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第3話

第三話 推薦状は門の中まで



行くのか、とは、親父は聞かなかった。


俺が荷を背負って土間に立った朝、親父は、古い革袋を一つ、黙って俺の前に置いた。


「持っていけ。道中の薬と、いくらかの金が入ってる」


それから、少し間をおいて、付け足した。


「あとは、母さんが詰めた」


母さんは、竈のそばに立っていた。いつもと同じ顔で。ただ、手だけが、前掛けの裾を、ぎゅっと握っていた。


「無理を、しないでね」


「うん」


「それから、レン」


母さんは、俺の目を見た。一年前から——いや、もっと前から、何度も俺に向けてきた、あの目だ。


「分からないものを見たら、決めつけないで。よく見て、覚えておくの。あなたは、それができる子だから」


俺は、うなずいた。喉の奥が、少し、つかえた。


親父が、戸口の方へ、顎をしゃくる。


外では、ゼクトが、煙管をくわえて待っていた。脇腹の晒しは、もう取れている。三日寝込んだ男とは、思えない立ち方だった。


「行くぞ、坊主」


俺が一歩、踏み出したとき、背中で、親父の声がした。


「レン」


振り返る。


親父は、こっちを見ていなかった。村の奥の、魔境のある方を、見ていた。


「スキルの名前で、戦うな。目の前で起きてることを、見ろ。お前は、それが、できる」


それから。


「勝ち方より、先に、死に方を潰せ。生きて帰る道を、いつも一つ、残しておけ」


それが、素材屋の親父の口から出る言葉じゃないことくらい、もう、分かっていた。


「……行ってきます」


俺は、それだけ言って、歩き出した。



王都アステリアまでは、歩いて十日の道のりだという。


ゼクトは、よく喋る男だった。前線の話、王都の話、昔、親父と組んでいた頃の話。どこまで本当か分からない、軽い口ぶりで。


「アステリアにはな、でかい学院がある。王立アステリア顕能学院。スキル持ちの若いのが、国じゅうから集まってくる」


「そこに、入るんですか。俺が」


「入れるかどうかは、お前次第だ。俺にできるのは、門の前まで連れてって、推薦状を一枚、握らせてやることだけさ」


「学院ってのは、どんな所なんですか」


「序列の、巣みたいな所だ」


ゼクトは、煙を、長く吐いた。


「入ったが最後、スキルの等級で、星の数が決まる。星の多いやつは、本棟ってところで、いい教官といい設備をあてがわれる。星の少ないやつは——外棟だ。落ちこぼれの吹きだまり、なんて陰口を叩くやつも、いる」


「……俺は、どっちなんですか」


「F等級の、地方推薦枠だ。聞くまでも、ないだろ」


ゼクトは、軽く笑った。俺は、笑えなかった。


「気にするな。星の数なんざ、入ったときに貼られる、ただの札だ。剝がすのは、お前の仕事さ」


俺は、ゼクトの横顔を見た。


歩き方に、隙がない。喋りながらも、目だけは、道の先と、両脇の岩場を、絶えず撫でている。親父が「死に筋を読め」と言ったのは、たぶん、こういうことだ。


道は、進むほどに、けわしくなっていった。


魔境が近い。空気が、村のあたりとは違う。重くて、どこか、焦げたような匂いがする。——ゆうべの魔核と、同じ匂いだ。


「この辺も、変わったな」


ゼクトが、ぽつりと言った。


「昔は、こんな所まで魔物は出なかった。前線が、じわじわ、こっちへ寄ってきてる」


俺は、何も言えなかった。村のある方を、一度だけ、振り返った。



道を曲がったところで、足が止まった。


崖から崩れたらしい巨岩が、道を、まるごと塞いでいた。人の背の、何倍もある。脇は切り立った崖。引き返すしか、ないように見えた。


「どけるか、これ」


ゼクトが、煙管を口から離した。


そして、岩に向かって、軽く——虫でも払うみたいに、片手を振った。


音は、しなかった。


巨岩に、すっと、一本の線が走った。線が、二本、三本に増える。次の瞬間、岩は、いくつもの塊になって、ずるりと崩れ落ちた。断面が、つるりと、光っている。


俺は、動けなかった。


何が起きたのか、分からなかった。風が吹いた感覚も、なかった。ただ、岩が、勝手に切れて、落ちた。それだけが、目の前にあった。


崩れた岩の陰から、何かが、飛び出してきた。


岩と同じ色をした、大きな獣だ。四つ足で、まっすぐ、こちらへ——


ゼクトは、振り向きもしなかった。


煙管を持った手と、逆の手を、横に薙ぐ。


やっぱり、音は、しなかった。


獣は、二歩で、止まった。止まって、それから、上と下が、別々に、ずれて落ちた。断面は、岩と、同じだった。


しん、と、静かだった。


遅れて、空気が、ざわっと、俺の頬を撫でていった。技が起きたあとに、ようやく届いた、その余りみたいに。


「……今の、なんですか」


声が、かすれた。


ゼクトは、煙管をくわえ直して、こともなげに言った。


「《微風びふう》だ」


「びふう」


「俺の、顕現名さ。鑑定で出たのは、風属性の、いちばん下のランク。風を、ちょっと起こせる。それだけの、最弱スキル。——お前と、同じだよ」


最弱。


その言葉が、胸の奥で、引っかかった。


「笑われたよ。風を起こすしか能がないってな。だが——」


ゼクトは、崩れた岩の断面を、煙管の先で、軽く叩いた。


「風ってのは、つまり、空気だ。空気は、強く押せば、壁になる。細く、速く震わせれば、刃になる。鑑定が見てたのは、《微風》って名前だけだ。中身までは、見ちゃいなかった」


俺の《火種》が、表面を焼かないように。


ゼクトの《微風》も、ただ風を起こすだけのものじゃ、なかった。


「鑑定でついた名前は、入り口だ。その先に、何があるか。それを見つけて、どこまで磨くか。——そこから先は、もう、名前の話じゃ、ない」


俺は、自分の手のひらを、見た。


火を灯すしか能がない、と言われた手だ。けれど、この手は、魔核の中の熱を引いて、表面ひとつ焦がさずに、内側だけを温める。


それが、いったい何なのか。鑑定は、教えてくれなかった。《火種》という名前を、貼りつけただけだ。


——なら、その名前の、先は。


考えたことも、なかった。考えたって仕方がないと、ずっと、思ってきたから。


ゼクトが、こっちを見て、口の端だけで、笑った。まるで、俺の頭の中を、のぞき見たみたいに。


「いい顔になってきたじゃねえか、坊主」



その晩、街道沿いの宿で、ゼクトは、一枚の紙に、何か書きつけていた。


書き終えると、それを、俺の方へ滑らせた。


宛名は、学院。差出は、ゼクト・レイヴァン。そして、推薦する者の名を書く欄に——レン・ハルヴェル、と、俺の名が、記してあった。


「言っとくがな、坊主」


ゼクトは、煙管に火を求めて、また俺の方へ、それを差し出した。俺は、いつものように、芯から、火を点けてやる。


「俺の推薦で入れるのは、門の中までだ。そこから先は、お前が、自分で証明しろ。俺の名前なんざ、そこじゃ、何の役にも立たん」


「……はい」


役に立たない、と言われて、なぜか、少し、ほっとした。


借り物の名前で入った場所で、火種、と笑われるのは、もう、たくさんだった。



翌日の昼すぎ。長い坂を上りきったところで、それは、見えた。


王都アステリア。


見たこともない数の屋根が、谷の一面に、敷き詰められている。その中央、ひときわ高い丘の上に、白い塔の群れが、空へ向かって、何本も伸びていた。


「あれが、学院だ」


ゼクトが、煙管の先で、その白い塔の方を指した。


火を灯すしか能のない、F等級の、俺が。


あの中で、いったい、何を証明できるのか。まだ、何ひとつ、分からなかった。


ただ——足だけは、止まらなかった。

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