第50話
第50話 見ていた者
ハーグの声が消えたあとも、部屋の空気は動かなかった。誰も、立ち上がろうとしない。カイルは、俯いたまま、拳を握っていた。ユノは、俺の袖を、まだ指先でつかんだままだった。
「見ていました」
低い声だった。振り返ると、壁際、燭台の陰に、一人の生徒が立っていた。誰も、そこに人がいると思っていなかった。俺も、気づいていなかった。
一瞬、ハーグが後から呼んだ人間かと勘違いした。声の落ち着きが、誰かに言い含められた台詞のように聞こえたからだ。
燭台の炎が、そこだけ細く傾いていた。風の抜けない場所のはずだった。
ハーグの手が、紙の束を持ったまま止まった。めくりかけていた紙が、一枚、宙で止まっている。
沈黙が、落ちた。
「誰の許可で、この場にいる」
「……許可は、取っていません」
少女は、目を伏せずに答えた。声の大きさは変わらない。ただそこに、最初からいた人間のように立っていた。
白髪の交じった老教官が、積み上げられた名簿の束を、目的の一冊が出てくるまで一冊ずつ確かめるようにめくった。ページの端が乾いて、めくれない。指先を軽く湿らせてから、ようやく一枚、剥がした。行を追う速さが、目に見えて落ちる。
「メイ・シャロット。……補助枠の一年生か。名簿には、この区画の割り当てが見当たらない」
「割り当てられていません。ついて行っただけです」
「誰に」
「……誰にも。気づかれなかったので」
答える間、メイの視線は一度も揺れなかった。ただ、両手の指先だけが、スカートの布のあたりを、少しだけ握っていた。
書記の男の手が、紙の上で固まっていた。ペン先が、紙に触れたままだった。老教官だけが、もう一度、メイの顔を見直していた。
「崩落の前、地盤の異音を、監督官に伝えました」
ユノが、俯いたまま、もう一度言った。声は、さっきより幾分かしっかりしていた。誰も、それを裏付けられなかった。今までは。
「聞きました」
メイが、初めて監督官のいた椅子のほうを見た。視線は、椅子ではなく、その脇の床に落ちた。誰も座っていない、伏せた紙だけが残された椅子だった。
「あの日、七区の四――崩落があった区画の入り口近くにいました。誰にも気づかれずに。ユノが、監督官に言いました。『危ないです、確かめてください』。監督官は、規定の紙を見て、『範囲内だ』と言いました。それだけです。それ以上のことは、見ていません」
少し間があってから、メイが付け足した。
「あと、監督官の靴は、乾いていました。水たまりを避けて歩いていたので」
誰も、それに答えなかった。妙に、具体的すぎた。だが、彼女はいつも、そこまで見ている人間なのだと、その一言で分かった。
規定の紙を、見て。
俺は、その一言に引っかかった。
カイルが、初めて顔を上げた。何か言おうとして、口を開きかけたまま、また閉じた。膝の上の手だけが、少しだけ、力を緩めていた。
「証拠にはならない」
ハーグが、遮った。「証人尋問は、事前に届け出た者に限る。お前は、届け出ていない」
「はい」
メイは、短く答えた。反論も、弁明もしなかった。声に、悔しさは滲まなかった。慣れているだけなのだろう、と俺は思うことにした。
カイルが、椅子を鳴らして立ち上がった。
「届け出てなけりゃ、見たことにもならないのかよ」
声が、上ずっていた。膝が机にぶつかり、書類の端がわずかにずれた。
ハーグは、顔を上げなかった。紙をめくる指が、止まりもしなかった。
カイルは、何も言い返せないまま、椅子に沈んだ。
「……補助枠の更新は、来月だったな」
老教官が、誰にともなく呟いた。名簿から、目を離さないままだった。
メイの指先が、スカートの布から一度離れ、また同じ場所を握り直した。答えは、なかった。
「規定にない証言は、規定にない」
ハーグの声は、変わらなかった。だが、紙をそろえる指だけが、一度、動きを止めた。短い停止だった。誰かが数えていなければ、気づかない程度に。
頬にそばかすの残る若い教官が、名簿の同じ行を、二度見た。ハーグの視線が、一瞬、そちらへ動いた。それだけで、若い教官は目を伏せた。
老教官が、ペンを取った。だが、余白に触れる前に、また置いた。
「今日のところは、これまでとする」
ハーグが、紙の束を書記に渡した。立ち上がりざま、メイのほうを一瞥もせずに、部屋を出ていく。足音が、廊下に響いて消えた。
残ったのは、老教官と若い教官、それに俺たちだけだ。誰も、メイに礼を言わなかった。老教官だけが、彼女が出て行った扉のほうを、しばらくのあいだ一度だけ見ていた。若い教官は、書きかけの記録に、何かを書き足しては、また消していた。
彼女は、来たときと同じくらい静かに、扉のほうへ歩き出した。足音が、ほとんどしなかった。
「メイ」
俺は、呼んだ。
足が止まった。振り返る動きが、一拍遅れた。
「……はい」
「ありがとう」
それだけ言った。他に、言葉が見つからなかった。
「……礼を言われたのは、初めてです」
メイは、それだけを言って、扉を出て行った。振り返らなかった。
俺が扉から目を戻したとき、老教官の指が、名簿の「更新」の文字の上で止まっているのが見えた。書き込みはなかった。
廊下は、まだ夜の冷気が残っていた。リシアたちが待っていた。フィンは壁に寄りかかったまま、腕を組んで目を閉じている。
「靴紐、また緩んでる」
誰へともなく、フィンが呟いた。
ボルクの巻き直した包帯が、肘のところで緩んでいるのが見えた。
リオネルだけが、少し離れた長椅子で、帳面を睨んだまま座り込んでいた。表紙の埃は、もう指の跡で拭われている。リシアが、様子を見かねたのか、水を一杯汲んできて、机代わりの窓枠に置いた。リオネルは、それに気づかないまま、帳面をめくり続けていた。
「リオネル」
声をかけると、顔を上げた。目の下に、薄く隈ができていた。
「七区の四……半年前の記録、査問の間、見直してました」
帳面を、窓枠に広げる。細かい字がびっしりと並び、所々、線で消してある。鉛筆は、もう半分ほどの長さになっていた。二つの日付が、並べて書き写されていた。半年前の事故記録と、今回の割り当て表。字の大きさも、筆の勢いも違う。急いで書き写したのが分かった。
「監督官は、規定の紙を見て、判断したらしい」
俺は、それだけをリオネルに伝えた。
リオネルの手が、宙で止まった。
「……見て、ですか」
帳面の余白に、指を這わせる。
「決裁の欄に、印がありません。空欄です。半年前も、今回も」
「押し忘れ、じゃないのか」
「一回なら、押し忘れで済みます。でも、この区域だけ、二回とも同じ欠け方をしてます」
「どうだった」
リシアが、横から訊いた。俺は、首を横に振った。それで、伝わったらしい。リオネルは、それには答えず、帳面をめくり続けていた。
「偶然、ということはないのか」
リオネルは、少しの間、答えなかった。窓の外で、誰かの足音が遠ざかっていく。指が、帳面の余白を、意味もなく叩いていた。
俺には、まだ判断がつかなかった。二件で、偶然と呼べないのか。三件、四件と積み重なって、初めて言えることなのか。線引きが、俺には分からない。
リオネルにも、分からないはずだった。それでも、指を止めなかった。
「区域を割り当てる権限があるのは、教務課だけのはずです」
リオネルの指が、空欄の上を、もう一度なぞった。今度は、止まった。
紙の表面が、わずかに窪んでいる。書いて、削った跡だった。
「これは……区域割り当ての判断が、おかしい」




