第52話
第52話 一手の手合わせ
刃は、俺の方を向いていなかった。
切っ先は、廊下の敷石の目地を、ただ指していた。斬るつもりなら、もう間合いに踏み込んでいるはずだ。セイルは、動かない。
雨に濡れた石の匂いが、鼻の奥に残っていた。どこか遠くで、扉が風に煽られて、ばたんと鳴った。動くべきか、動かざるべきか、判断がつかないまま、俺は立っていた。廊下の先から、誰かの足音が近づいて、途中で引き返していく気配がした。
本気で誰かに切っ先を向けるセイルを、俺はまだ見たことがなかった。稽古でも、試合でも、いつも涼しい顔のまま片手間に片付けていく男だ。以前、「弱点を見つけるだけでは足りない」と言われたことがある。あのときの声と、今の声は、同じ温度だった。その顔が、今は少しも動いていない。
「……何のつもりだ」
「聞いた通りだ」
セイルは、抜いた剣を、鞘には戻さなかった。
「実力の証明が要るなら、測ればいい」
さっき聞いたばかりの台詞が、もう一度繰り返された。今度は、意味がちゃんと繋がった。
「手合わせ、ってことか」
「それ以外、何がある」
素っ気ない答えだった。雨音だけが、しばらく間を埋めた。
断る、という選択肢が、頭の隅をよぎった。だが、セイルの目を見て、それが無意味だと悟った。ここで逃げれば、査問で口にしたことは、全部、負け惜しみに変わる。
「今、か」
セイルは、すぐには答えなかった。ただ、少しだけ、声を落として続けた。
「査問のあとだ。皆が噂を始める前に、けりをつけたい」
誰の噂かは、訊かなかった。訊かなくても、分かる気がした。実力不足で事故に遭った、外棟の一つ星。査問の紙に、そう書かれずに済むかどうかは、俺の実力次第らしい。それでも、セイルの足取りに、迷いは見えなかった。
訓練場に着く頃には、もう人が集まり始めていた。誰がどこから聞きつけたのか、俺には見当もつかない。壁際にもたれる上級生、扉の隙間から覗く一年生。誰も彼も、こちらを試すような目をしていた。雨脚は、いつのまにか弱まっていた。地面に張られた砂は、半分だけ水を吸って黒ずんでいる。
ここは、以前グレンと打ち合ったのと、同じ場所だった。あのときは負けて、それでも残ったものがあった。今日は、その残ったものだけを、持って立っている。
「五つ星と、外棟の一つ星か」
「これは、見せしめだろう」
「賭けるか」
「よせ、三手ももたないだろ」
小さな声が、あちこちで交わされる。俺に向けられたものではないのに、耳には嫌でも入ってきた。誰も、外棟に張っていなかった。
人だかりの端に、グレンの姿があった。何か言いたげな顔のまま、腕を組んで黙っている。声をかけてくる様子はない。あのときは、俺に向かって好き放題に囃し立てていた男だ。今は、それすらしない。
護り石を貸し出す係の男が、帳面を片手にぼやいていた。
「また急な申し込みか……台帳が、追いつかないな」
誰にともなく零した愚痴に、答える者はいない。
セイルが、こちらを見た。値踏みする視線の群れに、聞かせるつもりはなさそうだった。俺にだけ、向けて言った。
「本気ではない。だが手は抜かない」
それだけ言うと、鞘を、係の男へ丁寧に預けた。投げて渡すような真似は、しなかった。
係の男が、護り石を二つ並べた。ひとつを俺に、もうひとつをセイルに。「ひびが入ったら、警告だ。次で、完全に割れる。割れたら、そこで終いだ」と、面倒くさそうに言った。
俺は、渡された護り石を握った。掌に収まる、ただの丸い石だ。石の表面には、細かい傷が無数についていた。何人の手を渡ってきたのか、考えるだけ無駄だった。
武器は、金属の模擬剣を選んだ。刃を潰した練習用だが、重さと質感は本物に近い。木では、熱を通さない。金属でなければ、仕込みようがなかった。
セイルの武器は、鞘から出したままの本身だった。寸止めを完全に制御できる上位生にだけ許された特例だと、聞いたことがある。刃の側面に、うっすらと霜のような模様が浮いている。あの剣で本気で斬られた生徒は、学院に一人もいないという話だけが、頭の隅をかすめた。
柄を握ったまま、開始の合図を待つ。柄の革が、握った場所だけ、じっとりと湿ってくる。汗ではない。
迷いを振り切れないまま、柄を握り直す。
係の男が、片手を上げた。
「はじめ」
周りの声が、ぴたりと止んだ。地面の砂が、セイルの足元で弾けた。次に見えたときには、もう間合いの内側にいた。足取りに、無駄が一つもない。
上段から来る、と読んだ。違った。低く、足元を薙いでくる。かろうじて跳んで躱す。読みを外すところから、始まった。
一度だけ、隙を突こうとした。踏み込んで、模擬剣を合わせにいく。間合いの読みが甘かった。掠りもしないまま、弾き返される。
防御すら、間に合わない太刀筋が続いた。切っ先が、濡れた砂を巻き上げながら伸びてくる。受け止めるたび、刃の側面の白い霜が、間近に見えた。俺は、下がりながら受けるので精一杯だった。骨まで痺れる。受けるたびに、指先の感覚が、少しずつ鈍っていく。熱を移す隙なんて、どこにもなかった。周りの声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。人がいたことすら、忘れかけていた。
護り石が、掌の中で鈍く鳴った。ひびが入った音だと、遅れて気づいた。次を受ければ、砕ける。
場違いに、父の声が、頭をよぎった。スキル名で戦うな、現象を見ろ。今さらそんなことを思い出しても、動きが変わるわけではなかった。
このままでは、熱を一度も伝えられずに終わる。ただ受け続けるだけでは、何も変わらない。
――待つのではなく、作るしかない。
俺は、次の一撃を、あえて浅く受けた。刃を弾かず、押し返さず、ただ噛み合わせたまま、その一点に意識を集める。乗せた熱を逃さないよう抑えたまま、ただ待った。指が、汗で滑りかけた。握り直す、その一瞬が、ひどく長く感じた。
白い剣閃が、袈裟に落ちてくる。
合わせた。
金属と金属が、噛み合う。硬い音の中に、もう一つ、小さな軋みが混じった。刃の芯に溜めていた熱を、噛み合った一点へ、全部流し込んだ。熱くなった鋼は、わずかに膨らむ。触れた場所だけが、ほんの一瞬。滑るはずだった刃が、そこで引っかかる。
セイルの剣筋が、外へ流れた。肩をかすめるはずだった一撃が、頬の横を抜けていく。
セイルの目が、初めて動いた。値踏みでも、侮りでもない。何かを確かめるような目だった。雨音の他には、何も聞こえなかった。
「……今のは」
セイルが、言いかけて、止めた。
俺は、答えなかった。答える気は、起きなかった。今のは、効いた。次も同じにいくとは、まだ言えない。
護り石を握る手のひらに、ひびの感触が残っていた。まだ、完全には砕けてはいない。かろうじて、そこにある。指先が、まだ小さく震えていた。
人だかりの端で、何か言いかけていた声が、途中で止まった。賭けの数字を口にしていた連中も、静かになっている。グレンだけは、組んでいた腕を、いつのまにか解いていた。
セイルの足が、半歩、崩れた。体勢を立て直すまでの、ほんの一瞬。剣を引く動きにも、いつもよりわずかに重さが残っていた。
「一手目にしては、悪くない」
声の温度は、まったく変わらなかった。だが、剣を持つ指が、さっきより深く握り直されていた。
護り石が、次の一撃を保たないことは、握った感触だけで分かっていた。次で、勝負が決まる。
勝てるとは、正直、思っていない。それでも、ここで退く気には、どうしてもなれなかった。理由を言葉にする余裕は、もうなかった。
セイルが、二の太刀の構えを、さっきとは違う位置に取る。低い。俺が跳んで躱した、あの足元と同じ高さだ。無駄のない構え直しだった。迷いも、ためらいも、そこにはない。
――ああ、見られていた。
俺の躱し方の癖まで、もう、すっかり読まれている。




