第47話
第47話 崩落
俺の手のひらの下で、石が、細かく鳴り続けていた。
「監督官」
声をかけたが、返事はなかった。紙を睨んだまま、口の中で何かを数えている。三日前、規定上問題ないと言い切った、あの口だ。
「監督官、聞こえてますか」
「……ん」
顔も上げない。今さら聞いても、この人からは、もう何も出てこない。俺は、そう判断して、口を閉じた。紙の端を折る癖だけは、今日も変わらないらしい。
後ろで、フィンが荷を担ぎ直しながら、誰にともなくぼやいた。
「なあ、この揺れ、みんな平気なわけ? 俺はもう膝が笑ってるんだけど。六日目にもなって、勘弁してくれよ」
誰も、何も答えなかった。答える余裕が、もう誰にもなかった。
四つ星の班は、少し先の広間で作業を続けていた。班長が振り返り、こちらの空気に気づいたのか、片手を上げて何か合図をよこす。だが、その手が下りきる前に、鳴き声が上がった。
灰緑色の鉱脈の奥、削られたばかりの壁面が、ぼこりと膨らんだ。膨らんだ場所から、灰色の体節が二つ、三つと押し出てくる。表面は鉱脈と同じ色をしていて、動くまでは、誰も岩の一部だと思っていた。太さは俺の胴回りほどで、継ぎ目ごとに鈍く光る節がある。
「魔物だ、下がれ!」
誰かが叫んだ。四つ星の班が前に出る。魔法が飛び、体節の一つが弾け飛ぶ。だが残りは怯まず、壁の奥へ潜っては、少し離れた場所からまた顔を出す。壁そのものが敵になったようなもので、狙いをどこに定めればいいのか、誰も分からずにいた。
班長が舌打ちして、隊列を割った。
「削れば奥へ逃げる、囲んで削るしかない、四人ずつで固まれ!」
指示は的確だったが、地面のほうが、その指示を待ってはくれなかった。魔物が壁を蹴った拍子に、削られたばかりの岩肌が、粉のように崩れて視界を塞いだ。
俺は、近くの岩に手を当て、熱の流れを追った。魔物の体が潜っている場所は、周りより熱が薄い。
「班長、そこの左、熱が抜けてる場所です。厚みが薄いはずだ」
班長は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、言われた場所へ魔法を叩き込んだ。体節が一つ、悲鳴に似た音を立てて弾けた。それでも、残りの数は減らなかった。
「壁と一体化してる、逃げ場がない――」
ユノの声が裏返った。壁に張りついたまま、動けずにいる。近すぎて、うまく感知に集中できずにいるのが分かった。
俺は、近くの壁に手を当てた。熱の抜け方が、さっきまでと違う。さっき魔物が出てきた、あの膨らみだ。奥の一点に、熱がまとまって流れ込んでいる。壁自体が、まだどこか弱いままなのだ。読める。だが読めたところで、壊す力は俺にはない。教えたところで、間に合う距離でもなかった。
地盤の軋みが、少しずつ大きくなっていく。監督官が渋々認めた印――五本目の柱――の場所を、俺は目で探した。あそこなら、崩れても最後まで残る。そのはずだった。
「五本目の柱へ寄れ!」
声を上げたが、班同士の距離が離れすぎていた。届いたのは、ボルクとユノの二人だけだった。魔物の体節が壁から突き出し、ユノの足元の岩を弾いた。踏ん張った拍子に、ユノの手が、崩れた岩の隙間に挟まった。
「抜けません――」
声は落ち着いていたが、顔からは血の気が引いていた。リシアが駆け寄り、境界を薄く張って岩を押し広げようとするが、隙間はほとんど動かない。
「もう少しです、耐えてください」
「時間が――」
言い終わる前に、地鳴りが一段、太くなった。頭上の岩肌に、細い筋が走るのが見えた。
ボルクが横から割り込み、硬直させた腕で岩を押した。びくともしない。もう一度、力を込める。硬くなった腕の継ぎ目のあたりで、軋むような音がしたが、岩は動かなかった。ボルクは無言のまま、一歩下がった。次に何をすべきか、その目が誰かを探していた。
カイルが動いた。手袋のまま岩に手をかけ、力任せに引く。びくともしない。舌打ちして、手袋を口で噛んで外した。指先が、一瞬だけ迷うように止まった。
「――おい」
俺が止める前に、素手が岩に触れていた。
ぱき、と乾いた音がした。岩は思ったよりあっさり崩れて、ユノの手が抜けた。
だが、勢いは収まらない。
崩れた亀裂が、隣の岩へ走った。隣から、その隣へ。乾いた音が、間を置かずに連なっていく。
「離れろ、全員――」
カイルの声には、初めて聞く色があった。自分の手を見下ろす顔から、血の気が、見る間に引いていく。
天井の一部が、重い音を立てて落ちてきた。
「――ッ」
ボルクが、前に出た。硬直した両腕を頭上に組んで、落ちてくる岩を受け止める。一度、二度。鈍い音が、そのたびに骨まで響くように聞こえた。三度目で、硬直が解け、片膝が折れた。それでも、腕は下ろさなかった。
埃が晴れるまで、誰も、口を開かない。数を数える余裕さえ、誰にもなかった。長く感じたが、実際には数秒だったのかもしれない。
ボルクは倒れていた。右腕が、あらぬ方向に曲がっている。折れた骨が、皮膚の下から不自然な角を作っていた。息はあった。荒いが、あった。装具の帯が、ちぎれて足元に落ちていた。目は薄く開いていて、天井の欠けた場所を、ぼんやりと見ているようだった。
「ニアはまだ後方だ――誰か、水を!」
監督官が怒鳴った。声だけは、規定を口にするときより、ずっと速かった。手にしていたはずの紙は、いつの間にか、手から落ちていた。
俺は、五本目の柱のあたりを見た。柱は、残っていた。読みは、外れていない。だが、柱の周りだけが無事でも、意味はなかった。ボルクが庇わなければ、崩れていたのは、あの一帯全部だ。
遠くから、ニアが息を切らして駆けてくる足音がした。監督官の怒鳴り声が、ようやく届いたらしい。裾を土埃で汚しながら駆けてきて、膝をついた。ボルクの右腕に触れる指が、震えているのが分かった。
「動かさないで、まだ動かさないで――」
誰も、まだ動かなかった。動けなかった、と言ったほうが、近い。
リシアがユノの肩を支え、壁から引き剥がすように座らせた。挟まれていたほうの手を、リシアがそっと自分の腕の中に抱え込んだ。ユノの視線は、ずっと足元のあたりに落ちたままだった。
「……私が、もっと早く言えていれば」
「今、それを考える時間はない」
リシアは短く答え、ユノの背に手を添えたまま、それ以上は何も言わなかった。腕の中に抱え込まれた指の先が、爪の際から赤黒く変わり始めているのが、俺の位置からは見えた。リシアは、まだそれを見ていない。
埃の向こう、崩れなかった一角に、誰かが立っていた。傷一つない。土埃さえ、かぶっていなかった。崩落の真下に近い位置にいたはずなのに、服にも髪にも、汚れ一つ見当たらない。なぜそこだけ無事なのか、俺には分からなかった。
目が合った、気がした。
次に見たときには、もう誰もいなかった。名前を、俺は知らない。誰も、呼ばなかった。それどころではなかった。
リオネルの鉛筆の芯が、帳面の上でぽきりと折れた。彼はそれに気づかないまま、折れた芯で書き続けようとして、白紙に線だけを引いた。
監督官が、埃を吸い込んで咳き込んだ。誰も、その背中を、さすらなかった。手にしていた紙は、いつの間にか誰かの足に踏まれて、泥と埃にまみれている。それを拾い上げようとして、監督官は途中でやめた。
フィンが、口を開きかけた。
「なんでお前、あんなことを――」
言いかけて、止まった。誰も、その先を促さなかった。フィンは口を閉じ、目を逸らした。
カイルは、自分の手をずっと見ていた。震えていた。
俺はしゃがんで、目の高さを合わせた。前にも、こうしたことがある。あのときと同じに見えて、違った。あのときは、誰かが咎める前に俺が言葉を挟めた。今回は、咎める者が、誰もいなかった。
「――おい」
声をかけたが、カイルは動かない。
足元に落ちたままの手袋に、指先だけが何度か伸びて、そのたびに止まった。拾えずにいた。




