36話
第36話 鉄壁の親族
訓練場に呼び出されたのは、今度はリシアだった。
呼び出した相手を見て、俺はいやな予感がした。
エリオ・アルヴェイン。リシアの従兄だ。結界貴族アルヴェイン家の、正統な跡取り候補。顕現名は《鉄壁》。三つ星の上位で四つ星も見えている。リシアと同じ家に生まれ、リシアとは違って“正しく”評価された男だった。
グレンのときと同じ、星位には響かない私的な手合わせだ。だが、エリオの目的が腕試しでないことは、すぐに分かった。
外棟が勝ち始めたことが、エリオの耳にも入ったのだろう。名門アルヴェインの娘が、落ちこぼれの寄せ集めに混じって、薄膜などで戦っている。家の体面に関わる。たぶん、そういうことだった。
俺は少し離れて見ていることにした。これはリシアの戦いだ。俺が口を挟むことじゃない。
「リシア。いい加減、目を覚ませ」
エリオは静かに言った。怒ってはいない。むしろ諭すような声だった。
「外棟の連中と、勝った負けたと騒いでいるそうだな。だが、お前がやっているのは結界術じゃない。薄い膜を張って、ごまかしているだけだ」
リシアは何も言い返さなかった。ただ、まっすぐエリオを見ている。
「一度、思い知ればいい。正統な結界がどういうものか。お前の膜が、それにどれだけ届かないか。そのうえで、家に戻れ。学び直せば、まだ間に合う」
これがいちばん怖い、と俺は思った。
エリオは、リシアを憎んでいるわけじゃない。むしろ、家族として心配している。正しい道へ戻してやろうとしている。善意で。正しさで。
だからこそ、逃げ場がない。憎しみなら、はねのければいい。だが「お前のためだ」「これが正しい」と言われると、間違っているのは自分のほうだと思わされてしまう。以前も、エリオは同じ顔で、家の名と体面をリシアに突きつけた。あの重さが、今日は実戦の形になって、リシアの前に立っている。
「……分かりました」
リシアが静かに言った。
「受けます。エリオの結界が正しいのか、私の膜が間違っているのか。ここで確かめます」
その声は、震えていなかった。
エリオが腕を構えた。
その前に、透明な壁が立ち上がる。《鉄壁》。正面から来るものをすべて受け止める。物理だろうと魔力だろうと砕けない。正統な結界術の極みだ。
対してリシアの薄膜は、薄い。文字どおり紙一枚のような膜だった。まともにぶつければ、鉄壁の前にあっけなく割れる。誰の目にも、勝敗は明らかに見えた。
「行くぞ」
エリオが動いた。鉄壁を押し出すように、リシアへ迫る。
リシアが膜を張って受けた。
――割れた。
一枚。二枚。エリオの圧の前に、リシアの膜は次々と破られていく。押される。後ろへ下がる。
鉄壁は、ただ硬いだけじゃなかった。押し出すたびに、リシアの逃げ場を一つずつ潰していく。正面から来て、確実に間合いを詰める。無駄がない。正統な結界術というのは、こういうものかと思った。力任せではない。積み上げられた、隙のない技術だった。
「見たか。これが差だ」
エリオの声に、揺らぎはない。「お前の力は、防御にすらならない。正統な結界の前では、ただの薄紙だ。悪いことは言わない。戻ってこい」
不思議なことに、その声には、勝ち誇った響きがなかった。ただ事実を告げているだけ、という口調だった。お前は間違っている、だから正しい場所へ戻れ、それがお前のためだ。
その落ち着きが、いちばん応える。罵られるより、ずっと。
見ているだけの俺の手も、いつのまにか握りしめていた。
助けに入りたい。だが、これはリシアが自分で受けると決めた戦いだ。俺が横から手を出せば、エリオの言う「ごまかし」を、こちらから証明することになる。リシアが一人で立っていることに、意味がある。
だから、俺は動かなかった。動けなかった、と言うほうが正しいかもしれない。
リシアの護り石が、削れていく。まともに受け続ければ、じきに割れる。
だが、リシアは折れなかった。
破られても、また膜を張る。下がりながら、エリオの動きをじっと見ている。
俺には分かった。リシアは、正面から勝とうとしていない。勝てないことは、リシア自身がいちばん分かっている。
何かを探しているのだ。エリオの鉄壁の、正面以外のどこかを。
この間、机の上で、リシアは自分の力を「分ける膜」と呼び直した。防ぐんじゃない。分ける。逸らす。あのとき隣で聞いた言葉が、今、目の前で形になろうとしていた。
だが、相手が悪い。エリオの鉄壁は、正面がいちばん強い。正面から来る力を横へ逃がすには、紙一重の角度と間合いが要る。一度でも読み違えれば、そのまま潰される。
リシアの息が、細く、長くなった。
たった一度の機会を待っている。エリオの、いちばん大きな一撃を。正面から来る、その力がいちばん強くなる瞬間を、逆に狙っている。
賭けだった。読み違えれば、そのまま潰される。それでもリシアは、待っていた。
エリオが決めにきた。
鉄壁を、まっすぐリシアへ叩きつける。まともに受ければ、護り石が割れる一撃。
だが、リシアは正面で受けなかった。
ぶつかる寸前、鉄壁の力が向かう先へ、薄い膜をほんのわずかに傾けた。斜めに、置いた。
エリオの鉄壁が、その斜めの膜に触れ――滑った。
正面から来た力が、受け止められることなく、膜の面に沿って横へ流れていく。リシアの体を捉えないまま、逸れた。
エリオの、渾身の一撃が、空を切った。
エリオの動きが、止まった。
確実に捉えたはずだった。それが逸れた。防がれたんじゃない。受け止められたんじゃない。ただ、横へ流された。
だが、それも一瞬だった。
「……小賢しい」
低く吐き捨てて、エリオはすぐに次の鉄壁を繰り出した。
逸らしたリシアの体勢は、大きく崩れていた。一度きりの綱渡りだったのだ。二度目を置く余裕はなかった。
鉄壁が正面からリシアを捉える。
護り石が、鈍い音を立てて――砕けた。
リシアの、負けだった。
勝ったのはエリオだ。誰の目にも、それは明らかだった。
それなのに、エリオは勝者の顔をしていなかった。
崩れたリシアを見下ろしたまま、しばらく動かない。
さっきの、逸れた一撃。あれが頭から離れないようだった。正統な結界術の中に、あんな受け方はない。防ぐのでも躱すのでもない、別の何か。
「……今の膜」
エリオが口を開いた。
「防いだのではなく、逸らしたのか」
リシアは、膝をついたまま顔を上げた。
「はい」
短く、はっきりと答えた。「正面から受けても、私では割れます。だから受けません。逸らします」
エリオの目が、一瞬、揺れた。ほんの一滴だけ。
だが、それだけだった。
「……邪道だ」
エリオは、目を逸らすようにそう言った。「そんなものは結界術じゃない。まぐれで一度、滑らせただけだ。勝ったのは、私だ」
言い聞かせるような口ぶりだった。リシアにではなく、自分に。
たぶん、エリオは気づいている。さっきの逸らしが、まぐれなんかじゃないことに。自分の物差しでは測れない、別の何かだったことに。
だが、認めるわけにはいかないのだ。認めれば、信じてきた「正しさ」に、ひびが入る。だから「邪道」という言葉で、蓋をした。
そして、それ以上は何も言わず、背を向けて去っていった。誇りの高い、まっすぐな背中だった。その背中は、最後まで一度も振り返らなかった。
俺は、リシアのそばへ行った。
「立てるか、お前」
「ええ」
負けたばかりだ。護り石も割れた。それなのに、リシアの顔は、思ったより暗くなかった。
「割れました。やっぱり、正面では勝てません」
「ああ」
「でも」
リシアは、自分の手のひらをじっと見ていた。逸らした、あの一瞬を確かめるように。
「一度だけ、通じました。私の膜でも、あの人の鉄壁を逸らせた」
「まぐれかもしれない、って顔じゃないな」
「はい」
リシアは、少しだけ笑った。「一度でも通じたなら、二度目もあるはずです。次は、もっとうまく」
負けて掴んだものが、確かにあった。それが何なのか、リシアはまだ言葉にしきれていない。だが、その入口に、今日、指がかかった。
エリオの正しさは、揺らがなかった。あいつはたぶん、最後までリシアを認めない。
それでも、あの誇りの高い男が、一瞬だけ立ち止まった。「逸らしたのか」と、問わずにいられなかった。
それだけで、今日は、負けじゃなかったのかもしれない。




