第34話
第34話 ニアの処置
傷は一つもない。それなのに、ボルクの顔色はひどく悪かった。
勝った直後の熱は、思ったより早く引いていた。控えの一角に戻ったころには、あれだけ揺れていた会場のざわめきも、遠い波の音のように薄れている。護り石が衝撃を肩代わりしてくれたから、俺たちの誰にも傷はない。勝ったのだ。それなのに、控え場に満ちているのは、勝利の高揚より、むしろ深い疲れのほうだった。
少し離れて、フィンが糸を巻き直している。ユノは壁にもたれ、目を閉じていた。読み続けた反動か、いつもより、さらに小さく見える。誰も、多くはしゃべらない。勝ったのに、勝ったと口にする者はいなかった。それだけ、全員が力を出し切っていた。
リシアが、俺の隣で静かに息を整えていた。膜を張り続けた腕が、まだ、かすかに震えている。
「……勝ちましたね」
リシアが、小さく言った。
「ああ。お前も、無理してただろ」
「少しだけ」
それ以上の言葉は、今は要らなかった。
その中でも、ボルクだけが、明らかに様子がおかしかった。
壁際に、大きな体を預けるように座り込んでいる。肩が、一定の間隔で大きく上下していた。荒い息が、いつまでも収まらない。
無理もなかった。あの前衛の圧を、たった一人でまとめて受け続けたのだ。傷にならないだけで、受け止めた衝撃は、体の内側にそっくり残っている。表からは、どこも壊れていないように見えるのに。
「……大丈夫だ」
そう言うボルクの声には、いつもの重みがなかった。
そこへ、ニアが来た。
「動かないで。少しだけ、じっとしてて」
ボルクの前に膝をつく。それから目を閉じて、ボルクの体に、そっと手をかざした。
ニアの《小癒》は、傷を塞ぐ力じゃない。
呼吸。体温。体の中を巡る力の流れ。ニアが整えるのは、そういう、目には見えないものだ。折れた骨をつないだり、切れた肌をふさいだりは、できない。その代わり、乱れてしまったものを、もう一度動けるところまで戻してやれる。
「息が、浅くなってる。あと……ここ。熱が、こもってるね」
ニアの手が、ボルクの胸のあたりでゆっくり止まった。目に見える傷を探しているんじゃない。体の中の、どこがどう乱れているのかを、手のひらで読んでいる。中を、見ているのだ。
ボルクの荒かった息が、少しずつ、深く、静かになっていく。強張っていた肩から、力が抜けていった。
ニアの額に、うっすらと汗がにじんでいた。乱れた流れを一つずつ辿って戻すのは、傷を塞ぐより、ずっと根気のいる仕事らしい。それでも、その手つきは最後まで丁寧だった。急がない。雑にしない。目の前の一人を、隅々まで看る。
「……ああ。楽に、なった」
ボルクが、ぽつりと言った。それから、少し照れくさそうに続けた。
「今日は、お前にずっと支えられてたんだな。俺が受けてる、後ろで」
「当たり前でしょ」
ニアは、手を止めずにそう答えた。
「あなたが倒れなかったから、みんなが動けた。私は、あなたが倒れないようにしただけ」
ボルクは、それきり何も言わなかった。ただ、その顔から、いつも張りついていた引け目の色が、少しだけ抜けていた。
その一部始終を、俺は黙って見ていた。
見えないものを、見て、整える。
――どこかで、見たことのある手つきだった。
故郷で、母が、魔核を扱うときの手つきだ。
魔物から採れる魔核は、表に貼られた等級の札で値が決まる。だが母は、その札だけで魔核を見ることは決してなかった。必ず手に取って、中の熱がどんなふうに動くのかを確かめる。同じ等級でも、熱の巡り方が違えば、扱い方も値打ちも変わってくる。
「札に書いてある等級より、中でどう動いてるか。見るのは、そっちだよ」
母は、よくそう言っていた。
店先で、俺が拾ってきた魔核を、母はいつも、しばらく手のひらで包んでいた。目で見るより、そうしているほうがよく分かるのだと。子どものころは、その意味がまるで分からなかった。今は、少しだけ、分かる気がする。
あのころは、ただの地味な手仕事にしか見えていなかった。だが今なら分かる。あれは、他の誰にも見えないものを、母がたった一人で見ていた時間だったのだ。
ニアがボルクの中を読む手つきは、あの母の手つきに、驚くほど似ていた。表に出ているものではなく、内側で動いているものを見る。
俺の目も、たぶん同じ側にある。人が「火」と呼ぶものの奥で、本当に動いている熱を、俺は見る。ニアは、人の体の内側の流れを見る。母は、魔核の中の熱を見ていた。
見ているものは、それぞれ違う。だが、表の札を鵜呑みにしない、という一点だけは、同じだった。
ふと、視線を感じた。
少し離れた場所に、一人の女子生徒が立っていた。
見覚えは、なかった。だが、まとっている空気が、外棟の連中とはまるで違う。清潔で、隙がなくて、どこか手の届かないところにいるようだった。
「……五つ星の、聖女候補だ」
隣に来ていたフィンが、小声で言った。神殿から推薦された、広い範囲をいちどきに癒す、正統派の最高位。名前は、エレノア・セラフィス。
その最高位が、なぜかこちらを――正確には、ニアの手元だけを、じっと見つめていた。
敵意は、なかった。侮りも、ない。ダリオのような、見下す目とはまるで違う。ただ、じっと見ている。目の前で起きていることの意味を、必死に掴もうとしているような目だった。
エレノアの顔に浮かんでいたのは、戸惑いだった。
たぶん、こういうことだと思う。
エレノアの癒しは、広い。戦線の全体をまとめて回復させ、倒れた者を大勢いちどきに立て直す。それが、正統の、最高の癒しの形だ。
だが、ニアがやったのは、その正反対だった。
たった一人。ボルク一人の、体の中の、乱れた流れだけを、一つずつ読んで整える。広くはない。大勢は救えない。その代わりに、たった一人の内側を、たぶん誰よりも深く見ている。
広く癒すことを極めてきたエレノアには、それがうまく飲み込めないようだった。傷もないのに、いったい何を見つけて、何を癒したのか。きっと、物差しの外にあるやり方だったのだろう。
ニアも、エレノアの視線に気づいていた。
一瞬だけ、その手が止まる。
「……あの人は、大勢を、いっぺんに治せるんだよね」
ニアが、小さく言った。声に、影が差していた。
「私には、できないこと。ずっと、それが……」
言いかけて、やめる。広く治せない。それはたぶん、長いあいだニアが抱えてきた引け目だった。広く救える力に、ずっと憧れていたのかもしれない。自分にはない、その大きな力に。エレノアは、ニアが持てなかったものを、全部持っている。目の前に、その「できないこと」を極めた最高位が立っているのだ。こたえないはずが、なかった。
それでも、ニアはまた、ボルクへ向き直った。
「でも。今、目の前で倒れそうなのは、ボルク一人だから」
その手が、また動き出す。
「だったら私は、この一人を、ちゃんと看る。それだけ」
今度は、その声に、迷いはなかった。
見下されることには、慣れていた。だが、こんなふうに、五つ星の最高位から、まっすぐに関心を向けられるのは、初めてだった。
何かが、いつもと違っていた。
エレノアが、ゆっくりと、こちらへ歩いてきた。
足音まで、静かな人だった。
ニアが、手を止めて顔を上げる。二人の視線が、合った。
広く救う者と、深く看る者。正統の最高位と、外棟の落ちこぼれ。正反対の場所に立つ二人が、初めて、まっすぐ向き合った。
そして、エレノアが、少し困ったように、けれど確かに真剣な目で、口を開いた。
「今の処置……傷ではなく、何を見ていたのですか?」




