41話
第41話 中層への門
星位ランキング戦が終わって、十日が過ぎた。
掲示板に載った「中層実習補助枠」の意味を、俺たちはこの十日で嫌というほど教え込まれた。中層実習というのは、上位の班が学年の締めくくりに行う正規の実習だ。ダンジョンの中層に入り、魔物の討伐と資源の調査をこなして戻る。補助枠はその後ろに付く。荷を運び、記録を取り、応急の手当てをし、索敵を手伝う。要するに、戦う枠ではない。支える枠だ。
本来なら二つ星か三つ星が回される役目に、外棟の名前が並んだ。特例だという。誰の差配かは、書面のどこにも書いていなかった。
この十日、外棟を見る目は少しだけ変わった。廊下ですれ違う生徒が、あからさまに道を空けなくなった。それだけだ。称賛でも承認でもない。ただ、いないものとして扱われなくなった。俺たちにとっては、それが十分に大きかった。
「機会だよ。文句を言う筋はない」
出発の朝、リオネルはそう言って帳面を胸に抱えた。記録係として同行が認められたのが、よほど嬉しいらしい。ボルクは荷袋を二つ、当たり前の顔で担いだ。ニアは薬包を数え直し、フィンは指に糸を巻いては解いている。落ち着かない時の癖だ。
リシアは黙って装具の帯を締めていた。
「緊張してるか」
「していません。……多少は」
正直なやつだ。俺も同じだった。低層には何度も潜った。だが中層は、話でしか知らない。
寮の門まで、イザーク先生だけが見送りに出た。外棟の観察担当を押しつけられている、あの偏屈な講師だ。先生は俺たちを順に眺め、ふん、と鼻を鳴らした。
「中層はいい。低層で通じた理屈が、片っ端から通じなくなる。……羨ましいことだ。通じない、というのは最上の観察材料だぞ。全部持ち帰れ。失敗の記録ほど値の張るものはない」
「餞別がそれですか」
「それ以上の餞別があるか」
真顔だった。この人はこれで励ましているつもりなのだから、性質が悪い。だが不思議と、肩の強張りは少し抜けた。
そして今回は、ランキング戦とは決定的に違うことが一つある。
護り石がない。
あれは学院の闘技場の中でだけ機能する仕組みだ。砕けたら退場、怪我はなし——そんな保険は、ダンジョンには存在しない。斬られれば血が出る。潰されれば骨が折れる。低層でそれは分かっていたつもりだったが、行き先が中層となると、同じ言葉の重さが変わった。
ダンジョンの入り口には、ギルドの詰め所がある。
ダンジョンの管理は学院ではなく、冒険者ギルドの仕事だ。誰がいつ入り、どの区域で何をするか。全部ここで検められる。詰め所の前で待っていたのは、革鎧の上から外套を羽織った、白髪交じりの男だった。
「ギルドから監督に付く。名はどうでもいい。監督官と呼べ」
男は名簿を一瞥し、俺たちの顔を順に見た。値踏みでも侮りでもない。数を数える目だった。
「補助枠の仕事は三つ。上位班の実習の後方に付くこと。記録と手当てと索敵の補助。そして、指示があれば即座に退くこと。手柄はいらん。生きて戻るのが、お前たちの合格線だ」
返事を待たず、男は名簿を畳んだ。
「区域の割り当ては学院側で決定済みだ。変更はない」
決定済み。その言葉を、俺は聞き流した。そういうものだろうと思ったからだ。
監督官の後ろに、同行する上位生たちが並んでいた。四つ星の班がふたつ。装備の質が、遠目にも俺たちとは違う。
その先頭に、ひとり、空気の違う男が立っていた。
五つ星。学院にただ一人の最上位。北方の騎士の家から来たという、氷の顕現名を持つ男——セイル・ノルディアだ。名前だけは、外棟にも届いていた。ランキング戦の間も、この男の班だけは別格として扱われ、俺たちの試合とは最後まで交わらなかった。
セイルはこちらを見た。笑いも、蔑みもしなかった。ただ一度、静かに頷いた。それだけで前を向く。
「……なんか、寒くなかった? 今」
フィンが小声で言った。気のせいじゃない。あの男の周りだけ、熱の流れが淀みなく整っている。乱れがない。人の体温というのは、もっと揺れるものなのに。あれは、何だ。
「行くぞ。遅れるな」
監督官が門をくぐった。
低層への道は、途中までは同じだ。
岩肌の通路を下り、見慣れた分かれ道を過ぎる。そこから先に、鉄の柵で仕切られた降り口があった。低層に潜った時、何度も横目に見た柵だ。開いているのを見るのは初めてだった。
柵の先は、長い下りの階段になっていた。壁に等間隔で灯が埋め込まれているが、光が届く範囲が妙に狭い。闇が濃いのではない。空気そのものが、光を呑んでいる。
一段、降りた瞬間に分かった。
空気が重い。
いや、重いというのは正確じゃない。粘る、が近い。熱が動かないのだ。低層では、壁の冷たさと通路を抜ける風で、熱は絶えず流れていた。ここは違う。魔力の密度が濃すぎて、熱の流れがそこかしこで堰き止められている。俺の感覚で言えば、澄んだ水の中から、油の中へ入ったようなものだった。
読める距離が、目に見えて縮んでいた。低層なら通路二本先の熱源まで拾えた。ここでは、その半分も届かない。道具を一つ、取り上げられた気分だった。
「明かりを絞れ。中層の魔物は光を覚える」
監督官の声が低くなる。
「覚える、って」
「一度見た光の色と数を覚えて、群れに伝える。低層の獣とは違う。あれらは、考える」
フィンが糸を巻く指を止めた。ニアが薬包の袋を握り直す。
通路も違った。低層は一本道が枝を分ける程度だったが、ここは道そのものが上下に折り重なっている。頭上の岩の裂け目が別の通路に繋がり、足元の暗がりの奥にも段が見える。どこから来られてもおかしくない、ということだ。ボルクが無言で列の外側に位置を変えた。守る場所を先に決めたのだ。リシアがそれを見て、反対側の外へ寄る。誰も指示していない。ランキング戦で身についた並びだった。
先頭では、上位班が実習を始めていた。壁面の鉱脈を検分し、採取した石を布に包んで番号を振る。リオネルが後方からそれを帳面に写し取っていく。手元は速い。こういう仕事のために生まれてきたような男だ。
俺は歩きながら、熱を読み続けた。
遠くに、小さな熱源がいくつかある。動きが妙だった。低層の魔物は、獲物を見つければ真っ直ぐ来る。こいつらは来ない。一定の距離を保って、俺たちと並んで動いている。近づきもせず、離れもせず。
——数えられてる。こっちの数を。
監督官が言った「考える」の意味が、早くも腹に落ちた。背中のあたりが、ゆっくり冷えていく。
その並走が、不意に途切れた。
先頭のセイルが、通路の分岐で足を止め、暗がりの方へ顔を向けただけだ。剣にも触れていない。なのに、並んで動いていた熱源が一斉に散った。逃げたのではない。距離を取り直したのだ。あの男が「見た」方向からだけ、正確に。
あいつら、強さの順番まで分かってる。
真っ先に測られたのが五つ星で、次が四つ星の班。俺たち補助枠は、たぶんまだ勘定のうちにも入っていない。それが安全なのか、それとも一番危ういのか、まだ判断がつかなかった。
列の真ん中で、ユノの足が遅れ始めた。
顔色が白い。両手で自分の肘を抱え、それでも目は閉じていなかった。閉じないのが、この子の意地だ。ユノの感知は広くは探れない。そのかわり、一点の揺れをどこまでも深く読む。この密度の中でそれをやるのが、どれだけの負担か。俺の熱読みでさえ、油の中を手探りしているようなものなのだ。
「ユノ、無理なら——」
「違うんです」
遮られた。震える声のまま、ユノは首を振った。
「怖いのは、怖いです。でも、それじゃなくて。……揺れ方が、低層と違う。濃いだけじゃ、ない」
ユノは通路の先の暗がりを指した。指先は震えている。それでも、指す方向は揺れなかった。
「ここから先、魔力の圧が違います」




