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第25話

第25話 小癒の限界


 あの後、ボルクの腕を診たのは、ニアだった。

 上位生に打たれた打撲の上に、火喰い蜥蜴の火傷。新旧の傷が重なって、見るからに痛々しい。

 エリオが去ったあとの外棟は、誰も、あまり口をきかなかった。せっかく掴みかけたものを、家の正統の一言で潰された――その後味を、めいめいが、黙って抱えていた。リシアは隅で、自分の指先を見つめたまま、動かない。ボルクは、痛みより、別のところで、うなだれていた。守れた、と思った直後に、その盾ごと「出来損ない」と切り捨てられたのだ。

 その重い静けさの中で、ニアだけが、淡々と動いていた。

 ボルクを座らせて、腕に手をかざす。《小癒》――弱回復、と鑑定された力だ。淡い光が、傷の表面を、ゆっくりと撫でる。


 正直、効きは、地味だった。

 深い傷は、一度では塞がらない。火傷の縁が、わずかに乾いて、寄っていく。それだけだ。聖女さまがひと撫でで全快させる、というような派手な治癒とは、まるで違う。広く、速く、深く――回復役に求められるものを、ニアは、何ひとつ満たしていない。これでは、低く見られても、仕方がない。

 だが、見ているうちに、妙なことに気づいた。

 ニアの目は、傷を、見ていなかった。

 正確には、傷だけを、見ていなかった。

 手は傷の上にあるのに、視線は、ボルクの胸の上下を追っている。ときどき、手首の脈に、指を添える。額に手の甲をあてて、熱を確かめる。傷が塞がっていく速さより、ボルクの呼吸が整っていく速さのほうを、気にしている。動きには、無駄がなかった。何度も繰り返してきた手順を、体が覚えている、という手つきだ。

 ひとりの相手に、注意のぜんぶを向けている。早く、大勢を、ではない。目の前の一人を、深く。ニアの手当ては、そういう手当てだった。

 俺は、ボルクの腕の傷を見た。塞がりかけている。もう、危ない出血はない。俺の目には、それで、ほぼ終わったように見えた。

 ニアの目には、違ったらしい。


 「傷は、もう、塞がりかけてる」

 俺が言うと、ニアは、首を小さく振った。

 「……傷は、閉じても。身体の中は、まだ、落ち着いていません」

 小さな声だった。けれど、迷いは、なかった。

 「ボルクさん、さっき、ずっと力を入れて、受け続けたから。体が、まだ、固まったままなんです。息も、浅い。このまま放っておくと、傷は治っても、しばらく、まともに動けません」

 ニアは、自分の手のひらを、少し、見た。

 「傷は……どこが切れたか、で、分かります。それは、見れば、誰でも。でも、その人が、もう一度ちゃんと動けるかは……息とか、体の温かさとか、震えとか。表に出ない、小さなところに、出るんです。わたしは、たぶん、そっちのほうが、よく見えるんだと思います」

 俺には、見えていなかった。塞がった傷の奥で、ボルクの体が、まだ身構えたまま強張っている――そんなものは、外からは、分からない。ニアには、それが見えている。

 思い返せば、火喰い蜥蜴のときも、そうだった。ボルクが殻を受け続けるあいだ、ニアはずっと、その傍を離れなかった。あのとき俺は、火傷を治しているんだと思っていた。違ったのだ。ニアは、ボルクの息と、血の巡りが、限界を超えないように、整え続けていた。傷ではなく、内側を。俺が、見落としていただけだ。

 ニアは、ボルクの背中に、そっと手を当てた。光は、ほとんど見えない。だが、しばらくすると、ボルクの肩から、力が抜けた。荒かった息が、深く、長くなっていく。固まっていた体が、ほどけていくのが、傍から見ても、分かった。

 傷は、まだ半分しか塞がっていない。

 なのに、ボルクの体は、さっきより、ずっと“戦えそう”に見えた。


 その光景に、覚えがあった。

 母さんが、よく言っていた言葉だ。

 「外側だけ見ないで、内側の変化を見なさい」

 子供の頃、母さんの仕事場で、何度も聞いた。母さんは、魔核を扱う人だった。表面が同じに見える二つの石を並べて、こっちは中の流れが乱れている、こっちは落ち着いている、と言い当てる。どうして分かるのか訊くと、母さんは決まって、こう答えた。

 「表に出ているものは、結果でしかないの。本当のことは、いつも、内側で起きているのよ」

 表に出た火じゃなく、奥の熱を見ろ。俺がものを見るやり方は、ぜんぶ、あの人から来ている。

 村を出てから、母さんには、会っていない。それでも、こうして誰かの“内側”を見ようとする人間を見ると、あの人の声が、すぐ近くで聞こえる気がした。

 ニアがやっているのも、同じだった。傷口という“外側”じゃなく、呼吸や体温や流れという“内側”を、見ている。

 ニアと俺は、たぶん、似たもの同士だ。俺は、火じゃなく、熱を見る。ニアは、傷じゃなく、その奥を見る。どちらも、表に出ないものを見て、どちらも、それを鑑定に低く値踏みされた。見えているのに、その目は要らないと、言われ続けてきた。

 鑑定は、外側しか測らない。閉じた傷の大きさと、診られる人数で、回復役の優劣を決める。だから、内側を整えるニアの力は、紙の上では、ずっと“弱い”ことになっていた。

 弱いんじゃない。鑑定が、測っていないものを、やっているだけだ。


 「……わたし、ずっと、駄目な治癒師だと思ってました」

 ニアが、ぽつりと言った。手は、まだ、ボルクの背中にある。

 「鑑定されたとき、言われたんです。『小癒は、擦り傷か、軽い切り傷向き。戦場じゃ、数にならない』って。実際、そのとおりで。大きな傷は、塞げない。何人も、いっぺんには診られない。聖女さまみたいな、立派な回復は、できない。死んだ人を、戻すことも」

 言葉を、ひとつずつ、置いていく。長いあいだ、自分に言い聞かせてきた順番、という感じだった。

 「だから、ずっと、後ろにいる係なんだと思ってました。誰かが大怪我をしないように祈って、軽い傷を、ちまちま塞ぐだけの」

 そこで、少し、間が空いた。

 「でも」

 顔を上げて、ニアは、初めて、まっすぐ俺を見た。

 「わたしのは、たぶん……治すというより、もう一度、動けるように整える感じなんです。傷を、なかったことにするんじゃなくて。痛みを抱えたままでも、もう一回、立てるように。……そういうのでも、いいんでしょうか」

 いいに決まっている。

 今、目の前で、ボルクが、それで、もう一度立てる顔をしている。

 「いい。じゅうぶん、役に立ってる。傷を消す力より、痛みごと立て直す力のほうが、要る場面は、いくらでもある」

 ニアは、ほっとしたような、泣きそうなような、半端な顔で、また下を向いた。手の下で、ボルクの呼吸が、すっかり、静かになっていた。


 ボルクが、立ち上がった。まだ痛むはずの腕を、一度、握って、開いて、確かめる。動く。さっきまで強張って動かなかった腕が、ちゃんと、動く。

 「……すまん、ニア。助かった」

 不器用な礼だった。それから、ぼそりと、付け加えた。

 「お前がいれば……俺は、もう一回、前に立てる」

 ニアは、首を振って、少しだけ、笑った。広く治せない自分を、ずっと恥じてきた子の、けれど、一人を深く看ることには、確かな誇りを持ちはじめた顔だった。

 隅で、リオネルが、帳面に何かを書き足していた。

 「……今の、書いておきました。『小癒は、傷の閉鎖は遅い。けれど、負荷の調整と、立て直しの速さでは、上位の治癒役を上回る場面がある』。――こういう値打ちは、たぶん、鑑定の項目には、ありません」

 外棟の静けさは、まだ重い。エリオの一言は、消えていない。リシアの指先も、まだ、動かないままだ。

 それでも――倒されても、もう一度立てるように整える力が、この班には、ちゃんとあった。

 潰された手応えも、いつか、立て直せる。

 そしてそれは、今日、紙に書かれた。

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