43話
第43話 脆化の問題児
中層には、ギルドが管理する退避区画がある。岩壁を掘り広げ、鉄扉と監視の灯で守られた中継地点だ。実習の間、俺たちは夜ごとここへ戻る。
三日目の朝、その区画の隅で、俺は今さらのようにあることに気づいた。
荷の山の向こうに、いつも一人でいるやつがいる。
補助枠の名簿には「外棟生数名」とあった。俺たちの班にリオネルを足して七人。それからもう一人、八人目がずっといた。列の最後尾で、誰の荷とも別に積まれた荷を、一人で運んでいるやつが。
カイル・ブレイズ。外棟の同期だ。
顔と名前は知っている。学院で知らないやつはいない。訓練場の的柱を、触っただけで崩した男。石造りの的が、殴られたのでも焼かれたのでもなく、内側から古びるように崩れ落ちたのを、俺も遠目に見たことがある。以来、備品倉庫に近づくなと備品係から名指しで言われ、実技の授業では専用の欠けた器具だけを与えられている。顕現名は《脆化》。触れたものの構造を崩す。的も、器具も、扉の蝶番も。
だから、誰もカイルに近づかない。上位生は当然として、外棟のやつらでさえ、半歩の距離を空ける。避けられている俺たちから、さらに避けられている。それがどういう距離なのか、考えると胃の底が冷えた。
一つだけ、引っかかっていることがあった。補助枠の仕事は記録と手当てと索敵の補助だ。カイルの力は、そのどれにも当てはまらない。なぜ名簿に入ったのか。荷役の頭数だろう、と俺はその時は流した。学院側で決定済み——監督官の言葉を借りれば、そういうものなのだろうと。
カイルはいつも革の手袋をはめ、荷紐を自分では結ばず、共用の道具に手を出さない。この三日、一度も声を聞いていない。いなかったのではない。いたのに、誰の視界にも入っていなかったのだ。俺の視界にも。
異変は、区画を出てすぐの岩場で起きた。
その日の実習は、崖沿いの段差を降りた先の鉱脈検分だった。段差には、ギルドが設置した固定の縄が渡してある。ニアが薬包の袋を抱えたまま縄に手をかけ、足を滑らせた。
小さな悲鳴。一番近くにいたのは、最後尾のカイルだった。
カイルは反射で動いた。手袋の手でニアの腕を掴み——掴む寸前で止め、代わりに縄を掴んで引き寄せようとした。
縄が、砕けた。
切れたのではない。カイルの掌の下で、縄はひと巻きぶんまるごと乾いた砂のようにほどけて崩れた。ニアの体が傾く。そこへボルクが割り込み、硬直の腕で受け止めた。薬包が散らばり、岩の上で跳ねる。
一瞬の静止のあと、四つ星の班から声が飛んだ。
「おい! ギルドの設備だぞ、何をしている!」
「離れてろって言ったんだ、俺は……!」
カイルは両手を上げ、後ずさった。手袋の指先から、砕けた縄の繊維がこぼれ落ちる。
「触るな、じゃない。俺に、触らせるな。分かってんだろ」
吐き捨てる声は、四つ星にではなく、自分に向いていた。
「助けようとした手が、これだ。壊すしかできねえんだよ、俺は」
誰も答えなかった。監督官が縄の残骸を検分し、予備に張り替えるよう淡々と指示を出す。カイルは列の最後尾へ戻っていった。半歩どころではない、三歩ぶんの空白を引き連れて。
ニアだけが、その背中を見ていた。
散らばった薬包を拾い集めながら、ニアは小さく言った。「……掴もうとして、くれたのに」
俺も同じことを考えていた。あいつは最初、素手でニアの腕を掴もうとして、寸前で止めた。腕を掴んでいたら、崩れたのは縄じゃなかったかもしれない。それを、あの一瞬で判断して、縄を選んだ。壊す力の持ち主が、一番壊したくないものを避けた。
あれは、制御がないやつの動きじゃない。制御が利かないと、思い込んでるやつの動きだ。
休憩のとき、ニアが列の最後尾へ歩いていくのが見えた。カイルが後ずさったとき、岩角で肘を擦りむいていたのを、あの子は見逃していなかったらしい。差し出された軟膏の包みを、カイルは受け取らなかった。「いらねえ。近づくなって」——聞こえてきたのはそれだけだ。ニアは言い返さず、包みを彼の荷の上にそっと置いて、戻ってきた。
「……怒ってないのか」
「怒る場所が、違います」ニアは薬袋を締め直しながら言った。「あの人、自分の擦り傷は、手当てしたことがないんだと思います。手袋の下、古い傷だらけでした」
自分にだけは、触れていい。そういう理屈で生きてきた手だ。
鉱脈の検分は、昼まで続いた。
そして昼過ぎ、岩が動いた。
最初に気づいたのはユノだった。「下です! 岩の中、揺れて——」言い終わる前に、検分していた岩壁の一角が盛り上がり、割れ、中から灰白色の塊が起き上がった。
鉱物型の魔物。岩と見分けがつかない外殻をまとい、地形そのものに擬態して眠る種だ。俺たちは半日、こいつの背中の上で作業していたことになる。
大きさは牛ほど。動きは鈍い。だが四つ星の魔法が着弾しても、外殻には煤の跡しか残らなかった。俺も継ぎ目を探して熱を走らせる——駄目だ。継ぎ目自体が見当たらない。殻が一枚岩すぎる。霞狼の靄とは別の意味で、手がかりがない。
「退がれ! 討伐対象外だ、道を空けて通す!」
監督官の声に、四つ星の一人が食い下がった。「討伐すれば実習の成果に——」
「殻を割る手段もなしにか。鉱物型は殻を抜けん限り、こちらが消耗して終わるだけだ。寝床を移りたがってるだけの個体を、わざわざ起こしきる馬鹿がどこにいる」
隊列が割れる。魔物は暴れたいわけではないらしく、眠りを破られた鈍い苛立ちのまま、体を引きずって岩場の奥へ向かう。その進路の先に——最後尾のカイルがいた。
三歩の空白の中に、一人で。
カイルは逃げ遅れた。灰白の巨体が迫り、彼は尻餅をつき、とっさに突き出した右手が——手袋ごと、外殻に触れた。
乾いた音がした。
枯れ枝を踏んだような、小さな音。魔物の外殻、掌が触れたその一点に、蜘蛛の巣のような細い罅が走っていた。魔物がびくりと震え、触れられた側面を岩壁に擦りつけるようにして、慌てて奥の暗がりへ消えていく。
熱で読んでいた俺には、はっきり分かった。罅の周りだけ、熱の通り方が変わっていた。さっきまで一枚岩だった殻に、熱の染みる隙間が生まれていた。四つ星の魔法が煤しか残せなかった殻に、だ。
列のどこかで、押し殺した声がした。「……ほらな。あいつがいると、設備どころか実習まで壊れる」
カイルにも、聞こえていたはずだ。彼は座り込んだまま自分の右手を見ていた。またやった、という顔で。手袋の指先が、小さく震えている。
違う。俺は歩き出していた。
「カイル」
呼ぶと、肩が跳ねた。近づくな、と言いかけた口が開く前に、俺は罅の走った方向を指さした。
「見たか、今の。四つ星の魔法でも煤しか付かなかった殻だ。それに、カイルの手は、罅を入れた」
「……だから何だよ。壊しただけだろ」
「そうだ。壊しただけだ」
俺はカイルの前にしゃがんで、目の高さを合わせた。
「昨日、俺の熱は魔物に届かなかった。膜に弾かれて、継ぎ目を見つけても通らなかった。今日のあの殻もそうだ。俺たちの誰も、あの一枚岩に手も足も出なかった。——でも、罅があれば話が変わる。罅は熱の通り道になる。リシアの膜を差し込む取っ掛かりになる。ユノなら罅の奥まで読める。俺たちに一番足りてないのは、火力でも守りでもない。『最初のひと崩し』だ」
カイルは黙っている。手袋の指先の震えは、止まっていた。
「的柱も、縄も、壊しちゃいけない物だった。だから責められた。それだけの話だ。壊し方が悪いんじゃない。壊す場所が悪かった」
「壊すしかできないなら、壊していい場所を探せばいい」




