第20話
第20話 火種が、何を見ているか
評定の翌朝、ユノが俺の席まで来た。
いつもは廊下の端を選んで歩く子だ。誰かに用があっても、声をかけられるまで待っている。それが、まっすぐ来た。
「……あの、ハルヴェルさん。昨日の訓練場の、東の壁」
小声で、けれど、最後まで言い切った。
「あそこだけ、魔力の流れが、少し滞ってる気がして。……でも、たぶん、わたしの気のせいです」
昨日の訓練場を思い出す。東の壁。古い補修の継ぎ目があった場所だ。
「気のせいじゃない。継ぎ目が緩んでる。整備に言っておけ。お前の感知が、先に気づいたってことだ」
ユノは、こくりと頷いた。それから、少しだけ、口元を緩めた。
前なら、こんなことは口に出す前に、自分で否定していた。自分の感じたことを、まず疑っていた。
評定では、何も認められなかった。一つ星は、一つ星のまま。
それでも、何かが、少しだけ動いていた。
食堂では、ボルクが片手でパンを割っていた。もう片方の腕は、まだ包帯の上から動かさないようにしている。
「……火喰いのとき」
ボルクが、ぼそりと言った。俺にではなく、皿に向かって。
「お前の指示、悪くなかった。受けてる側からすると、いつ角度を固定すればいいか、分かりやすかった」
それだけ言って、また黙ってパンを噛んだ。遅い、と自分で思っている男が、自分の使い道を一つ見つけた、という顔だった。
隣で、ニアがボルクの腕をちらりと見て、包帯の位置を直していた。何も言わない。手だけが動いている。
訓練場へ移る途中、グレンと鉢合わせた。
火属性名門の三つ星。入試の日、俺を「火属性の面汚し」と呼んだ男だ。
すれ違いざま、グレンの足が止まった。
「……おい」
俺を見る。何か言いかけて、口が半開きのまま止まった。
「火……」
そこで、続かなかった。
火種、と呼ぼうとしたのは分かった。馬鹿にする呼び方じゃなく、ただ、名前として。けれど、その一言が喉のどこかに引っかかって、出てこない。一度認めれば、入試の日の自分を否定することになる。たぶん、それが嫌なんだろう。
「……何でもない」
グレンは、舌打ちして歩いていった。
追わなかった。呼べなかった一言のほうが、呼べた百の言葉より、よほど正直だ。
廊下では、別の声も聞こえた。
上位生が二人、すれ違いざまに笑っていた。一つ星が変異種を止めた、というあの話だ。偶然だろう、グレンが削った後だっただけだ、と。
その声は、評定の場で聞いたのと、同じ温度だった。
世界のほうは、何も変わっていない。
変わったのは、隣にいる連中の、目だけだ。
夜。
外棟寮の、明かりを落とした談話室。
俺は、研究院が持っていった核のことを考えていた。黒っぽい熱が、とくん、とくんと脈打っていた、あの核。蓄熱組織を崩しても、芯だけは無傷のまま、ノアの木箱に納まって、王都へ運ばれていった。
ノアは、丁寧だった。手際が良すぎるほど、丁寧だった。「異常と断定するには材料が足りません」――そう言って、いちばん異常なものを、いちばん静かに持っていった。
あの言い方を、俺は知っている。正しいことを言いながら、いちばん見るべきものを見ないことにする、あの響き。
そして、あの熱も、知っている。一年前にも、同じものを見た。
考えるほど、二つが、頭の中で同じ場所に並んでいく。
「……眠れないの?」
リシアだった。湯気の立つカップを二つ持って、片方を俺の前に置く。家の作法が抜けないのか、置き方だけは妙に丁寧だ。
向かいに、少し間を取って腰を下ろした。近すぎず、遠すぎず。
「あなた、あの鉱窟を出てから、ずっと同じ顔をしてる」
「同じ顔?」
「何かを、もう一度数え直しているような顔。……あの核の、何が引っかかっているの?」
答えなかった。
答えれば、これまで誰にも話さなかったことを、話すことになる。リシアは、急かさなかった。カップの湯気が、ゆっくり細くなっていくのを、ただ待っていた。
それでも、いいか、と思った。リシアになら。
「一年前のことだ」
カップの湯気を見ながら、話した。リシアの顔は、見なかった。見ずに話すほうが、順番を間違えずに済む。
「鑑定を受ける前。俺がまだ、F等級ですらなかった頃だ。村に、冷めない魔核が持ち込まれた。前線の浅瀬で採れたやつだ。普通の魔核は、抜けば熱が引く。それが、何日経っても芯だけ熱いままだった。中の熱が、外に漏れていた」
「……」
「村の優良スキル持ちが、表面を焦がして処理しようとして、駄目にしかけた。俺は、表面じゃなく、内側の熱だけを抜いた。素材屋の手伝いの延長で、手が勝手に動いた。……そのとき、見えたんだ。これは、ただの不良品じゃない。前線の浅瀬で、何かが起きている前触れだ、と」
「それを、伝えた」
「冒険者にも、村長にも言った。『前線の浅瀬を、一度見に行ったほうがいい』と」
「……聞いてもらえた?」
「『で、お前の等級は?』と言われた」
それで、終わりだった。等級のない素材屋の子供の言葉に、続きはなかった。言葉の中身じゃなく、誰が言ったか、で切られた。
リシアは、何も言わなかった。カップを、両手で包んでいた。
「ひとりだけ、聞いてくれたやつがいた。」
「ロイ…」
「俺より四つ上の、前線で食ってる冒険者だ。村の連中が素材屋の子供を馬鹿にする中で、あいつだけは、最初から俺を子供扱いしなかった。魔物の話をすると、対等に返してきた。……あの核を見せたときも、最後まで黙って聞いて、それから言った。『お前がそう言うなら、頭に入れておく』と」
ここから先は、何度も、頭の中で順番に並べてきた。並べても、順番は変わらないのに。
「ロイは、もともと決まっていた遠征に出た。俺の話を、頭の隅に置いて。……前線の浅瀬で、地下から熱が噴いた。俺が見抜いた、あの漏れていた熱の、もっと大きいやつだ。ロイは、新人をひとり庇って、噴き出しの中に腕を入れた。右手をやられた。剣を握る手だ」
カップに口をつけた。中身は、もう、ぬるくなっていた。
「生きて帰ってきた。それだけは、よかった。今は村に残って、左手で剣を握る練習をしながら、新人に前線の歩き方を教えている。……自分はもう歩けない場所の、歩き方を」
リシアは、しばらく何も言わなかった。
慰めも、同情も、言わなかった。それが、ありがたかった。可哀想に、と言われた瞬間に、これはただの不幸な昔話になる。そうじゃない。
「そのロイという人は、あなたを責めた?」
「いや」
首を振った。
「『お前は、見えてた。それだけは本当だ』と言った。……『今度は、聞いてもらえるといいな』とも」
責められた方が、まだ楽だった。あいつは、最後まで、俺を責めなかった。責めてくれたら、こっちも、もう少し雑に忘れられたのに。
「だから、証明する」
初めて、リシアの顔を見て言った。
「次に、同じ熱を見たとき。今度は、聞いてもらえるように。等級じゃなく、実績で。俺の見えているものが本当だと、誰にも否定させないようにする。……次は、間に合うように」
言ってしまってから、少し、間が空いた。
こんなことを人に話したのは、初めてだった。
リシアは、カップの縁を指でなぞっていた。
「わたしも」
小さく、言った。
「家に、鑑定に、『正しくない結界』だと言われ続けた。アルヴェインの娘なのに、まともな盾にもならない、と。守られる側にいなさい、表に出るな、と。……ずっと、そう信じてきた。自分でも」
指が、止まった。
「でも、あの鉱窟で、初めて、自分の薄膜が誰かの役に立った。グレンを守れた。あなたの熱の、逃げ道を塞げた。守られる側じゃなく、隣で」
顔を上げて、俺を見た。
「あなたの言う、証明。わたしは、たぶん、その意味が分かる」
お前と同じだ、とは言わなかった。言わなくても、伝わっている気がした。
ぬるくなったカップが、二つ。明かりは、落ちたままだった。
それでも、その夜の沈黙は、ひとりで抱えていたときのものとは、違う重さだった。
同じ重さを、もうひとり知っている。それだけで、違った。
その同じ夜。
学院の一室で、ひとりの男が、外棟生の能力記録を眺めていた。
イザーク・ヴェルト。四十八歳。学院が“分類しきれない”生徒を押し付けられる、外棟特別講師。落ちこぼれと異端を観察するのが、仕事であり、趣味でもある。
机に広げてあるのは、灰雨鉱窟の実習記録。火喰い蜥蜴の変異種を止めた、一つ星の班の記録だ。
彼の指が、二つの名前で止まった。
《火種》のレン・ハルヴェル。戦闘適性なし、と鑑定された男。
《薄膜》のリシア・アルヴェイン。割れる結界、と切り捨てられた娘。
「欠陥品が二つ、記録をひっくり返したか」
喉の奥で、笑った。記録の紙を、指の腹で、とん、と叩く。
「面白い」
鑑定が“使えない”と切り捨てたものの中に、ときどき、物差しのほうが間違っていた例が混じる。それを見つけ出すのが、この男の道楽だった。
「外棟を、少し掘り返す時期だな」
明かりは、夜更けまで消えなかった。




