第19話
第19話 評定、保留
長机の向こうに、評価を下す側が並んでいた。
誰も、こちらを見ていない。手元の紙を見ている。
灰雨鉱窟での三日間が、その紙の上で、何行かに縮んでいた。
火喰い蜥蜴の魔核は、王都の研究院が持っていった。ノアという若い研究官が、丁寧すぎる手つきで木箱に納めて。あの男が母の名前に指を止めたことだけが、まだ喉の奥に小骨のように残っている。
それは、今日の話じゃない。
今日は、評定だ。実習での働きを、学院が値踏みする日。
本棟の一室に、関係者が集められていた。こちら側は、外棟の五人と、担当教官のマルク。
ボルクは、両腕に巻いた包帯を、できるだけ机の下に隠していた。火喰い蜥蜴の殻を受け続けて灼けた腕は、ニアの手当てでだいぶ塞がったが、まだ痛むはずだ。そのニアは、ボルクの隣で、背筋だけまっすぐに座っている。ユノは、いちばん端で小さくなっていた。
俺たちは、値踏みされる側だ。三日前、あの坑道で、半端な力を一つずつ持ち寄って変異種を止めた、五人。
上位生たちは、別の列に座っている。グレンもいる。いつもなら俺を見て鼻を鳴らすところだが、今日は机の一点を見たまま、口を閉じている。
報告は、カイラから始まった。
「灰雨鉱窟、第三管理坑道。外棟班の働きについて、現場で見たことを報告します」
カイラ・ローデンは、ギルドの実習担当だ。学院の人間じゃない。だから、紙を読み上げるより、見たことを話す。
「最初の異常を感知したのは、外棟のクレッタ。鉄殻兎のときから、この子の感知は記録に残してあります。第二層で泥鎧猪、第三層で火喰い蜥蜴の変異種――どちらも、本来その深さに出る個体じゃない」
ユノが、肩を縮めた。名前を呼ばれることに、まだ慣れていない。
「火喰い相手に火を撃てば、餌になる。それを戦闘の前に見抜いて撤退を主張したのが、ハルヴェル。聞き入れられず、上位生が突出して――その先は、記録の通りです」
長机の端で、グレンの肩が動いた。けれど、何も言わない。
「外殻が熱を蓄える性質だと見抜いて、薄膜で熱の逃げ道を塞ぎ、温度差で殻を割った。ハルヴェルとリシア・アルヴェイン、それにクレッタ、ダント、フェルメ。一つ星の班が、変異種を、殺さずに止めました」
カイラは、そこで一度、言葉を切った。
「これを実技点だけで測れば、ほとんど何も残りません。でも、私が現場で見たのは、それだけじゃない」
上位生の列で、誰かが小さく笑った。偶然だろう、と聞こえた。たまたま運がよかっただけだ、と。
その声は、たぶん、これから何度も聞くことになる。
答えたのは、実技教官の一人だった。
ディート・ガーランド。元は騎士で、冒険者だったと聞く。出力と耐久で、人を測る男だ。
「見たもの、で評価はつけられん」
声は低い。怒鳴ってはいない。
「撤退の判断。結構。だが結果として、上位生が一人、突出して死にかけた。止めきれていない。連携で変異種を止めた――それも、ヴァルガスの《爆炎》が外殻を削った後の話だろう」
グレンの肩が、また動いた。
今度は、こちらを見なかった。自分の掌を見ていた。
あの炎が、外殻を削ったんじゃない。喰われて、餌になった。それを、いちばんよく知っているのは本人だ。
訂正は、しなかった。頷きも、しなかった。
「削ったんじゃない」
気づけば、俺が口に出していた。
「あれは、餌になっただけだ」
ディートの視線が、こっちへ動いた。
「……威勢はいい。だが、お前の実技点は最低のままだ、ハルヴェル。それだけは、変わらん」
反論は、出てこなかった。
実技点。出力。その物差しの上では、たしかに俺は最低のままだ。それは、嘘じゃない。
ディートは、俺から目を離した。それでも、手元の用紙には何かを書き足していた。実績そのものは、消さない男なのかもしれない。
ずっと黙っている男が、一人いた。
長机の中央。カイラよりも、ディートよりも、上座に近い場所。
他の教官が報告し、意見を述べるあいだ、その男だけは何も言わず、紙の束を一枚ずつめくっていた。めくる速さは、一定だった。急ぎも、止まりもしない。
昇格の可否を決め、実習の区分を決め、どの記録を学院の正式なものとして残すかを決める人間。学院の序列を、握っている。
星位評定長、ハーグ。
その男が、ようやく顔を上げた。
「よく書けている」
ハーグの声は、静かだった。怒っても、笑ってもいない。
「記録としては、だ。読みやすく、整っている。ローデン教官、現場の記録の質が上がったね」
カイラは、答えなかった。褒められたとは思っていない顔だった。
ハーグは、外棟の列を、端から端まで一度だけ眺めた。一人ずつ、値札を確かめるように。
「《微感知》。《硬直》。《小癒》。《薄膜》。そして――《火種》」
俺たちの顕現名を、彼は順番に口にした。
「どれも、そういう名だ。名の通りに使うのが、秩序というものだよ。低いことが悪いんじゃない。低いものを、低い場所で使う。それで、世界は回っている」
間があった。
「異常の感知。撤退の判断。連携での討伐。――どれも、興味深い。だが、評定とは別の話だ」
めくっていた紙を、彼は閉じた。
「実技は規定の水準に届いていない。ガーランド教官の言う通りだ。感知の精度も、撤退の判断も、序列を測る項目には入っていない。入れていないんだよ。なぜだか、分かるかね」
誰も、答えない。
「順序があるからだ」
ハーグが、こちらを見た。初めて、まっすぐに。
「等級があり、序列がある。それは、誰に何をどこまで任せられるかを、間違えないための仕組みだ。順序を飛ばして例外を認めれば、それはもう秩序じゃない。ただの、運のいい混乱だ」
反論したかった。
けれど、彼の言うことは、半分は正しかった。正しいから、性質が悪い。
「外棟班の働きは、記録に残す。正式な記録として、だ」
ハーグは、その紙の束を、机の脇へ寄せた。脇へ。
「だが、昇格は保留する。一つ星は、一つ星のまま。記録と、序列。混同しないことだ」
マルクが、口を開いた。
外棟の担当教官は、事務的な男だ。普段、こういう場で前に出ることはしない。
「評定長。一つ星の班が、火喰い蜥蜴の変異種を止めた。その事実は――」
「事実だとも」
ハーグは、遮らなかった。
最後まで言わせなかったのは、その静かな相槌のほうだった。
「事実だから、記録した。記録したものを、私は消さない。だが、それを序列に変えるかどうかは、私が決める。セレスタン教官、君は外棟の担当だったな。……熱心なのは、いいことだ」
マルクの口が、途中で止まった。
続かなかった。続けたところで、この机の上では、何も動かない。それが、分かってしまったからだ。
隣で、リシアが、膝の上で手を握っていた。
きつくはない。あの鉱窟で薄膜が初めて役に立ったあと、自分の手を開いて、閉じて、確かめていた――あの所作の途中で止まったような、半端な握り方だった。
彼女は、何も言わなかった。
昔の彼女なら、ここで「やはり、こんな場所では」と棘を出したかもしれない。今日は、出さなかった。
ただ、俺のほうを、一度だけ見た。
俺は、評定長の顔を見ていた。
怒鳴られたわけじゃない。侮られたわけでも、ない。むしろ、ずいぶん丁寧だった。整った字で、俺たちの三日間は、ちゃんと書き留められた。
書き留められて、脇へ寄せられた。
正しいかどうかは、関係ないらしい。正しくても、順序の外にあるものは、脇へ寄せられる。そういう仕組みの中に、俺たちはいる。
――ああ。
この感じを、俺は知っている。
一年前にも、よく似たものを見た。正しく見えていたものが、紙の上には残って、それでも誰の足も動かさなかった、あのときのことを。
誰のことかは、思い出さないでおいた。今ここで思い出せば、たぶん、立ち上がってしまう。
ただ、腹の底で、何かが冷たく固まっていった。
ハーグが、立ち上がった。
紙の束を、部下らしい男に渡す。
「では、これで」
扉のほうへ歩きかけて、足を止めた。思い出したように、こちらを振り返る。
「ああ。一つ、言い忘れた」
その顔に、悪意はなかった。たぶん、本心からの助言だった。
それが、いちばん性質が悪い。
「記録は記録だ。序列とは、別の話だよ」
扉が、閉まった。
しばらく、誰も動かなかった。
ユノが、何か言いかけて、やめた。ボルクは、包帯の腕をそっと胸に引き寄せた。ニアは、その腕を見ていた。
カイラが、息を一つ吐いた。報告した側の、行き場のない息だった。
マルクは、何も言わなかった。
言えなかった。
机の脇に寄せられたままの、紙の束を見ている。
やがて、それを手元へ引き寄せた。表を伏せて、自分の鞄に仕舞う。
消させはしない、とでも言うように。




