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42話

第42話 魔力抵抗


 中層に入って二日目。俺たちは実習の後方で、割り当てられた仕事を淡々とこなしていた。

 上位班が魔物を狩り、鉱脈を検分する。俺たちは荷を運び、リオネルが記録を取り、ニアがすり傷を手当てし、ユノと俺が周囲の気配を拾う。地味だが、悪くなかった。補助枠の評価は討伐の成果ではなく、記録の精度、異常報告、班員の保護、それに生還で決まる。つまり、俺たちの得意分野だ。

 俺は歩きながら、ずっと熱読みの練習を続けていた。この油のような魔力密度の中で、少しでも遠くを読むための調整だ。一点に絞れば、昨日より半歩ぶんは先が読める。逆に広く構えると、すぐに靄がかかる。絞って、当てて、また絞る。ユノも同じことをしているのが、隣の横顔で分かった。目を薄く開けたまま、一点ずつ、通路の奥を刻むように読んでいる。

 「慣れてきたか」と聞くと、ユノは少し考えてから「怖さの置き場所が、決まってきました」と答えた。いい答えだと思った。

 異変は、昼を過ぎた頃に来た。

「レンさん」

 ユノの声が硬い。「後ろです。三つ……いえ、四つ。回り込んでます」

 俺も熱で拾っていた。昨日から俺たちと並走していた、あの数を数える群れだ。距離を保つだけだった熱源が、今は明確に、俺たち後方組の背後へ弧を描いている。

 理由は考えるまでもなかった。あいつらは二日かけて、この隊列を測り終えたのだ。先頭の五つ星は避ける。四つ星の班も避ける。なら残るのは——一番安く狩れる、俺たちだ。

「監督官!」

 俺が声を上げたのと、通路の頭上の裂け目から灰色の影が落ちてきたのは、ほとんど同時だった。

 狼だった。ただし、低層で見るどの獣とも違う。体格は大型犬の倍。そして全身の毛並みの上に、薄い灰の靄をまとっている。靄は呼吸のように揺らめいて、輪郭を淡く滲ませていた。

「《霞狼》だ! 散開するな、固まれ!」

 監督官が剣を抜きながら怒鳴った。「あの靄は魔力の膜だ! 生半可な攻撃は通らん!」

 座学で読んだ知識が、遅れて追いついてくる。高位の魔物は体表に濃い魔力を纏い、外からの干渉を弾く。魔力抵抗。文字の上では知っていた。B級以上には基本通用しない、と教本にも書いてあった。

 書いてあった、だけだ。

 一頭目がボルクに跳んだ。ボルクは硬直で受ける。体ごと硬化した左腕に牙が当たり、鈍い音を立てて滑った。通る。物理はまだ通る。だが狼は深追いせず、一撃で離れた。硬い場所を噛み続けない。学習が速い。

 二頭目と三頭目が、左右に分かれた。足元の暗がりの段差から、四頭目が音もなく上がってくる。上下と左右。この折り重なった通路を、あいつらは俺たちより知り尽くしている。

「フィン、右の通路を塞げ! ボルク、左! リシアは上!」

「はいよっ!」

 フィンの糸が右の狭路に張り巡らされる。切り裂かれる前提の、時間稼ぎの網だ。ボルクが左に立ち、リシアが頭上の裂け目に向けて薄膜を斜めに展開した。

 真正面、最初の一頭が地を蹴った。

 リシアが膜を差し込む。牙の軌道に対して斜め——力を受けず、逸らす角度。ランキング戦で掴んだ、あの角度だ。狼の突進が横に流れ、岩壁に爪を立てて止まる。

 通った。そう思った次の瞬間、狼は止まった姿勢のまま、前脚だけで岩を蹴り直した。二撃目。今度は牙ではなく、靄をまとった肩からの体当たり。膜面で灰の靄が弾け、薄膜が音を立てて割れた。

「……っ」

 リシアが後ろへ跳んで距離を取る。割られた、のではない。膜そのものが、あの靄に食い破られた。魔力の膜同士がぶつかって、濃いほうが勝った。それだけの話だった。

「ユノ! 弱いところは!」

「あります!」即答だった。震えてはいても、読みは止めていない。「喉の下! 靄が薄い……膜の継ぎ目です! 呼吸で揺れてます!」

 見えた。ユノの言うとおり、狼の喉元で靄が呼吸のたびに薄くなる。継ぎ目。低層なら、そこで終わりだ。継ぎ目に熱を通し、内側の柔い場所を焼く。火喰い蜥蜴にも、それで届いた。

 俺は指先を向け、喉元の一点に熱を集めた。

 弾かれた。

 手応えの言葉が、他に見つからない。熱は確かに飛んだ。継ぎ目にも当たった。だが、届かなかった。狼の体表に触れた瞬間、俺の干渉は靄の上を滑って、霧散した。油を張った水面に、指で波を立てようとしたようなものだった。

 もう一度。今度は出力を上げる。額に汗が浮く。結果は同じだ。靄がわずかに揺らいだだけで、その下の毛皮一本、温まらない。

 なら、本体は捨てる。

 俺は狙いを狼の足元へ落とした。床の岩だ。岩に魔力の膜はない。踏み込みの一点、前脚が沈む場所へ、ありったけの熱を叩き込む。

 岩肌が赤く色づいた瞬間、狼は跳びかけた姿勢のまま横へ跳ね、熱した一点を正確に避けた。避けられた——が、跳ぶ線は崩れた。そこへ監督官の剣が入る。刃は靄に浅く滑ったが、狼は嫌がって距離を取った。

「いい判断だ、小僧! 本体が駄目なら足場を焼け! だが——」

 監督官は剣を構え直しながら吐き捨てた。

「見ろ、二度目はもう避け方が違う。こいつら、一度見た手は食わん!」

 その通りだった。二頭目の足元を焼いたときには、狼はもう熱した岩を踏む前に別の段へ跳び移っていた。頭上の裂け目と足元の段差、この折り重なった地形が、そのままあいつらの逃げ道になっている。環境を焼く手は、時間しか稼げない。稼いだ時間で決定打を入れる火力が、俺たちの側にない。

 右の狭路では、フィンの糸が二度目の網を張り直していた。一度目の網は、狼が体の靄で焼き切るように破っていった。「ちょっ、糸まで通んないの!?」と喚きながら、フィンは張る高さを変え、足首の高さだけに絞る。転ばせるだけの網。それでいい。三頭目がつまずき、体勢を崩したところをボルクが肩から押し潰しにいく。硬直の肩が入り、狼は初めて短い悲鳴を上げた。物理は、通る。通るが、仕留めるところまで届かない。狼はすぐに転がって逃れ、暗がりへ引いた。

 膠着。いや、じり貧だ。あいつらは俺たちの手札を一枚ずつ確かめて、切れない札から順に捨てさせている。

 狼がこちらを向いた。

 俺を、初めて「勘定に入れた」目だった。

 跳ぶ——その脚が沈んだ瞬間、狼の動きが、消えた。

 止まった、というのも違う。跳躍の姿勢のまま、糸が切れたように地に落ちた。遅れて、白い薄氷が毛並みの上の靄を這っていくのが見えた。

 通路の奥から、セイルが歩いてくる。剣はもう鞘に戻っていた。いつ抜いて、いつ振ったのか、俺には見えていない。熱でも読めなかった。冷えた、という感覚すらない。ただ、動きだけが先に死んでいた。

 残りの三頭は、一斉に退いた。数を数えるやつらだ。この男が来た時点で、勘定が合わなくなったのだろう。

 セイルは倒れた狼を一瞥し、それから俺を見た。

「弱点は見えていたな」

「……ああ。見えてた」

「弱点を見つけるだけでは、足りない」

 責める調子ではなかった。事実を、事実のまま置く声だった。

「見つけた場所に、届かせる力が要る。ここから先は、その両方だ」

 セイルは前を向き、来た道を戻っていく。監督官が「怪我人は」と声を上げ、ニアが駆け回り、フィンが切られた糸を回収し始めた。誰も深手は負っていない。結果だけ見れば、しのいだ。

 リオネルだけが、もう帳面を開いていた。

「靄の厚さ、継ぎ目の位置、避け方の変化。全部書く。レン、足場を焼いたときの反応、あとで詳しく聞かせてくれ。二度目に避けた間合いが知りたい」

「……ああ。全部話す」

 失敗の記録ほど値の張るものはない。イザーク先生の餞別が、こんなに早く効いてくるとは思わなかった。

 リシアが、割れた薄膜の名残を払うように手を握って開いた。俺と目が合う。何も言わなかった。言わなくても分かる。お前の膜も、俺の熱も、今日は同じ場所で断られた。角度で逸らすところまでは通じた。その先が、ない。

 俺は、自分の指先を見た。

 見えていた。読めていた。ユノの読みは正しく、継ぎ目は確かにあった。情報は全部揃っていて、それでも、届かなかった。

 生まれて初めての感覚だった。俺の熱が、世界に断られた。

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