第51話
第51話 保留という決着
画鋲が、一つ足りなかった。
扉に貼られた「査問中」の紙が、その角だけめくれて、廊下の隙間風に揺れていた。誰も、直そうとしない。
呼び出しがあったのは、三日後だった。その間、誰もあの日のことには触れずにいた。訓練は普段どおりに続いていたが、カイルだけは一度も顔を出さなかった。部屋にいる、とだけリシアが教えてくれた。様子を見に行こうか迷って、結局、やめた。何と声をかければいいのか、分からなかったからだ。
三日目の朝、扉の下に一枚の紙が差し込まれていた。時間と場所だけが書かれていた。呼ばれた名前は、俺とユノ、カイルの三人。前と同じだった。紙の書式も、罫線の位置まで、前回と寸分違わない。
廊下を歩く間、カイルは一言も喋らなかった。ユノも、俺も。三人分の足音だけが、冷えた石の壁に反響して、行きよりも長く聞こえた。途中、フィンとすれ違った。何か言いかけて、結局、片手を軽く挙げただけで通り過ぎていった。
石造りの部屋は、前と変わらないはずなのに、妙に広く感じた。長机には、今日は一人しかいない。頬にそばかすの残る、あの若い教官だ。ハーグの姿は、どこにもなかった。
壁際の、一段低い椅子に、誰か一人、腰掛けていた。教官は、紹介しなかった。目を伏せたまま、身じろぎ一つしない。傍聴人か、記録係か。それ以上、考える余裕はなかった。
俺たちが座ると、椅子の脚がまた、かたりと鳴った。右だけ短いのは、前と同じらしい。誰も直していないのだと、妙なところで分かった。
ユノが、俺の袖の端を、軽くつまんでいた。カイルは、膝の上で手を組んだまま、動かない。窓の外で、雨の音がしていた。
教官が、紙を一枚、机に広げた。端が、一度折られて、また伸ばされた跡が残っていた。
「結論から言います」
抑揚のない声だった。
「今回の崩落について、実力不足の生徒が、危険区域に入ったことが遠因と、一応は、認めます」
実力不足。外棟全員を、まとめてそう言われた気がした。俺は、椅子の右脚を、靴の先で軽く押した。かたり、と鳴った。教官は、顔を上げなかった。
「一応、というのは」
俺は、訊いた。
「区域の割り当てに関する記録に、疑問点があると、複数の証言が一致しています。監督官の判断が適切だったか、現在も確認中です」
「じゃあ、誰なら、あの区域に入ってよかったんですか」
言ってから、質問になっていないと気づいた。
「その質問には、答えられません」
教官は、表情を変えずに、そう返した。俺は、それ以上、続けられなかった。
教官の目が、一度だけ、机の端に置かれた帳面に落ちた。見覚えのある、リオネルの帳面だった。表紙の埃は、もう跡形もない。すぐに、視線を戻す。
俺は、それを見逃さなかった。
「その帳面、もう読まれたんですよね」
教官の指が、紙の上で止まった。
「……次の議題に、移ります」
答えなかった、ということが、答えだった。
「確認中、というのは、いつまでですか」
俺は、重ねて訊いた。
「決まっていません」
教官は、それだけ答えた。目は、紙から動かなかった。
「ユノの証言については」
教官が、続けた。小さく、ユノが息を止めるのが分かった。
「感知の内容そのものは、参考記録として残します。証拠としての採否は、別の話です」
ユノの、俺の袖をつまむ指に、少しだけ力がこもった。
「《脆化》の制御を欠いた点について、処分は保留とします。当面は監視付きで、実習への参加を認めます」
カイルの指先が、椅子の縁を、強く押さえていた。震えは、もう止まっている。
「退学は」
カイルが、初めて口を開いた。声は、思ったより落ち着いていた。
「今回は、ありません」
教官が、顔を上げて答えた。すぐに、また紙に目を落とす。
「以上です。追加の証言が出れば、再度、審議します」
誰も、何かを問い返さなかった。教官が紙をそろえ、席を立つ。歩きながら、俺の横を通り過ぎるとき、一瞬だけ足を止めた。
「……最初の文面には、もっと厳しい言葉が、並んでいました」
それだけ言って、振り返らずに出て行った。足音が、廊下の向こうへ消えていく。
部屋に、静けさが残った。カイルが、詰めていた息を、大きく吐いた。むせて、少し咳き込む。それから、ようやく呟いた。
「保留って、何だよ」
「監視付き、ってことだろう」
俺は、そう答えたが、自分でも、何を言ったことになるのか分からなかった。
「監視されながら、いつまで続けるんだよ」
カイルが、椅子の脚を、思いきり蹴った。かたり、と情けない音がしただけで、椅子は、倒れずに済んだ。
それ以上、続けなかった。答えを、求めていたわけではないらしい。
ユノが、俺の袖から、そっと手を離した。崩落で挟んだ指に、まだ薄い痣が残っていた。
「……守られた、ってことに、なるんでしょうか」
答える者は、いなかった。
「リオネルは」
俺が訊くと、ユノが小さく首を振った。
「写しを取って、また一からめくり直してるそうです。今日は、来られないと」
それだけ聞いて、少し、気が楽になった。少なくとも、誰か一人は、まだ諦めていない。
椅子の下に、食べかけの黒パンの包み紙が丸めて捨ててあるのに気づいた。誰のものかは分からない。
廊下に出ると、セレスタンが、壁に寄りかかって待っていた。外棟の授業を、ずっと持ってくれている人だ。何も言わず、カイルの肩に一度だけ、手を置いた。カイルは、振り払わなかった。
雨は、まだ石畳を濡らしていた。細く、静かに。カイルは、セレスタンに軽く頭を下げただけで、何も言わずに先へ歩いていった。ユノが、少し遅れてついていく。
俺は、二人の背中を見送ってから、ふと、開いたままの扉の奥を振り返った。壁際の椅子は、もう誰もいない。
そのとき、誰かの気配がした。
廊下の突き当たりの長椅子に、人影があった。目が合った瞬間、それがセイルだと気づいた。
「……いたのか」
「最初から」
室内では、俯いた横顔しか見えていなかった。立ち上がったセイルは、思っていたより背が高い。構えているわけではない。半歩、踏み込めばこちらの間合いを潰される位置に、いつのまにか立っている。
「班のことなら――」
「カイルの話ではない」
セイルが、遮った。声の高さは、変わらない。それ以上は、言わなかった。
俺は、身構えた。責められるのだと、勝手に思った。
「何のことだ」
「査問の間、聞いていた。お前の言い分は、筋が通っていた」
セイルは、そこで一度、言葉を切った。それきり、口を閉じたままにした。
言われなくても、分かった。筋が通っていることと、証明できることは、別だ。
怒気はない。見下す響きもない。声の温度が、ずっと同じだった。
「あんたが、なんで査問に」
「規則で、俺は入れる」
セイルは、それだけ答えた。理由を説明する気は、なさそうだった。俺も、それ以上は訊かなかった。
「証明なんて――」
「必要ない、と言うつもりか」
セイルの目が、初めて、まっすぐこちらを向いた。値踏みでも侮りでもない目だ。崩れ落ちた魔物の残骸と、俺たちの顔を見比べていた、あの日と同じ目をしている。
俺は、答えられなかった。必要ない、の一言が、喉につかえた。
セイルは、それ以上、何も付け加えなかった。返事を待っている様子でもない。廊下の遠くで、誰かの足音が消えていく。
「実力の証明が要るなら、測ればいい」
セイルの親指が、鞘の口金を押し上げた。
かちり、と乾いた音が鳴った。
気づいたときには、もう刃が、抜けていた。




