第46話
第46話 不安定な区画
ユノが足を止めた。
壁に手をついたまま、動かない。
「……下が、動いてます」
監督官が振り返る。
「動いている、とは」
「押されて、戻って、また押されて。中で何かが動いてる、みたいな。低層では、こうはならないです」
「補助枠の区画は、安全確認が済んでいる。規定上、問題ない」
「ここ、危ないです!」
ユノの声が坑道の奥まで跳ねた。前を歩いていた上位生が、何人か振り返る。自分の出した声に驚いたのか、ユノは首をすくめた。それでも、顎は引かなかった。
リシアが前に出た。
「規定というのは、」
そこで言葉が途切れた。
「……安全確認をしたのは、いつですか」
「三日前だ」
「三日前」
リシアは、それだけを繰り返した。
監督官は手元の紙に、もう一度目を落とした。指が紙の端で止まって、しばらく、動かなかった。
「……俺が確認したわけじゃない」
小さすぎて、聞こえなかったことにできる声だった。
「……経路は、変えられん」
最初に出かかった言葉が、別にあったように聞こえた。
紙が灯りに光った。区域割り当て図の控えだ。外棟の名の横に、割り当てが書き足されている。他の行より字が細くて、角ばっていた。インクの色も、心持ち薄い。明らかに、あとから書き足された筆跡だった。
しまうとき、監督官は一度めくって、二枚目を確かめた。同じ薄い色の字で、数字だけが並んでいる。誰が、何のために書いたのかは、分からない。
誰が、この区画を選んだ。
「行くぞ。時間がない」
列が動く。ユノだけはまだ、壁に手を当てていた。ボルクが横に立って、待っている。ユノが手を離すまで、その場を動かなかった。
後ろで、カイルが舌打ちした。
「くだらねえ」
「何が」
「別に」
朝から、ずっとこの調子だ。今朝、上位生の一人が荷を渡すときに、カイルの手を避けた。聞いても言わないだろうから、聞かなかった。
フィンが荷を担ぎ直した。
「六日目にもなって、干し肉が傷んでるって、どういうことだよ。あと、この灯り、外れだわ。さっきから、点いたり消えたりしてる」
「替えは」
「ない。俺が最後だったから」
返事をした者はいない。フィンはそれきり、黙った。
俺は、歩きながら、壁に手を伸ばした。熱を、流す。焼くためじゃない。石の中を、熱がどう通るかを見るためだ。
押し込んだ熱は、素直に広がって、鈍く戻ってきた。
……普通だ。
ユノの感知が外れたことは今までなかったから、初めて外したのかと思った。壁の質が違うだけで、この先も同じなのかもしれない。
そう思ったまま、歩き続けた。
「ユノ。揺れの間隔、数えられるか」
「……十を数えるあいだに、一回くらいです」
「そうか」
「ノエル。聞こえるか、奥のほう」
少し前を歩いていたノエルが、振り返らずに立ち止まった。壁に耳を寄せて、喉の奥で、低い音を一度だけ真似る。
「昨日より、低い」
「昨日も聞いてたのか」
「聞いてない」
答えになっていない。訊き直そうとしたときには、ノエルはもう歩き出していて、背中しか見えなかった。
灰緑色の鉱脈は、削ると粉になった。手のひらで払っても、皺の線に残る。
上位生が先に取りかかる。俺たちは、運ぶ側だ。脈が細るから角度を変えろ、と誰にともなく声が上がった。返事はないまま、全員の手の角度が、いつのまにか揃っていた。
リシアが装具の帯に指をかけた。
「天井、試していいですか。境界を、薄く一枚」
「頼む」
天井の低いところに、手のひらほどの境界が張られる。空気の出入りを区切る、ごく薄い一枚。
張った直後、それが、わずかに撓んだ。
押されたのだ。それも向こう側から。
「……押し返されました。空気が、こっちへ流れてます」
さっき削れた灰緑色の粉が、床から浮いて、境界のほうへ吸われていく。下から上へ、細く、絶え間なく。
リシアは境界を消さずにいた。
「消したら、押されているのが分からなくなりますから」
鑿の音が続いている。
その音の下で、床が返してこないことに、気づいた。
掘っている上位生の、足のあたりだ。
あと、二打ち。
「そこ、離れろ! 下だ!」
声が出たのと、そいつが体重をかけたのが、同時だった。届かない。俺は前へ出て、装具の帯を掴んで、後ろへ引いた。
二人で、もつれて倒れる。倒れた先で、さっきまで足を置いていた石が、へこんだ。割れたんじゃない。沈んだ。
拳ほどの欠片が、その隙間から、落ちていった。
カイルが半歩、前に出ていた。手袋を外しかけた指が、途中で止まっている。
結局、外さなかった。
音が、返ってこない。
リシアが、ぽつりと呟いた。
「昨日の夜、寮の窓を開けたままにしてきた気がします」
誰も、答えなかった。
俺は、この静けさを知っている。
数えた。三つ、四つ。誰かの装具の金具が、一度だけ鳴って、それきりになった。
五つ目で、遠く、鈍い音がした。
誰も持ち場に戻らなかった。班長が二度、戻れと言って、三度目にようやく、鑿の音が一つだけ戻った。
「……何メートルあるんですか、これ」
「浅くはないです。音が戻るまでの間で、そう見えます」
答えたのはリオネルだった。帳面から目を上げないまま、鉛筆の尻で自分の膝を叩いて数を確かめてから、そう答えた。
助けた上位生が体を起こして、周りを見回した。さっき、角度を変えろと言った奴だ。ユノを探しているのが、分かった。最初に誰が言ったのかは、聞いていた、はずだ。名前を知らないから、何も言えない。目が合って、それから逸れた。
「……悪い」
それだけ言って、また目を伏せた。
ユノは、壁から離した手を一度だけ握った。
二十歩前で、俺は「普通だ」と思った。
もう一度、壁に手を当てる。今度は、一歩ごとに。
監督官が歩いてきて、沈んだ石を見て、足元を、靴の先で二度叩く。
「縁を避けて通れ。中央を歩け」
それだけだ。作業を止める、とは言わない。
紙の端を、また指で折った。三度目だった。
「リオネル。今の、全部書けるか」
「書いてます」
「ユノが最初に言った時刻も入れろ。それと、監督官が止めなかったことも」
筆が止まって、それから、また動いた。
「……名前は聞いてません」
「肩書でいい。あと、割り当て図の番号を写せ」
「番号、ですか」
「入れろ」
フィンのワイヤーは、もう半分もない。分岐まで持たない。柱の位置を、覚えておくしかなかった。
俺は広間の柱に、順に手を当てていった。十本ほど並んでいる、灯りの角度ではどこから伸びているのかも分からない柱だ。
五本目で、手が長く止まった。熱が、まっすぐ下まで通る。地面まで届いている柱だ。ここなら、崩れても最後まで残る。
その根元に、炭で印を付けた。
班長が横から覗き込んで、聞いてきた。
「……なんで、そこなんだ」
「地面まで、抜けてる」
それだけ言うと、班長は、何も言わずに離れた。
カイルが手袋の上から自分の指を握ったのが、視界の端に入った。
「言っとくけど俺、ここでは触らねえぞ。壁も、床も」
「そうしてくれ」
「壊していい物なら話は別だって言ったろ。ここは、別じゃねえ」
監督官が、鉱脈と紙を、交互に確かめている。
「……明日には抜けられる。予定どおりなら、な」
奥から、低く長い音が響いた。
地鳴りとは、違う。
ユノが壁から手を離す。何か言いかけて、やめた。
鑿の音は、途切れなかった。
俺は壁に手をついた。
さっきまでは、強く抜ける瞬間と、ほとんど抜けない瞬間が、交互に来ていた。数えられる規則が、そこにはあった。
今は、抜けっぱなしだ。
押しても、戻らない。
俺の手のひらの下で、石が、細かく鳴り始めた。




