだった。肩から下げた鞄の紐が、片方ほどけかけているのに、本人は気づいていない。膝をつき、俺の肩に手を当てる。何も言わず、傷の場所を確かめるように、指を這わせた。指先が、骨の位置を一つずつ辿っていく。丁寧すぎるくらいの手順だった。急いでいるはずなのに、動きの一つ一つに、無駄がなかった。

「……折れてはいません。打っただけです」

 言い終える前から、もう次の処置に移っていた。動きに、迷いがない。何度もこの場に呼ばれてきた者の、手慣れた手つきだった。

 指先から伝わる、微かな温もりが、肩の奥まで届いていく。強張りが、少しずつ緩んでいくのが分かった。それでも、足には、重さがまだ残っている。


「痛みますか」

 静かに訊かれて、首を横に振った。痛みより、腕の中に何かが居座っているような、重たい違和感のほうが、ずっと気にかかっていた。ニアの手は、雨に打たれて、ずっと冷えていた。それでも、指の動きだけは、丁寧だった。処置に慣れた手つきだけが、いつもと変わらない。それが、少しだけ、ありがたかった。他の連中の声が遠く聞こえる中、彼女の手の感触だけが、はっきりと近かった。


 人垣のさらに後ろで、誰かが足を止めているのに気づいた。傘も差さず、雨に打たれるままだった。リシアの背格好に、よく似ていた。駆け寄っては、こない。俺も、声をかけようとして、荒い息の合間に、言葉が出てこなかった。何を見ていたのか、何を思ったのか、雨の向こうまでは、読み取れなかった。


 セイルが、こちらへ歩み寄る。手を貸すでもなく、ただ、見下ろすでもなく立った。


 セイルは、何も言わない。ただ、見下ろす目に、値踏みの色はもうなかった。

 実力不足で、事故に遭ったわけじゃない。それだけは、これで、はっきりした。誰に向けて示したかったのかは、自分でも、まだ分からない。ただ、「弱かったから事故った」という筋書きが、少しだけ崩れた。それだけだ。


 それが、査問の結論を覆すとは、思えなかった。証拠にすらならないかもしれない。あの評定長なら、鼻で笑って終わりにするだろう。それでも、崩れたことは崩れた。書類の上でどう扱われようと、この場に立っていた連中の目には、確かに残っただろう。誰にも、消しようがなかった。


 人だかりの端で、ざわめきが小さくなっていく。賭けの数字を口にしていた連中は、もう何も言わない。かつて、外棟の一つ星だと囃し立てていた声も、今日はもう聞こえなかった。誰も、こちらを見ていないふりをしていた。少し離れた場所で、帳面を構えたリオネルの手だけが、まだ小さく動いていた。


 セイルが、一瞬だけ足を止めた。急かすでも、労うでもない。何も言わず、また歩き出す。


 雨は、まだ降り続いていた。濡れた砂の上に、割れた護り石の破片が一つ、鈍く光っていた。誰も、拾おうとしない。踏まれるのを待つだけの、ただの石に、もう戻っていた。


「……次は、もう、ない」

 セイルが、背を向けながら、それだけ言った。歩き去る足取りに、来たときと同じ、無駄のなさが残っていた。傷一つ、どこにも負っていない。


 ニアに支えられながら、ようやく立ち上がる。膝が、まだ笑っていた。それでも、歩けないほどではない。雨は、いつのまにか、細かい霧のような降り方に変わっていた。それでも空気だけは、いつまでも湿って重いままだった。


 訓練場を出る間際、もう一度だけ、割れた護り石のほうを振り返った。誰も拾わないまま、雨に濡れて、鈍く光っている。あの石に刻まれた無数の傷の数だけ、誰かがここで負けてきたのだろう。今日から、その数に、俺も加わる。名前も残らない、ただの一つの傷として。


 指先の熱は、いつもの速さで戻っている。それなのに、あの間合いの半歩分だけは、いくら待っても、まだどこにも戻ってこなかった。

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