第49話
第49話 査問
石造りの廊下は、外よりも冷えていた。壁の燭台は、片方だけ、灯りが入っていなかった。
長椅子に、フィンとリシア、ニアが並んで座っている。サラは落ち着かないのか、少し離れた場所を行ったり来たりしていた。ボルクは、まだ腕を吊ったまま来ていた。座れと言う者は、いなかった。
「呼ばれたのは、俺とユノとカイルだけだ」
「知っています。だから、外で待つ」
リシアが、短く、はっきりと言った。それ以上は、何も付け加えなかった。
俺は、扉の継ぎ目を見つめていた。何を言えばいいのか、まだ決まっていない。決まらないまま、時間だけが過ぎていく。
フィンは、椅子の背に寄りかかったまま、天井を睨んでいた。何か言いたげで、結局、何も言わなかった。
ボルクは、吊った腕をかばいながら壁に背を預け、じっと目を閉じていた。眠っているのか、そうでないのか、分からなかった。
「ねえ、中でお茶とか出るのかな」
サラが、誰にともなく言った。誰も、答えなかった。ニアだけが、ちらりとサラを見て、また視線を戻した。
サラが、また同じところを行って、戻ってきた。三度目だった。遠くの教室から、誰かの笑い声が、場違いに響いてきた。
リオネルが、帳面を差し出してきた。表紙の埃は、まだ落ちていない。
「これ、持っていってください。使うかどうかは、任せます」
「中は」
「七区の四です。半年前も同じ番号の区域で、作業員が生き埋めになっています。当時の安全確認の署名が――今日のあの監督官と、同じ名前でした」
俺は、それを受け取った。開く暇はなかった。七区の四。それだけを、頭の中で二度、繰り返した。
扉が開き、三人分の名前が、まとめて告げられた。
部屋に入って腰を下ろすと、かたり、と小さく響いた。椅子の脚が、右だけ短いのだ。
正面の長机に、三人が並んで座っている。中央が、ハーグだった。左に白髪の交じった老教官、右に頬のそばかすが残る若い教官。机の端に、湯気の消えた茶が一つ、手をつけられないまま置かれていた。壁際の燭台が一つ、机の端まで淡い光を届けている。
ハーグの前には、紙の束があった。指で端をそろえながら、めくる速さは変わらない。急ぎも、止まりもしない。
「星位評定長ハーグの名において、中層実習中の崩落について、事実関係を確認する」
声は、静かだった。怒っても、笑ってもいない。
左の老教官が、小さく咳払いをしてから、抑揚のない声で報告書を読み上げた。「七区の四、崩落規模およそ二十立方、負傷者三名」。数字だけが、淡々と並んでいく。ボルクの負傷は、「右上腕骨折、全治一月」の一行で読まれた。カイルの名が読まれたとき、その教官は、読む速度を一度だけ落とした。
「《脆化》の使用が、崩落の直接の引き金になったと、現場の記録は示している」
教官が言った。カイルは、口を結んだまま、膝の上の手を強く握っていた。
末席に、セレスタン教官の姿があった。外棟の授業を、ずっと持ってくれている人だ。身を乗り出しかけて、口を開く。
「あの状況で、彼が動かなければ、被害はもっと広がっていたはずです」
「発言の順は決まっている」
ハーグが、目も上げずに言った。セレスタンは、椅子に体を戻した。だが、しばらく、何も言わなかった。
「待ってください」
俺は、立ち上がった。
「引き金には、なりました。でも、その前から地盤は不安定でした。ユノが、崩落の前に警告しています」
「その警告は、記録にあるのか」
ハーグが、初めてこちらを見た。
「……口頭で、監督官に伝えました」
ユノが、小さく答えた。声が、少し震えていた。
「どんなふうに、感じたのか、説明できるか」
右端の教官が、初めて口を挟んだ。ユノは、両手を軽く広げて、指の先を揺らした。
「地面の奥で、魔力の揺れが、いつもと違う速さで――」
「感覚の話は、結構だ」
ハーグが、それを遮った。ユノの両手が、宙で止まった。それから、力なく下りた。そのまま、俯いた。
「監督官の記録には、その旨の記載がない」
ハーグは、手元の紙を一枚示した。証人として呼ばれた監督官が、少し離れた席で、身を縮めていた。膝の上には、紙が一枚、伏せて置かれている。
「……規定の範囲内だと、判断した。それ以上は、分からん」
監督官の声は、いつもより小さかった。誰の目も、見ようとしない。伏せた紙の端を、指先が何度もなぞっていた。
「規定の、どの条項ですか」
俺は、一歩、詰め寄った。監督官の視線が、膝の上に落ちた。それきり、動かなかった。
「……第九条の、二だ」
絞り出すように、監督官が答えた。
「その条項は、判断の理由を書面に残すよう定めているはずです。監督官は、書きましたか」
監督官は、答えなかった。伏せた紙の端が、震える指の下で、くしゃりと歪んだ。燭台の灯りを受けて、その端が鈍く光った。
「今、書いているんですか。査問の、今」
監督官の手が、紙を隠すように動いた。答えは、それだけだった。
「……今の発言は、記録に残します」
若い教官が、静かに口を挟んだ。
ハーグの視線が、一瞬だけ、監督官へ動いた。それだけだった。
「レン・ハルヴェル。発言は、順序どおりに願う」
ハーグが、初めて、俺の名を呼んだ。だが、その手は、次の紙をめくらずに、しばらく止まったままだった。
俺は、椅子に腰を戻す。座面が、また、かたりと鳴った。
「五本目の柱に生徒を集めた判断は、有効だったと、四つ星の班長が報告に記している」
ハーグが、淡々と続けた。
「記録にあるものは、記録にある。それだけだ」
俺は、詰めていた息を、少しだけ吐いた。
「感知は主観です。数字にはならない。でも、ユノが感じたことは――」
「感知者本人の主観は、扱わない」
ハーグが、遮った。声を張らない。もう決まっていることを、読み上げているだけの速さだった。
「感じた、というのは、本人にしか確かめようがない」
反論しようとして、口を開いた。だが、続く言葉が出てこなかった。
俺は、預かってきた帳面を、机の上に置いた。
「割り当てられた区域は、七区の四です。半年前の事故記録に残る、当時の安全確認の署名が、今日のあの監督官と同じ名前でした。これは――」
「誰が調べた」
「外棟の生徒です。正式な調査官では――」
「では、正式な記録ではないな」
「同じ人間が二度、同じ場所を、危なくないと判断しています」
「先例は先例だ。今回の判断とは関係ない」
ハーグは、帳面を一瞥もせず、脇へ寄せた。故郷で、大人たちが取り合わなかったときと、同じ仕草だった。あのとき、唯一聞いてくれたのが、ロイだ。
俺は、それ以上、何も言えなかった。
「触れるな、と言われていたはずだが」
ハーグが、視線をカイルへ移した。
「……言われてました」
「では、なぜ触れた」
カイルは、しばらくの間、黙っていた。
「岩が抜けなくて。放っておいたら、ユノの腕が潰れると思ったので」
「結果、天井が落ちた」
「……はい」
カイルは、そこで一度、言葉を切った。
「あの岩、たぶん、俺が触らなくても抜けなかったと思います。でも、そう思いたいだけかもしれません」
誰も、それに答えなかった。カイルは、俯いたまま、動かなかった。
扉の向こうで、床を擦る音がした。行って、戻って、また行く。サラだ。
監督官が、席を立った。誰にも目を合わせず、カイルの横をすり抜けて、先に部屋を出て行った。伏せたままの紙だけが、椅子の上に静かに残されていた。
やがてハーグが、紙を一枚、机の中央に置いた。
「《脆化》の制御を欠いた生徒については、退学を含む処分を検討する。決定は追って知らせる」
左の教官が、報告書をめくりかけた手を、止めた。めくらないまま、そっとそこに置いた。
カイルは、何も言わなかった。ユノは、俺の袖を、指先だけでそっとつかんでいた。
ハーグが、紙の束をそろえ直した。そろえ終えてから、もう一度、そろえ直した。
俺は、もう一度、口を開きかけた。だが、その前に、ハーグが立ち上がった。
紙の束を書記の男に渡しながら、ハーグが言った。
「感覚は証拠にならない。記録にないものは、なかったことと同じだ」




