38話
第38話 薄膜の角度
三連戦の熱が引いたあとも、リシアは、一人で訓練場に残っていた。
日が傾いて、広い訓練場には、俺たち二人のほかに誰もいない。試合の喧騒も、客席のざわめきも、もうどこにもなかった。ただ、リシアが膜を張る、かすかな音だけが、静かに響いている。
俺は、少し離れたところから、それを見ていた。声をかけるのは、ためらわれた。リシアの横顔が、何かにひどく集中していたからだ。
リシアは、膜を張っていた。
薄膜。リシアの力だ。だが、いつもと様子が違った。
一枚張っては、自分で拳を当てて確かめる。割れる。もう一枚、今度はさっきより力を込めて、厚く張る。また拳を当てる。割れる。
何度も、何度も、繰り返していた。額に、うっすらと汗がにじんでいる。息も、少し上がっていた。
厚く。もっと厚く。もっと硬く。
見ているだけで、その膜にどれだけの願いが込められているか、伝わってきた。強くなりたい。負けたくない。もう、誰にも失敗作だと言わせたくない。その一心が、リシアに膜を厚くさせていた。
リシアは、自分の膜を、壁にしようとしていた。エリオの《鉄壁》のような、正面から来るものを真正面から受け止めて、砕けない壁に。
見ていて、俺には分かってしまった。
それは、たぶん、届かない努力だった。
リシアの膜は、厚くするための力じゃない。いくら力を込めても、鉄壁のようにはならない。エリオの言うとおり、正面から受け続ければ、いつか割れる。それは、力の入れ方の問題じゃない。そもそも、向いている方向が違うのだ。
だが、俺は口を出さなかった。
これは、リシアが自分で向き合っている問題だった。俺が横から「そうじゃない」と言うのは、簡単だ。だが、それはリシアの答えにならない。誰かに与えられた答えは、次に迷ったとき、また崩れる。本当に自分のものになるのは、自分で辿り着いた答えだけだ。
だから、待った。リシアが、自分で気づくまで。
歯がゆくは、あった。答えは、もう俺の中にある。それを言えば、リシアは今すぐ楽になれる。だが、それでは駄目なのだ。俺が渡した答えは、俺の答えだ。リシアが次にまた壁の前で迷ったとき、支えになるのは、俺の言葉じゃない。自分で掴んだ、自分の言葉だけだ。
「……また、割れました」
どれくらい、そうしていただろう。リシアが、ぽつりと言った。俺が見ていることには、とっくに気づいていたらしい。
「厚くすれば、防げると思ったんです。もっと力を込めれば、あの人の鉄壁みたいになれると」
声に、疲れがにじんでいた。膝の上で、手が、力なく開かれている。
「でも、なれません。何度やっても。……やっぱり、私の膜は、正しい結界には、なれないんです」
正しい結界。その言葉に、エリオの声が重なった。お前がやっているのは結界術じゃない。薄い膜で、ごまかしているだけだ。正統な結界を、学び直せ。家へ戻れ。
家の声が、まだ、リシアの中で響いている。
リシアは、ずっと、それに応えようとしてきたのだ。名門アルヴェインの娘として、正しい壁を張ろうとして。だが、張れなかった。何をどうやっても、正統な結界には届かなかった。だから、自分を、失敗作だと思ってきた。ずっと、ずっと。
結界貴族の家に生まれて、授かったのが、この薄い膜だった。従兄のエリオのような親族が、正統な壁を張るのを、リシアはずっと隣で見てきたのだろう。同じ家、同じ血。それなのに、自分だけが、正しい結界を張れない。その引け目を、リシアは何年も、一人で抱えてきた。今日の、厚くしようとする努力も、その延長だった。壁になれれば、やっと認めてもらえる。そう思って。
俺は、その隣に、腰を下ろした。
教えるつもりは、なかった。答えを言うのは、簡単だ。だが、それはしない。ただ、一つだけ、聞きたいことがあった。
「エリオと、やったとき」
リシアが、顔を上げる。
「一回だけ、通じただろ。あいつのいちばんの一撃を、逸らしたとき。あれは、厚くして防いだのか?」
リシアは、少し黙った。
それから、ゆっくりと、首を横に振った。
「……いえ。あれは、防いでいません。受けても、いません」
「じゃあ、何をした」
「膜を、斜めに置きました。正面で受けたら、割れるから。だから、受けずに……逸らしたんです」
言いながら、リシアの目が、少しずつ変わっていくのが分かった。
自分の口でその言葉を並べて、初めて気づいた。そういう顔だった。エリオの鉄壁を、たった一度だけ通じさせたのは、厚さじゃなかった。厚くしようとした今の努力とは、まるで逆のことを、あのとき、自分はしていたのだ。
「……そうか」
リシアが、小さく呟いた。
立ち上がって、また膜を張る。だが、今度は厚くしなかった。
薄いまま。ただ、斜めに。
「あなた、何か投げてくれますか。軽いもので、いいです」
俺は、そばにあった小石を一つ、放った。強くはない。試すための、軽い一投だ。
リシアは、その一瞬、目を細めた。エリオの、あの一撃を逸らした指先の感覚を、なぞろうとしているようだった。角度。間合い。あのとき無我夢中でやったことを、今度は、意識して、確かめようとしている。
石が、斜めの膜に触れる。
――滑った。
受け止められることなく、膜の面に沿って、横へ逸れていく。膜は、割れなかった。石をはね返したんじゃない。逃がしたのだ。力を、正面から受けずに、横へ流した。
リシアが、その軌跡を、目で追った。
「……割れない」
もう一度。今度は、俺がもう少し強く投げる。結果は同じだった。斜めの膜が、石の力を、すっと横へ流す。割れない。
「厚さじゃ、なかったんですね」
リシアの声が、震えていた。「私はずっと、間違った方向に力を込めていた。厚くしよう、硬くしようとして、そのたびに割れていた。……でも、角度を変えれば、逃がせる。薄いまま、力を込めなくても」
何度も割った膜を、リシアは、今度は割らずに立てていた。
リシアは、しばらく、その薄い膜を見つめていた。
それから、静かに言った。
「私の力は、壁じゃないんです」
その声は、さっきまでの疲れた声とは、違った。
「正面から受け止める力じゃない。エリオのような、正統な結界には、なれない。ずっと、それができないことが、恥ずかしかった。家の名にも届かない、出来損ないだと思っていました。だから必死で、壁になろうとして……なれなくて」
リシアは、顔を上げた。まっすぐ、俺を見た。
「でも、私の力は、逸らす力なんです。分ける力。受け止める代わりに、流す。正しい壁には、なれない。だけど、それは……間違いじゃ、ないのかもしれません。私はただ、自分の力の正しい使い方を、ずっと知らなかっただけで」
以前、一度だけ、リシアが「この力でよかった」と言ったことがあった。だが、あのときの声には、まだ迷いがあった。無理に、自分へ言い聞かせているような、そんな響きが。
今の声には、それがなかった。
リシアは、正しさを諦めたのだ。家の正統を。エリオの物差しを。正しい壁になろうとする、その努力そのものを。その代わりに、自分の軸を選んだ。壁になれない自分を、逸らせる自分として、初めて、まっすぐ受け入れていた。
それは、負けを認めることと、少し似ていた。正しい結界には、なれない。その事実を、言い訳せずに認める。だが、そこで終わらない。なれないなら、なれないなりの、別の道がある。壁になれないなら、逸らせばいい。受け止められないなら、流せばいい。欠けているものを数えるのをやめて、残っているもので勝負する。それは、諦めのようでいて、いちばん強い、選び取りだった。
諦めたのに、その顔は、負けた顔じゃなかった。むしろ、長く背負っていた重いものを、やっと下ろしたような顔だった。
「ああ」
俺は、それだけ言った。
本当は、もっと前から知っていた。リシアの逸らしが、失敗なんかじゃないことは。あの膜が、どれだけ繊細に、力の向きを読んでいるか。俺には、ずっと見えていた。人が「失敗作」と札を貼ったものの中に、ちゃんとある、本当の形が。
だが、それを俺が言っても、意味がなかった。俺が「お前の力は本物だ」と百回言うより、リシアが自分で一度そう思えるほうが、ずっと強い。だから、言わなかった。
教えるんじゃない。隣で、待つ。それが、俺にできる唯一のことだった。俺とリシアは、そういう並び方をしてきた。どちらかが導くんじゃない。同じものを、それぞれの目で見て、それぞれの言葉で掴む。
リシアが逸らすものを、俺は熱で崩す。見ているものは違う。だが、表に貼られた札を信じない、という一点だけは、たぶん、同じだった。
「お前が、自分で言えて、よかった」
リシアが、少しだけ笑った。負けた日にも見せなかった、静かな笑い方だった。
リシアは、もう一度、膜を張った。
薄く。斜めに。さっきより、ほんの少しだけ角度を調整して。
「まだ、一度きり、まぐれで逸らせる程度です」
石を構える俺に、リシアが言った。その声は、もう疲れていなかった。
「これを、いつでも狙って出せるようにしたい。あの人の鉄壁を、二度でも、三度でも、逸らせるように。まぐれじゃなく、私の技として」
その目は、もう迷っていなかった。正しさを探す目じゃない。自分の力を磨こうとする目だった。
負けは、負けのままだ。エリオには、今も勝てない。だが、リシアはもう、勝てない自分を恥じてはいなかった。負けた場所から、次の一歩を探している。それは、昨日までのリシアにはなかった顔だった。
「もう一度、試します」




