第32話
第32話 糸の伝令
「フィン。糸は、どこまで細くできる」
負けた日の夜だった。俺が最初に聞いたのは、それだった。
フィンは昼間に糸を取り落としたときのままの、へらりとした顔をしていた。だが目だけは、少し真面目になった。
「髪より細くまで、いけるよ。触られても気づかれないくらいには。何に使うんだ、それ」
今日の負けの、いちばん大きな一行はもう分かっていた。伝達だ。
ユノは正しく読む。相手の薄いところも消耗も、全部見えている。だがその声は戦いの音に飲まれて、誰にも届かない。見えているのに、渡せない。
なら、声を使わなければいい。
「ユノの指先と、俺と、リシアを、糸で繋ぐ」
言いながら、頭の中で形になっていった。
「ユノはしゃべらなくていい。読んだら指を動かす。その動きを糸が俺たちに伝える。音に飲まれない伝え方だ」
フィンが糸を一本、指先に巻いた。
「糸の張りで伝えるってことか。引かれた向きと、強さで」
「できるか」
「できるよ」
即答だった。いつものふざけた声じゃなかった。
「人と人を糸で繋ぐのは、俺の得意分野だ。前にリシアの膜と糸を繋いだこともある。ユノの指くらい、どうってことない」
こいつがこんなに迷いなく「できる」と言うのを、初めて聞いた気がした。ふざけて誤魔化してばかりのフィンが、糸の話になると目の色を変える。
リオネルが帳面を広げた。
「ユノの読みが届かなかった場面、全部書いてあります。どの読みが、どこで消えたか」
負けは設計図になる。イザークの言葉は本当だった。消えた声の記録が、そのまま次の設計図になっていた。
準備には時間をかけた。
決めごとは単純にした。ユノが糸を右へ引けば右。左へ引けば左。強く引けば「来る」。それだけだ。複雑にすれば、戦いの中でこんがらがる。
フィンは、ユノの指と俺の手首とリシアの手首を、髪より細い一本で繋いだ。近くを人が通っても糸には気づかない。それでいて、ユノが指を動かせば確かに手首へ伝わる。
「痛かったら言えよ。締めすぎないようにするから」
フィンがユノに、そう声をかけた。いつもの軽口とは違う声だった。真面目に見られたがらない男が、このときだけは、真面目な顔を隠さなかった。
ユノは小さくうなずいた。
試してみた。ユノが目を閉じたまま、離れた的の位置を指で示す。
最初は、うまくいかなかった。ユノの引きが弱すぎて、合図が手首まで届かない。フィンが糸の張りを直し、ユノが引く強さを少しずつ合わせていく。何度か繰り返して、ようやく、はっきりと伝わるようになった。
もう一度。糸がかすかに引かれ、手首に小さな合図が届く。
右。
声は一言もなかった。
「伝わりました」
リシアが自分の手首を見て、静かに言った。
ユノが、その顔を見た。読めるのに渡せなかったものが、初めて渡った瞬間だった。ユノは何も言わなかった。ただ少しだけ、目元がゆるんだ。見えるものを、やっと誰かに手渡せた顔だった。
二戦目が来た。
相手は前へ出る班だった。火力は高くない。だが前衛が重い。数人がかりで一気に距離を詰め、圧で押し込んで崩す。守りを固める暇を与えない戦い方だ。
一戦目の完敗を見たあとだった。相手は油断していた。また寄せ集めが押し負けるところを見てやろう、という顔で、雑に散っていた。
客席の前のほうで、ダリオがまた笑っていた。
「今度は何秒もつかな」
俺は言い返さなかった。返す言葉は、舞台の上で示せばいい。
合図とともに、始まった。
最初は耐えた。
相手が圧をかけてくる。重い前衛が次々と前へ出る。ボルクが受けた。硬くなった体で正面から受け止める。押し込まれても、その護り石は割れない。
だがボルク一人では、全部は受けきれない。横をすり抜けた一人が、ニアへ迫った。
そこへユノの指が動いた。糸が俺の手首を引く。右へ、強く。
――右から来る。
声はない。だが届いた。
俺はニアの前へ回り、火の壁を薄く出した。相手がひるんだ隙に、ニアが後ろへ下がる。
「助かった」
ニアが息を整えながら言った。それから、受け続けているボルクへ手を向ける。乱れた息と張りつめた体を、少しずつ整えていく。ボルクの動きが、また戻った。
一戦目とは、何かが違っていた。ユノの読みが、今日は届いている。
相手が、また来た。
今度は側面から二人。ユノの指が続けて動く。左、そして右。
リシアの手首と俺の手首に、別々の合図が届いた。フィンの糸は、二人の動きを混ぜずに、分けて伝えてくる。
リシアが左の一人へ膜を張り、その一撃を横へ流す。俺は右の一人へ火を低く這わせ、足を止めた。
崩せはしない。だが、抜かれもしない。
ボルクは相変わらず遅い。だが今日は、その遅さを俺とリシアで補えた。どこから来るか先に分かっていれば、遅い足でも間に合う。守れたぶんだけ、ボルクの顔から、いつもの引け目が薄れていった。
リシアが動くたび、その気配が糸を伝って、俺の手首にかすかに触れた。見なくても、リシアが今どこにいるか分かる。妙な感覚だった。
六人が初めて、同じ絵を見ていた。誰がどこを見て、どこへ動くのか。それが糸を通して、互いに分かる。
声を張り上げなくても伝わる。たったそれだけのことが、こんなにも違うのかと思った。
相手も、途中で気づいたらしい。今までの寄せ集めとは、様子が違う。前衛の圧を、さらに強めてきた。
だが、強めれば強めるほど、動きは大きくなる。大きな動きは、ユノにはよく見えた。
押し込まれる。持ち直す。また押し込まれる。そのたびユノの指が動き、俺たちは致命傷になる前に、体をずらした。
客席の笑い声が、少しずつまばらになっていく。
何秒もつか、と言ったダリオも、いつのまにか笑うのをやめて、舞台を見ていた。外棟がまだ落ちていない。それだけのことが、想定の外だったらしい。
耐える。読む。拾う。そこまでは、できるようになっていた。
あとは、穴を作れるかどうかだ。
そして、それは来た。
前衛のいちばん大きな一人。そいつが数人を率いて、まっすぐ突っ込んできた。地面が揺れるような圧だった。まともに受ければ、ボルクでも押し込まれる。
「リシア。お前の膜で、あの突進を逸らせるか」
「やってみます」
問題は、そこじゃない。いつ、どこから来るか。それが間に合うかどうかだ。
一戦目なら、ユノの声はこの圧の中で消えていた。
今日は、違う。
ユノが柱の陰で目を細めた。もう、うつむいてはいなかった。
先頭の足が地を蹴る、ほんの半呼吸前。魔力がぐっと沈むのを、ユノは見ていた。読んで、指を動かす。その一連に、もう迷いはなかった。
糸が引かれる。俺の手首とリシアの手首に、同時に合図が走った。
左。強く。
――来る。左から。
声はなかった。だが確かに、届いた。
リシアが動いた。突っ込んでくる先頭の、進む先へ。
薄い膜を斜めに張る。正面から受け止めるんじゃない。滑らせて逸らすための角度だった。自分の力を「分ける膜」と呼び直した、あの手だ。
同じ合図を、フィンも受けていた。相手の足元へ細い糸を走らせる。糸の一本一本に神経を通していた。ふざけた顔は、もうどこにもなかった。
俺は火を溜めた。逸れて崩れる、その一瞬に入れるために。
大きな一人の突進が、リシアの斜めの膜に触れた。
フィンの糸が、その足をとらえた。
巨体が、まっすぐ進めなくなる。
相手の突進が、わずかに逸れた。
逸れた巨体が、勢いを殺しきれずにたたらを踏む。守りの薄くなった脇腹が、こちらを向いた。
溜めた火の行き先が、初めて、はっきりと見えた。
誰かが見つけた隙が、今日は、俺の手まで届いている。
リシアが肩で息をしながら、逸れた巨体を見ていた。フィンは糸を握ったまま、動きを止めている。ユノが、こちらを見た。全員が同じものを見て、同じことを感じていた。
「あれ?」
客席のどこかで、誰かがそう漏らした。
今までと、何かが違う。まだ誰も、それが何かは分かっていない。
たったそれだけだ。突進が、少し逸れただけ。崩しきっても、倒してもいない。
でも、俺たちには分かっていた。
初めて、ばらばらだった力が、一本の糸で繋がった。




