第48話
第48話 乾いた血止め
坑道の入り口まで運び出されると、外の光が、やけに白く感じた。遠くで、桶に水を汲む音が聞こえていた。
誰かが、ボルクを担架に静かに乗せた。誰かが、リオネルの帳面をそっと拾い上げて返した。誰が何をどうしたのか、順番はもう思い出せない。気づけば、傷ついた体だけが、日向に並んでいた。
監督官の姿は、もう見えなかった。連絡に走ったのか、報告書を書きに戻ったのか、それは誰も気にしていなかった。四つ星の班長だけが、まだ崩落の入り口に立って、中を睨んでいる。何かを数えているようだったが、こちらからは、声をかけなかった。少し離れた場所で、リオネルが帳面を睨んでいるのが見えた。
五つ星のエレノア・セラフィスが、先に到着していた。神殿推薦の聖女候補だと聞いたことがある。長い髪を結いもせず、土に膝をついている姿は、噂の「正統派最高位」という言葉より、ずっと働き者に見えた。両手を軽くかざすだけで、負傷者の周りの空気が、ふわりと温かくなる。切り傷も、打撲も、順番に浅くなっていく。手際は、見ていて危なげがなかった。次から次へと、迷いなく手が動いていく。
「広く浅く。骨接ぎまでは、私の領分じゃありません」
誰にともなく、そう言い残して、次の負傷者へ移っていった。
フィンの腕の擦り傷も、彼女の手が触れると、跡形もなく消えた。フィンは自分の腕を、何度も裏返しては見返している。
「うわ、すごいな、これ」
フィンが、誰にともなく声を上げた。
エレノアは応えず、もう次の生徒の前にしゃがみ込んでいた。数を、こなさなければならない立場なのだろう。
だが、ボルクの右腕は、彼女の手が触れても、すぐには形が戻らなかった。
「骨は継げません。専門の者が来るまで、血を保たせるだけです。ここから先は、ニアさんに」
エレノアは、それだけ言い残した。
ニアが、静かに膝をつく。ボルクの腕に両手を添えて、目を閉じた。広くはやらない。一人の、それも一点だけを、長く見る。次々に人の輪を渡っていくエレノアの手に比べると、ニアの手はほとんど動かない。呼吸が整い、皮膚の血の気が戻ってくる。骨の位置までは直せない。それでも、腕は熱を取り戻していった。
「……上手だな」
ボルクが、掠れた声で言った。
「まだ途中です。喋らないで」
ニアは、目を閉じたまま答えた。額に、汗の粒が浮いている。それでも、誰も急かさなかった。
俺は、少し離れた場所からそれを見ていた。ニアの手が止まるたび、ボルクの指先が、わずかに動く。良くなっているのか、悪くなっているのか、俺には分からない。熱の流れなら読めても、人の治りかたまでは、俺の力の外だ。分からないことを、分からないまま見ているしかなかった。
ユノの指も、ニアが見た。爪の際の赤黒さが、少しずつ薄くなっていく。
「痛かったら言ってください」
「……大丈夫、です」
大丈夫には見えなかったが、それ以上は訊かなかった。ユノは、空いているほうの手で、自分の膝をずっと握っていた。
リシアが、俺の隣に腰を下ろした。装具の帯を、まだ外していない。
「レンは、無事ですか」
「見ての通りだよ」
「見ての通り、というのが、一番信用できません」
それだけ言って、リシアは黙った。俺も、黙っていた。しばらくして、リシアはユノのほうへ歩いていった。
少し離れた人の輪の外で、誰かが布を洗っていた。
「あの、通りますね、すみません、そこの水――」
見覚えのない生徒だった。外棟の腕章をつけている。桶を抱えて、忙しなく動き回っていた。
「初めまして、外棟のサラです。何か手伝えることないですか、包帯とか、水とか」
頼んだ者は、誰もいなかった。それでもサラは、汚れた布を片っ端から集めては、水気を絞り、両手で乾かしていく。布は、みるみる乾いていった。
「……その布、まだ使いますよ」
ニアが、短く言った。
「あ、ごめんなさい、すぐ返します」
サラは慌てて布を返したが、五分後には、また別の布を集めていた。今度は誰も使っていない布を選んでいたが、洗う必要のない布まで洗っていた。
「あの、それ、汚れてないですけど」
「乾いてるほうが、いざという時いいかなって」
はっきり断る者は、いなかった。断る余裕もなかったのだと思う。
布から水気が抜けていく様子を、俺は熱で追ってみた。布の繊維の間を、熱が水を押し出すように動いている。乾かすというより、水そのものを追い出しているように見えた。なかなか器用な力だ、と思った。
俺のところにも、水気の残る桶を抱えたサラがやってきた。
「あなたが、レンさんですか? 五本目の柱の話、聞きました。すごいですね」
「ただの勘だ」
「勘でも、当たったなら、すごいですよ」
悪気なく、あっさりそう言われると、返す言葉に困った。サラはそのまま、俺の返事を待たずに、次の場所へ移っていく。
それでも、乾いた布の山だけが、着実に増えていった。
その山の中から、ニアが一枚を取り上げた。ボルクの腕に、包帯代わりに巻いていく。
「……乾いてる。ちょうどいい」
サラの手が、一瞬止まった。それから、何も言わずに、また次の布を集め始めた。口元だけが、少し緩んでいた。
「さっきは、うるさくしてすみません」
ニアが、布を巻きながら、そう言った。振り返らないまま。
「いえ! こっちこそ、邪魔ばっかりで」
「邪魔じゃないです。乾いてないと、困るので」
それだけだった。サラは何度か瞬きしてから、また次の布に手を伸ばした。今度は、少しだけゆっくりだった。
少し離れた場所で、カイルが一人、座り込んでいた。誰も、近づかない。声もかけない。
フィンが、水筒を一つ、黙って足元に置いていった。それだけで、何も言わずに離れていく。カイルはそれに気づいたのか、気づいていないのか、分からなかった。手袋は、まだつけていなかった。
サラが、桶を抱えたまま、その方向を一度だけ見た。近づこうとして、足が止まる。何か言いかけて、結局、何も言わずに、別の場所へ布を運んでいった。
誰も、彼女にカイルの事情を話していない。それでも、近づかないほうがいいと、なんとなく分かったらしかった。新入りの直感というやつかもしれない。あるいは、ただの人見知りかもしれなかった。
俺は、その様子を見ながら、乾いた布を一枚、手に取った。熱を流してみる。水分はもう残っていない。それだけの、ただの布だった。
「レン」
リオネルの声だった。乾いた布の山を回り込むようにして、帳面を抱えて、俺の隣に立っている。折れた鉛筆の芯は、新しいものに替えられていた。芯だけが新しくて、帳面の表紙は埃で白くなっている。目の下に、隈ができていた。崩落の間、記録を取り続けていたせいだろう。誰かに休めと言われても、聞かなかったに違いない。
「割り当て図の番号、控えてきたやつ、前に借りてた古い記録と照らしてみました」
「何か出たか」
リオネルは、帳面のページをゆっくりめくった。指が、ある行の上で止まる。しばらく、何も言わなかった。何度も数字を、確かめ直しているようだった。
「休んでからでもいい」
「いえ」
短く答えて、リオネルは帳面から目を上げなかった。休むつもりはないらしい。周りでは、まだ布を絞る音と、誰かの咳が続いている。日向は白いままで、影だけが少しずつ長くなっていた。
「同じ番号が、半年前の事故記録にもあります」




