第26話
第26話 糸を結ぶだけの男
ボルクの腕が、数日で、また動くようになった頃。
外棟寮の、軋む戸の蝶番が、外れた。
「フィンー!」
寮母のベルナさんが、廊下の奥から、フィンを呼ぶ。声に、緊急の響きはない。蝶番が外れたくらいで、いちいち慌てない。呼べば、直る。そういうことに、なっているらしい。
「はいはい、ただいま」
フィン・ロゼルは、面倒くさそうに、しかし手は素早く、ポケットから糸の束を取り出した。へらへら笑いながら、外れた蝶番に、細い糸を、何本も、複雑に絡めていく。
しばらくして、戸を軽く押す。軋みもせず、なめらかに、閉まった。買ったばかりみたいに。
「直りました」
「ほんと、あんたがいないと、この寮、とっくに崩れてるよ」
ベルナさんは満足げに頷いて、奥へ戻っていった。
見れば、寮のあちこちに、フィンの糸の跡があった。緩んだ手すり。傾いた棚。建てつけの悪い窓。どれも、目立たない糸で、そっと留めてある。誰も気づかないところで、この寮は、フィンの糸で、かろうじて形を保っていた。
フィンは、肩をすくめる。
「……まあ、糸を結ぶだけですけどね」
その口ぶりは、棚を直していたときと、同じだった。たいしたことない、と、自分から、先に言う。誰かに言われる、前に。
手札の棚卸しは、フィンの番だった。
「お前の糸、戦いで、何ができる」
俺が訊くと、フィンは、わざとらしく困った顔をした。
「いやあ、戦いはちょっと。僕、棚とか、戸とか、その辺専門なんで。糸でできることって言ったら、せいぜい、洗濯物を干すくらいで」
「洗濯物の話は、してない」
「干し方には、自信あるんですけどねえ。風で落ちないように、こう、角度をつけて――」
「フィン」
フィンは、へら、と笑った。はぐらかすための笑いだ。
こいつは、いつもこうだ。何かを訊かれると、まず、ふざけて、話を逸らす。自分の手の内を、見せない。見せたら、何かを期待される。期待されて、応えられなかったら、困る。たぶん、そういう逃げ方だ。
そのときだった。
訓練場の端で、積み上げてあった訓練用の重し――鉄の塊を載せた台車が、傾いた床で、留め具を外して、動き出した。
ごろごろ、と、重い音を立てて、まっすぐ、こちらへ。あの鉄の塊は、人ひとり、軽く撥ね飛ばすくらいの重さがある。
その先には、しゃがんで荷物を片づけている、ユノがいた。小柄な背中は、音にも気づかず、こちらに向いていない。
「危ない――」
俺が動くより、声を出すより、早かった。
フィンの手が、跳ねた。
糸が、何本も、宙を走る。台車の車輪に、地面の継ぎ目に、近くの柱に――まばたきひとつのあいだに、目に見えない網の目が、張られる。
台車は、止まらなかった。
止まらなかったが、進む先が、変わった。
糸に引かれて、片方の車輪の向きが、わずかに逸れる。重い車体が、ゆるい弧を描いて、ユノの脇を、すれすれで通り過ぎていった。何もない壁際まで転がって、鈍い音とともに、ようやく止まる。
ユノが、きょとんと、顔を上げた。自分の真横を何が通り過ぎたのか、分かっていない顔だ。
静かになった訓練場で、フィンだけが、いつもの調子で、頭をかいた。
「……あー、びっくりした。間に合ってよかったあ」
なんでもないことのように、言う。たった今、ユノの命を拾ったとは、思えない軽さで。
俺は、フィンの糸が作った跡を、目で追った。
あいつは、台車を、止めようとは、しなかった。止められない、と分かっていたんだろう。鉄の塊を、細い糸で受け止めるなんて、無理だ。
代わりに、フィンは、台車の“通り道”を、変えた。
糸は、力をせき止めるためじゃない。力の、行き先を選ぶために、張られていた。まっすぐ進む重さを、ほんの少し横へ逃がす。それだけで、ユノに当たるはずだったものが、当たらなくなった。
しかも――フィンは、台車が動き出すより前に、ユノがそこにいることに、気づいていた。でなければ、あの一瞬で、あの向きに、糸は張れない。
ふざけて、棚専門、と笑っている男は、誰よりも先に、訓練場の全部を、見ていた。
「お前、見えてるだろ。全部」
俺が言うと、フィンの、頭をかく手が、止まった。
へらへらした笑いの奥で、一瞬、別の目が、こちらを見た。茶化して終わらせたいのに、終わらせてもらえない、という目だ。棚を直していたときと、同じ顔だった。
「……買いかぶりですよ。たまたまです」
「たまたまで、あの向きに糸は張れない」
フィンは、少しのあいだ、黙った。それから、観念したわけでもなく、ただ、いつもより小さい声で、言った。
「……見てるのが、ばれると、やりにくいんですよ」
笑った顔のままだったが、声だけは、笑っていなかった。
「一つ星が、いろいろ見えてます、なんて顔してたら。生意気だって、叩かれるだけでしょう。さっきの薄膜の子みたいに。だから、棚専門の便利屋で、ちょうどいいんです。何も期待されないし、誰も、邪魔だと思わない」
見られたくない、んじゃない。見られて、潰されるのが、嫌なんだ。だから、見られる前に、自分から、たいしたことない側に、回っておく。
俺は、ユノを思い出した。分かっているのに、声が小さいからと、黙ることにした子。
やり方は違うが、根っこは、似ている。見えているのに、見えていないふりをして、身を守る。この班は、そういう連中の、寄せ集めだ。
「俺は、邪魔だとは思わない。むしろ、お前のその目は、要る」
俺が言うと、フィンは、虚を突かれたような顔をして、それから、また、へらへら笑った。今度の笑いは、さっきより、少しだけ、ほぐれていた。
その一部始終を、リシアが、見ていた。
エリオの一件から、ずっと、彼女は、自分の指先を宙でなぞるのを、やめていた。掴みかけたものを、家の正統に「我流」と切り捨てられて、それきり、動かなくなっていた。あの一言は、上位生の拳より、ずっと深いところに、刺さっていた。
その指が、また、動いていた。
リシアが、こちらを向く。久しぶりに、その声に、熱があった。
「フィンの糸は、力の通り道を、変える。わたしの膜は、力を、横へ逸らす。……これ、組み合わせられない?」
「言ってみろ」
「糸で、突進の道を、先に決めておく。そこへ来た力を、わたしの膜が、逸らす。膜一枚で正面から受けるより、ずっと確実に。――防ぐんじゃない。最初から、逸らすことだけを考えて、組む」
それは、エリオが「結界の風上にも置けぬ我流」と切り捨てた、あの考えの、続きだった。
切り捨てられて、止まっていたはずの考えが、フィンの糸を見て、もう一歩、先へ進んでいた。我流と笑われた手が、別の我流と噛み合って、形になろうとしている。
俺は、頷いた。
「いい線だ。お前、それ、覚えておけ」
リシアは、小さく頷き返した。その横顔から、エリオに会ってからずっと張りついていた強張りが、少しだけ、抜けていた。
フィンが、まだ、へらへらしながら、口を挟んだ。
「いやあ、でも、僕の糸、細いんで。本気で斬りにこられたら、ぷつっと切れますよ」
「切れたら、終わりか」
俺が訊くと、フィンは一瞬、返事に詰まった。それから、なんでもないことのように、笑った。
「まさか。切られてもいいんです。糸は、一本じゃないんで」
軽い口ぶりだった。
だが、その一言は、たぶん、こいつの本音に、いちばん近かった。
一本切られても、終わらない。何本も、張ってあるから。誰にも、たいしたことないと思われているうちに、こいつは、訓練場じゅうに、見えない網を、張りめぐらせている。
ふと見ると、フィンの糸が、まだ何本か、柱の陰に残っていた。
たいしたことない、どころじゃ、ないだろう。




